カオルの、違和感
不思議な力でウォルを甦らせたマナンは、今、床に座り込んでいた。
さっきまであれほど眩しく燃え上がっていた光は消え、
残っているのは石の冷たさと、血と埃の匂いだけ。
洞窟の青白い光が、彼女の輪郭を薄く縁取り、どこか現実から浮いたように見せている。
星空のような青髪が石の冷たさに触れ、先ほどまで透き通って見えた肌は、
命の色を失ったように白い。
まるで、体の芯から生命力だけをすくい取られたかのようだった。
肩が落ち、背中がわずかに丸まっている。
あの魔獣に向かって立っていたときの鋭さも、笑っていた軽さもなく、
――ただ“消えそうな存在”がそこにいる。
─────
「あれ……? マナンさん……」
声をかけようとして、言葉が喉の奥で絡む。
近づきたいのに、怖い。
今触れたら壊れてしまいそうで、足が一歩遅れる。
マナンの胸元は小刻みに上下し、かすかに聞こえる呼吸は浅い。
息切れした小鳥が必死に空気を探しているような、頼りない音だった。
その音を聞いた瞬間、カオルの背中を冷たいものが走る。
――助かったはずのウォル。
――そして、代わりに倒れるようなマナン。
嫌な想像が、頭の隅で膨らみかける。
カオルは、そこでようやく“もう一つの違和感”に気づく。
視線が、彼女の頭部へ引き寄せられる。
先ほどの魔法の暴風で、大きな帽子が飛ばされていた。
洞窟の薄暗い隅で、円錐形の帽子がひっくり返っている。
あの帽子は、彼女の“異物感”を象徴するみたいに、今は無防備に転がっていた。
そして――
「獣の耳が……ない……!?」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど鋭かった。
マナンの頭には、この世界の住人なら当たり前に備えているはずの”獣耳”がなかった。
そこにあるのは、滑らかな髪の流れだけ。
異様なほど“普通”の輪郭が、逆に現実味のない衝撃として迫ってくる。
――ありえない。
耳がないなんて。
それは、人として欠けているという意味じゃない。
この世界の常識そのものが、欠けている。
カオルの獣耳が、思わずぴくりと震えた。
脳天を指先で弾かれたように、思考が跳ねる。
「当たり前っすよ……だって……私は……」
マナンは息を整える余裕もなく、弱々しく言う。
言葉が途切れ、喉の奥で空気を探すような間が入る。
「“人間”……っすから……」
「に……人間……!?」
その一言が、カオルの中で重く落ちた。
─────
人間――それは、遠い昔の伝説の中にしかいないはずの存在だ。
物語の中にだけ棲む、滅びた種。
自分とは関わりようのない言葉。触れれば煙のように消えるはずの概念。
なのに、それが“目の前で息をしている”。
カオルの胸が、妙にざわつく。
世界の足場が少し崩れるような感覚だった。
マナンは、驚くカオルの反応すら読んでいたように、苦笑まじりに続ける。
「むしろ、私からすると“幻種”って呼ばれてた獣人の子供が、
一度に二人も目の前に現れたことの方が衝撃っすけどね……」
幻種。
その単語が、また別の方向からカオルを殴った。
自分たちの“当たり前”が、相手にとっては“伝説”の側にある。
そう言いながら、彼女は帽子の方へ手を伸ばす。
だが、腕は途中で止まり、指先が空を掴む。
痩せた震えが、力の残量を物語っていた。
「あっ……」
カオルは迷わず立ち上がり、帽子を拾う。
先の尖った円錐形――どこか儀式めいた神秘の形。
それはただの帽子ではなく、彼女を“彼女”たらしめる装置のようにも見えた。
その帽子を、壊れ物を扱うようにそっと運び、マナンのそばへ差し出した。
「いやぁ……感謝するっす」
マナンは受け取ると、帽子の中へ手を突っ込み、ゴソゴソと探る。
布の擦れる音が妙に大きく聞こえる。
カオルは、その仕草を見つめながらも、頭の中では「人間」という単語がこびりついて離れなかった。
「おっ、あったっす」
マナンが取り出したのは、小さな瓶だった。
光を受けてきらきらと反射する、薬の小瓶。
蓋を開け、中身を口に含むと、彼女は一気に飲み干す。
喉が動き、細い首筋の筋が浮く。
飲み込む音が、洞窟の静寂に落ちた。
「ぷはぁ……。やっぱりこの薬、まずいっすね……」
苦々しい表情と同時に、金色の光が彼女の体から立ちのぼった。
それは洞窟の青白い光とは違う、温度を持った光だった。
乾き切った大地に沁みる雨のように、マナンの全身へ静かに広がっていく。
白さに支配されていた肌に、じわりと血色が戻り始めるのが見て取れた。
指先に力が宿り、肩の落ち方が少しだけ変わる。
呼吸が深くなり、胸の上下が安定していく。
やがて、光がやさしく彼女を包み込む。
肩に力が戻り、背筋がゆっくり伸びる。
光が収まったとき、そこにいるマナンは――
ウォルを甦らせる前と同じ、飄々とした気配を取り戻していた。
「あぁ……いやぁ、しっかしこの特性マナアンプルの浸透効果ってのは相変わらずすごいっすね……。
私が作ったんで自画自賛っすけど」
ふっと笑う。
さっきまでの危うさが嘘のように、青い瞳には悪戯っぽい光が宿っている。
“倒れた命”が一瞬で“元気な人”に戻る――その落差が、かえって不気味なほどだった。
カオルは、ただ呆然と見入った。
あまりにも劇的な回復。
さっきまで消えかけていたのに、今は普通に喋って笑っている。
安心より先に、現実感が追いつかない。
「……もう、大丈夫なんですか?」
声に、不安が滲む。
目の前の血色の戻った頬を見ても、白くなっていった瞬間の恐怖が、胸の奥に残っていた。
マナンは胸を張って、明るく言う。
「バッチリっすよ!! 心配してくれたんっすか~?」
次の瞬間、彼女はカオルを抱き寄せた。
体温が、腕越しに伝わってくる。
さっきまでの冷えが嘘みたいに、ちゃんと温かい。
母親以外の女性に抱きしめられる――それだけでカオルの体は硬直した。
視線の置き場が分からず、床の模様を彷徨う。
「ありがとうっす!! 君がいてくれてよかったっすよ!!」
耳元で響く声。頬をくすぐる息。肩に触れる髪。
そして、胸元の柔らかな感触が、容赦なく現実として押し寄せる。
背筋に、ビリッと熱が走った。
顔がかっと赤くなる。動けない。
鼓動だけがやけに大きくて、体の内側で暴れていた。
「よ……ヨカッタデス……」
ようやく絞り出した返事は、かすれて震えていた。
マナンは肩を軽く叩き、くすりと笑う。
「あらら、声ちっさいっすね~」
指先がふわりと浮き、カオルの頭を撫でる。
驚きで小さく息が漏れ、獣耳が反射的に震えた。
撫でられるたび、耳が勝手にピコピコと反応してしまうのが悔しい。
─────
「さぁて、これからどうするっすかねぇ?」
マナンは周囲を見回しながら歩き出し、部屋の奥へ進んでいく。
「う〜ん……壁に埋め込まれてるのは魔曜石っすかね、
多分……。このサイズのを壁面全周に大量に仕込むとか、どんな金の使い方したんっすかねぇ……」
指差しながら独り言を続ける背中に、カオルは意を決して声をかけた。
「あのっ! マナンさん!!」
歩みは止まらない。
「どうしたっすか?」
振り返りもせず、軽い調子で返ってくる。
「マナンさんはいったい……何者なんですか……?」
「何者、とは?」
「だって……」
カオルは言葉を探す。
服装も、言葉遣いも、使う力も――何もかもが、自分の常識から外れている。
封印の扉からの登場。魔獣を貫いた光。魂を戻す“リザレクション”。
そして何より、獣耳のない頭――。
「マナンさんは……」
マナンが、ふと立ち止まった。
ゆっくり振り向き、青い瞳でまっすぐカオルを見る。
その目は、ふざけていない。
軽口の奥に、別の層がある――そんな気配を孕んでいた。
「……人間っすよ。マナン=エリクシル、18歳。
ここに来るまでは、カリオス魔法学院って所で学生をやってたっす」




