カオルと、人間
「……魔法……学院?」
マナンはゆっくりと、確かめるようにうなずいた。
「そう、魔法学院っす。……ん〜、何から説明したらいいんすかねぇ……。」
言いながら、彼女はほんの一瞬だけ視線を泳がせた。
さっきまでの軽口とは違う。言葉を選ぶときの、慎重な沈黙。
その声音には、どこか戸惑いと慎重さが混じっていた。
カオルは、壁一面に埋め込まれた魔曜石を眺めながら思索に沈むマナンの横顔を見つめていた。
洞窟の青白い光が、彼女の星空のような青髪に淡く反射する。
髪の一本一本が、水面の波紋みたいに光を拾って揺れる。
その姿は、まるで失われた文明の痕跡を前にした学者のようで、
軽い口調とは裏腹に、底知れぬ知性を感じさせた。
「カオルくんは、魔法について知ってるっすか?」
マナンが振り向き、そう問いかける。
――魔法。
その言葉が耳に届いた瞬間、カオルの意識は、過去へと強く引き戻された。
今は亡き集落の長老が、冬の夜、焚き火の周りに子供たちを集め、
遠い目をしながら語っていた、あの古い伝説。
外では風が唸り、雪が家々を叩いていた。
焚き火の火の粉がぱちぱちと弾け、揺れる橙の光が子供たちの顔を照らす。
寒さで身を寄せ合いながら聞いたその声が、今も鮮明に脳裏によみがえる。
─────
遥か昔、人間は魔法という不可思議な力を自在に操っていたという。
炎を生み、空を飛び、傷を癒す――
それら奇跡のような力を、人は総じて「魔法」と呼んだ。
長老はその言葉を口にするたび、どこか躊躇っていた。
伝えるべきだと分かっているのに、語りたくないものを語っているような――そんな渋い顔。
その話を聞いていたウォルが、目を輝かせながら言った。
「もし本当にそんな力があったら、魔物からカオルや集落のみんなを簡単に守れるのに!」
無邪気な夢。
あの頃のウォルは、未来を疑わなかった。
けれど、すぐに長老が静かに制したことも、カオルは覚えている。
火の爆ぜる音の合間に落ちた、沈黙の重さを。
だが魔法は、やがて繁栄を極めた人類そのものを滅ぼし、
世界を終焉へと導いた原因になったとも伝えられていた。
力を持ちすぎた人間は、いつしかそれを争いに使い始めた――。
集落の伝承において、魔法は希望ではなかった。
それは過ぎ去った過去の忌まわしい遺物であり、
人々の悲鳴と共に世界を焼き尽くした、呪いの力として語られていた。
焚き火を囲み、長老は震える声で言った。
「カオル、力を持ちすぎてはいかん」
「強すぎる力は、自分だけでなく周囲をも巻き込む。
力とは、弱きを助け、悪しきを挫くために使われねばならん……」
その言葉は、今もカオルの胸の奥に重く沈んでいる。
怖かったのは、長老の話そのものではない。
長老が、怖がっていたことだ。
“知っている者”の恐怖は、子供の空想を一瞬で現実に変えてしまう。
─────
――そして、つい先ほど。
光の矢が魔獣を貫き、光に包まれたウォルが息を取り戻した光景が、はっきりと脳裏に蘇る。
眩しさ。衝撃。粒子の舞。
そして、戻ってきた“鼓動”。
あれは間違いなく、伝承の中で語られていた魔法そのものだった。
「ま……魔法……ですか……?」
震える唇から、かろうじて音がこぼれる。
「そう。魔法っすよ。」
マナンの澄んだ瞳が、まっすぐにカオルを捉えていた。
その視線は、隠すつもりのない事実を静かに突きつけてくる。
「知って……ます。でも……」
「でも?」
「その力は……失われたって、聞きました……。」
マナンは顎に手を当て、わずかに眉を寄せる。
言葉の裏にある“この世界の常識”を、丁寧に探るように。
「う〜ん……失われた、っすか。」
洞窟の青白い光が、彼女の髪を淡く照らし、その表情に思索の影を落とす。
「……もしかして、この世界では、魔法はもう存在しないものだって思われてるんすかね……?」
その言葉は、静かに、しかし確実に、カオルの胸を打った。
伝説としてしか知らなかったものが、現実として目の前に立っている。
しかも彼女にとっては、それが当たり前で、学ぶ場所すらある。
その事実を、彼はまだ受け止めきれずにいた。
「そういや、人間って言っても、全然ピンときてない感じっすし……。」
マナンは独り言のように呟き、再び魔曜石へと視線を向ける。
(ここ……人間も魔法も知られてない世界っすかね……?)
(いや、だったら魔法そのものが使えないはず……?)
(まぁ、言葉が通じてるってことは、全くの別世界ではなさそうっすね……)
彼女の姿は、まるで失われた文明の断片を繋ぎ合わせようとする探究者のようだった。
軽口の裏で、状況を冷静に測り、地図のない場所に地図を描こうとしている。
カオルは、その横顔を見つめながら、人間と魔法――
二つの存在が現実になった重さに、心を整理できずにいた。
獣耳が小さく震え、心臓が早鐘のように打つ。
伝承が、現実に追いつかれた。
追いつかれた瞬間、逃げ場がなくなる。
言葉を選び、恐る恐る口を開こうとした、その時。
─────
「う、うぅん……あれ? カオル……?」
かすかな声が洞窟内に響いた。
その声は、かつて確かに失われたはずの温度を持っていた。
夢じゃない。幻でもない。
耳の奥のどこかが、熱を持って震えた。
「ウォルッ!!」
カオルは弾かれたように駆け寄り、汚れた手でウォルの手を強く握りしめた。
握った瞬間、指先がほんの少し返す――その微かな力だけで、胸が崩れそうになる。
「僕のこと……分かる……?」
ウォルの瞳はまだ定まらず、ぼんやりと宙を彷徨っている。
瞬きは遅く、まぶたが重そうだ。
息が浅く、喉が鳴る。
「……俺……どうなって……?」
瞬きのたび、青白い光が彼の瞳に反射する。
ウォルは床に手をつき、起き上がろうとするが、体は思うように動かない。
筋肉がまだ現実の重さを思い出せていないみたいに、ぐらりと揺れる。
そして、何度か小さく揺れた後、ようやく上半身を起こし、警戒を帯びた視線で周囲を見回す。
「っ!! 魔獣はッ!?」
叫び声が洞窟に反響する。
既に存在しない敵を探すように、ウォルは牙を剥き、拳を床に叩きつける。
反射的な動き。身体が勝手に戦う形を取ってしまう。
その姿は、まだ戦場から抜け出せていない兵士のようだった。
「魔獣!? もういないよ!!」
カオルは慌てて肩を押さえ、必死に告げる。
強く押さえすぎたと気づいて、力を緩める。
触れた肩は温かい。生きている温度がある。
「カオル……本当か……?」
荒い息のまま、ウォルはカオルの表情を食い入るように見つめる。
嘘を許さない目。
――いや、嘘じゃなくて、現実を確認したい目。
やがて視線はマナンへと移り、その異様な存在感に、さらに警戒を強めた。
ウォルの世界に、突然“知らない存在”が入り込んだ。
それだけで、彼の本能は牙を剥く。
マナンも黙って見返す。
その青い瞳には、軽さの奥にある複雑な感情が揺れていた。
救ったという安堵と、説明しなければならない面倒さと、そして――ほんのわずかな戸惑い。
ウォルは深く息を吐き、ゆっくりと頭を振る。
だが、その体はまだ、完全には緊張を解いていなかった。
「良かったっす。親友君、ちゃんと目を覚ましたんっすね!!」
マナンが明るく声をかける。
その声に、洞窟の空気がわずかに緩む。
カオルの肩の力が、ほんの少しだけ落ちる。
しかしウォルは鋭い目を向けたまま、
「……誰だ?」
と、短く問いかけた。
低い声。
警戒の刃が、言葉にそのまま乗っている。
「あっ、自己紹介が遅れたっすね。私はマナン。マナン=エリクシルっす。よろしくっす〜」
飄々と名乗るマナンに対し、ウォルの警戒は解けていなかった。
握っていた拳が、まだ硬い。
視線が、まだ鋭い。
呼吸が、まだ浅い。
――彼の世界は、まだ完全には現実を受け入れていなかった。




