マナン、集落へ
三人は岩石の散乱する通路を抜け、洞窟の入口へと辿り着く。
外に一歩踏み出した瞬間、夜の冷たい空気がカオルの肌を刺す。
吐く息が白い気がして、カオルは無意識に口元を押さえた。
森はすっかり闇に沈み、空には月だけが淡く浮かんでいた。
星は少ない。雲が薄くかかっているのか、月光だけが濡れた葉を鈍く照らしている。
「外は……もう殆ど真っ暗だな」
ウォルは深く息を吐きながらそう呟く。
その声には、安堵と疲労、そして“まだ終わっていない”という警戒が混じっていた。
その足取りはまだ不安定だったが、自分の足で歩こうとする意志ははっきりと見て取れた。
膝がわずかに揺れても、踏み直して前へ出る。
カオルはその横を歩きながら、胸の奥に残る戦慄の余韻を振り払えずにいた。
ーー洞窟の静寂、魔獣の咆哮、血の匂い
ーーそれらがまだ頭から離れない。
そんな彼の肩を、ウォルの太い腕が軽く叩く。
「どうした、カオル?」
短い衝撃。だが確かな温もり。
生きている――その事実が腕を通じて伝わり、カオルはほんの少しだけ現実へ引き戻された。
「早く帰って、親父に魔獣はカオルと”旅人””が倒したって伝えないとな。
自警団の連中、きっと喜ぶぜ」
”旅人”
他人行儀な言い方を、ウォルは敢えてしているような口ぶりだった。
─────
一方で、マナンはそんな闇の中でも落ち着き払っていた。
「へぇ……洞窟の外は森だったんっすねぇ」
彼女はきょろきょろと辺りを見回し、まるで観光客のような表情を浮かべる。
青い瞳には好奇心と高揚が宿り、この夜の森すら新鮮な光景として映っているようだった。
恐怖の残り香が漂うはずの場所で、彼女だけが別のテンポで呼吸している。
「ほぁ~、凄いっすねぇ、立派な木ばかりっす!!」
マナンは洞窟の入口から一歩踏み出し、大きな樫の木に手を伸ばす。
指先で樹皮をなぞると、ざらりとした感触に彼女は楽しそうに目を細めた。
「……人工物ばっかりの場所より、こういうのも悪くないっすね」
――ただし、帽子の影が、彼女の内にある“何か”を隠したまま。
そんな横顔を、カオルは少し気にしていた。
─────
「この森から集落までは、遠いんすか?」
「いや、そうでもない。少し歩くが……足元が悪いから気をつけろ」
「それなら、ちょっと待つっす!!」
ウォルが歩き出そうとした、その瞬間だった。
マナンの声に、二人は足を止めて振り返る。
「こんなに暗いと歩くの大変っすからね……
たしかここら辺に……あっ、あったっす!!」
と言い、彼女は懐から何かを取り出す。
「へへ〜ん。”すっごいアイテム”っす!!」
彼女の手には、青白い光を放つ小さな鉱石が握られていた。
囚われた月光の欠片のようなその石は、握り込まれると同時に輝きを増し、闇を柔らかく押しのける。
足元から腰の高さまでが淡く照らされ、三人の影が不思議な形で地面に伸びた。
「……眩しい」
カオルが思わず呟く。
目が慣れていないせいで、光が刺さるように感じる。
照らされた影が伸びて、重なって、また離れる。
それだけのことが、今は妙に心を落ち着かせる。
「これは魔陽石っす。振動を与えると光る鉱石の一種っすね。
しかもこれはかなりの高純度。私のお気に入りっすよ!」
そう言ってマナンは、さらに強く石を握る。
青い光が脈動するように広がり、森の輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。
枝の一本、葉の端、足元の石
――闇に溶けていたものが、次々と“形”を取り戻す。
「どうっすか? 夜道もこれでバッチリっす!」
「……すごいな。こんな物、見たことがない」
ウォルは感心したように目を細める。
未知の光に、カオルとウォル、二人の獣耳がぴょこぴょこと無意識に反応していた。
─────
魔陽石の光を頼りに、三人は森を進む。
夜の森は静まり返り、足音だけが闇に吸い込まれていく。
たまに枝が折れる音がすると、ウォルの肩が僅かに強張り、カオルの耳が跳ねる。
マナンだけが「あ、鳥っすかね」と軽く呟く。
やがて森の縁に、小さな木造の家が浮かび上がった。
魔陽石の青い光に照らされて見える家は、昼間よりもずっと小さく、脆く見えた。
屋根に生えた草、傷んだ壁、欠けた窓。
集落から少し離れたその佇まいは、どこか孤独を孕んでいた。
「ここが……僕の家です」
「へぇ……」
カオルの言葉に、マナンは家を見上げる。
その目は、評価ではなく観察の目だ。
生活の痕跡を読み取ろうとしている。
それでも彼女の瞳は、興味深そうにその家を映していた。
「それじゃ早速――」
「待ってくれ」
マナンが戸に手をかけたところで、ウォルが声をかける。
「少しカオルと話がある。外で待っててもらえるか?」
「了解っす〜」
軽く手を振り、マナンは家の前に残る。
帽子の影が深く顔を隠し、魔陽石の青がその縁だけを細く光らせた。
「……さてと、いったいどんな辺境に飛ばされたんっすかね?」
「……全くしないマナの気配、幻種の獣人の子供、それに、魔陽石を知らない……」
「この家も……正直、ボロっちいっすね……だからといって、行くアテも……」
マナンは、ぽつりぽつりと独り言を呟き、屋根へと視線を向ける。
その瞳には、好奇心と同時に、どこか複雑な色が浮かんでいた。
“貧しさ”への同情なのか、“生活”への驚きなのか
――今はまだ、彼女自身にも判別できない。
─────
ランプの薄明かりの中、カオルとウォルは向かい合って座っていた。
狭い部屋。壁は薄く、外の虫の音がかすかに混じる。
けれど今は、その小さな生活音すら遠い。
「カオル、あの人の事、どうするつもりだ?
言っとくが、長い事集落に留め置くのは難しいと思うぞ」
ウォルの問いは真っ直ぐだった。
遠回しにしない。迷いを許さない。
「……そのことなんだけど、明日、団長にお願いしようと思う。
短い間でもいいから、集落で受け入れてもらえないかって……」
カオルは、覚悟して言った。言い終えると同時に、胸が少しだけ軽くなる。
「……今、なんて?」
「だから、マナンさんを、集落に……受け入れてほしいって」
ウォルの目が細まり、獣耳が揺れる。
「カオル、それは本気か?」
「……うん。本気、だよ」
ウォルはじっとカオルの目を見て、一言。
「……正直、俺は反対だ」
静かな声だったが、そこには重みがあった。
反対の理由は一つじゃない。
“危険”と“異常”と“秩序”。
集落の現実を背負っている者の声だ。
「お前だって、余所者が来ることが、どれだけ異常かわかってるだろ。もし悪意があったら——」
「そ、そんなのありえない!!」
カオルは立ち上がり、声を張り上げた。
「マナンさんは僕達を助けてくれた! あの人がいなかったら、僕も、君も……!」
言葉を発する喉が震える。
怒鳴っているのに、喉の奥に涙が残っている。
助けてくれた――その事実が、今のカオルの支えだ。
ウォルは背を向け、低く息を吐く。
――怒りではない。
――諦めでもない。
それは“分かっている”からこその溜め息。
「……それでも、親父は簡単には認めないぞ、外から来た奴を受け入れるなんて……」
ランプの火が揺れて、二人の影が壁に揺れる。
言葉の間に、焚き火の夜の記憶が差し込む。
“信じたい”と“守りたい”の衝突だ。
「それでも……僕は信じてる」
しばらくの沈黙の後、ウォルは振り返った。
「カオル……本気なんだな」
「……うん。」
ランプの光が、カオルの濡れた睫毛を照らす。
涙を拭く暇もなく、言葉だけで踏ん張っていた。
「例えすぐに旅立つとしても……外の世界を、僕たちは知るべきだ!!
彼女は知っている!! そして、教えてくれる!!」
「例えまたどこかに行っちゃうとしても……それが明日や明後日だったとしても……
マナンさんには、外の事を知らない僕達の事を知って貰いたいんだ!!」
ウォルはしばらく考え込み、やがて立ち上がった。
拳が緩み、肩の力が落ちる。
決断は簡単じゃない。
でも――カオルの目を見て、折れた。
「カオル」
そして、不意にカオルを抱きしめる。
「……立派になったな」
胸に当たる体温が、現実の重みを持っている。
その温かさに、カオルは言葉を失う。
「ウォル……」
「明日、集会所に連れて来い。親父には俺から話しておく」
「……!! ありがとう!!」
ウォルは照れ隠しのようにカオルの髪を乱暴に撫で、外へ向かった。
─────
外へ出ると、月光と魔陽石の青が混ざり、森の影が薄く揺れていた。
マナンは家の前にいて、帽子の縁を指で弄んでいた。
「あっ、終わったっすか~?」
「……マナン、さん」
「およ? 何っすか? そんな真剣な顔して……」
「すまなかった」
ウォルは深く頭を下げる。
「最初に疑ってしまったこと、謝らせてくれ」
言葉は短いが、頭の下げ方は深い。
彼なりの誠意がそこにある。
「……大丈夫っすよ。気にしないで欲しいっす」
マナンはにこりと笑い、彼の手を掴んだ。
その動きは軽く、けれど拒絶を許さない勢いがあった。
「仲直りの握手っす! これからよろしくお願いするっすよ!」
月明かりの下、二人の手が固く結ばれた。
ウォルの手はまだ少し硬い。
マナンの手は温かい。
その温度差が、これから始まる“同道”の不確かさと希望を同時に映していた。




