マナンと、ウォル
カオルが、ウォルにこれまでの経緯を説明しようと口を開きかけた、その瞬間だった。
「……ちょっといいっすか、カオルくん……」
肺に空気を入れて、言葉を組み立てようとした矢先、
耳のすぐ脇に――温度のある声が落ちる。
マナンの声は、意図的に抑えられていた。
さっきまでの軽い調子とは別人のように、音の端が鋭い。
カオルが振り向くと、彼女は真剣な眼差しでカオルを見つめていた。
冗談めいた軽さは微塵もなく、唇がわずかに固く結ばれ、目だけが急いでいる。
「カオルくんの話を聞いて考えたんっすけど……
多分、私が“人間”だって説明したら……親友君、ウォル君は、間違いなく私を警戒するっす」
その言葉に、カオルの背筋がじわりと冷える。
確かにウォルは、自分よりずっと鋭い。
――命を一度失いかけた者の目は、優しさより先に危険を嗅ぐ。
「だからここは、私が旅の途中で偶然ここに来た、ってことにしてほしいっす。
少なくとも、今は……”人間”と”魔法”に関しては、伏せておきたいっすね。」
カオルは一瞬だけ迷い、しかしすぐに小さくうなずいた。
「……分かりました」
迷いはあった。
でも、彼女がウォルを助けた。自分を助けた。
その事実が、今のカオルの判断を押した。
「助かるっす。帽子を被っていれば耳は見えないっすし。
あとは、私の話に合わせてくれるだけでいいっす」
カオルの視線が、先ほど自分が拾い、今は彼女の頭に収まっている尖った円錐形の帽子へと向かう。
確かに、深く被れば頭部は影に隠れる。
暗い洞窟ならなおさら、細部は見えないだろう。
ウォルが戻ってきたのは彼女のおかげだ。
その恩に報いたい気持ちも、確かにあった。
――隠す理由は分からないが、
自分と親友の命の恩人がそう言うなら、従わない理由はない。
─────
その内緒話が終わった直後だった。
「おい」
ウォルの低く、鋭い声が洞窟内に響き渡った。
空気が一瞬で張りつめる。
さっきまでの混乱混じりの声とは違う、獲物を見据える“狩り”の声だ。
「そこのアンタ。アンタは何者だ。何のために、ここにいる?」
剥き出しの警戒心が、痛いほど伝わってくる。
視線は帽子の影の奥へ、衣装へ、指先へ――
武器を持っていないか、危険な行動をする気配はないか、全部を測っている。
「アンタってのは、ちょっと冷たくないっすかね〜。命の恩人に対して……」
マナンが軽口めかして返そうとした瞬間、
「質問に答えろ」
ウォルの声が、それを断ち切った。
冗談が通じない。
軽さで逃げさせない。
その断ち切り方に、カオルは息を呑んだ。
(こんなウォルの真剣な表情、見たことない……)
これは、死を一度くぐり抜けた者の、剥き出しの警戒だ。
“次は絶対に死なない”という本能。そして
――一度死にかけたからこそ、人の嘘が怖い。
「……ただの旅人っすよ。ぶらっと立ち寄っただけっす」
――隠す理由は分からないが、
自分と親友の命の恩人がそう言うなら、従わない理由はない。
マナンは一瞬だけ口を閉じ、それから肩をすくめた。
声のトーンは軽いまま。
だが、その軽さは“平然の仮面”だとカオルには分かった。
「旅人……?」
ウォルは疑わしげに、彼女を頭の先から足元までじっと見回す。
長く沈黙が続けば、それだけで疑いは濃くなる。
カオルは焦り、割って入った。
「ウォル、そんなに警戒しなくても……大丈夫だよ」
「マナンさんは……君が倒れてるのを見て、介抱してくれたんだ」
言いながら、カオルは自分の胸の中の罪悪感を押し込める。
“倒れてるのを見て”――それだけじゃない。
彼女は、”死んでいた”ウォルを蘇らせた。
だが、その事実は今は言えない。
「そうっすよ〜。死にかけだった君に、私のとっておきの特製傷薬を、たっぷり使ってやったっす」
その言葉に、ウォルはゆっくりと自分の腹部を見下ろした。
――あるはずの傷が、ない。
食い破られ、確実に致命傷だったはずの痕跡が、完全に消えている。
皮膚は滑らかで、痛みもない。
触れれば触れるほど、逆に恐ろしくなる。
(……あり得ない)
(あの、腑を食いちぎられる痛みと恐怖、忘れるわけがない)
――完全に死んだと思った。反撃の隙すら与えられなかった筈の致命傷。
間違いなく、死を覚悟した。
それが、まるで最初から存在しなかったかのように――。
「……信じられない」
ウォルは低く唸るように言った。
「そんな治り方をする傷薬なんて、見たことも聞いたこともない
まるで”魔法”みたいじゃないか」
カオルの耳がピクリと動き、背中を嫌な汗が伝い落ちる。
マナンは、黙ってウォルの事を見つめていた。
「……」
視線が、カオルとマナンの間を行き来する。
“カオルが嘘をついているはずがない”
けれど、“目の前の現実も嘘みたいだ”
その二つがぶつかって、ウォルの目の奥が揺れている。
「ふふふ……なるほどなるほど、信じられない君の気持ちもわかるっす
でも!!私は旅人っすからね〜。君の知らない、
”魔法”のような“すっごいアイテム”、山ほど持ってるんっすよ!!」
マナンは胸を張る。
堂々とした調子。
疑いを“否定”するんじゃなく、“興味”にすり替える――話術だ。
「……すっごい、アイテム……だと?」
その言葉に、ウォルの声がわずかに揺れた。
警戒の奥に、確かな好奇心が芽生える。
ウォルは夢見がちなタイプじゃない。だが、現実がありえない以上、説明が欲しい。
そして何より――“生き延びる手札”の匂いがする。
(よし……食いついたっすね)
「興味あるっすか? 特別に、見せてあげてもいいっすけど」
悪戯っぽく笑うマナン。
わざと軽く、わざと楽しそうに。
相手の警戒を、尖った刃から丸い球へ変えるために。
「う~ん……ここじゃまたなにか起こるかわからないし、
とりあえず人気があって、落ち着ける場所に行きたいっすね~。
あとついでに、今日寝る場所も知ってたら教えてくれたら、見せてあげても~?」
“泊めろ”と言っている。
だが言い方は、断りにくい形で、しかも冗談みたいに。
ウォルの目が細まる。本能がまだ剣を抜きたがっている。
けれど、カオルは今、ここで刃を抜かせたくなかった。
「ウォル……」
「マナンさんは悪い人じゃない。信じてあげてほしい」
カオルが、真剣な眼差しで言った。
カオル自身も、半分は自分に言い聞かせていた。
信じたい。信じなければ、今ここで全部が崩れる気がした。
しばしの沈黙。
ウォルは、カオルの目をじっと見つめ――。
その目は“嘘をつくな”と睨む目ではなく、“お前がそう言うなら”と確かめる目だった。
「……分かった」
短く、だが重い返事だった。
ウォルの目から警戒の光は消えていない。それでも、刃を収める意思は伝わってきた。
「とりあえず、集落に戻ろう」
ウォルは立ち上がる。
わずかによろめいたが、踏みとどまる。
死にかけた体が、まだ完全に自分のものになっていない。
「あっ、無理は禁物っすよ。君はさっきまで――」
マナンが言いかける。
「問題ない。……アンタの言う通り、綺麗さっぱり治ってるみたいだ
信じられないが、自分の身体の中に不思議な感じすら」
言い方はぶっきらぼうだが、そこに含まれた意味は一つ。
――借りは認める。だが、まだ信用はしない。
─────
三人は出口へ向かう。
途中、誰も言葉を発さず、地面に残る黒い染みを見つめていた。
さっきまでそこにあった死と恐怖の名残。
足を踏み外せば、また引きずり込まれる気がして、誰も話せない。
「……今さらだが、カオル」
歩きながら、ウォルが言った。
「魔獣は、最終的にどうなったんだ
倒したのか? それとも、逃げられたのか?」
「えっと……それは……」
カオルの喉が詰まる。
“僕だけで倒した”と言えば嘘になる。
“マナンが倒した”と言えば、余計な疑いが増える。
そして何より、さっきの内緒話が頭を刺す。
言い淀むカオルの代わりに、マナンが即答する。
「カオルくんと協力して倒したっすよ!!」
「――は?」
カオルが凍りつく。
(マナンさん!?)
ウィンク一つ。
「いいじゃないっすか、本当の事っすし!!」
軽い。軽すぎる。
だが、その軽さが、場を壊さずに誤魔化す唯一の方法でもあった。
「……倒した? あのバケモノみたいな魔獣を?」
ウォルの声には、信じ難いという色が濃い。
「本当っすよ。トドメは私の“すっごいアイテム”っすけど、時間を稼いで弱らせたのはカオル君っす」
(……確かに、嘘じゃないけど……)
カオルは、何も言えず、小さくうなずいた。
「……マナン、さん」
ウォルの声から、敵意は薄れていた。
まだ警戒はある。けれど、“話を聞く余地”が生まれている。
「集落を案内する。あと、出来たらだな……その……
後で、その“すっごいアイテム”って奴を……見せてくれないか」
マナンは満足そうに笑った。
計算通りに、糸が引っかかった笑み。
三人の出会いは、ただの平凡な日常に別れを告げる。
――ここから、何かが大きく動き始める。
それはきっと、もう戻れない種類の“動き”だ。
カオルは胸の奥で、不安と期待が絡み合うのを感じていた。




