ウォル、散る
「ん~っと、とりあえず、お互い自己紹介しないっすか?」
突然の提案に、カオルは数拍遅れて反応した。
さっきまで死を確信していた。
扉が開き、光に呑まれ、理解不能な音声が響き、目の前に少女が“構成”された。
状況が現実に追いついていないまま、心だけが空転している。
「あ……はい。」
呆然とした意識を無理やり引き戻されるように、カオルは少女の言葉に応えた。
「僕は……カオルって言います。」
言った瞬間、ようやく自分の名前が“現実”に繋がった気がした。
「私はマナンっす。よろしくっす!」
少女――マナンは屈託のない笑顔を浮かべ、右手を差し出す。
その笑みは、さっきまで洞窟を支配していた死の気配とは場違いなほど明るい。
カオルはその仕草に一瞬戸惑いながらも、ぎこちなく手を伸ばし、握手を交わした。
触れた指先から伝わる温度がやけに生々しく、彼女が“現実の存在”であることを否応なく突きつけてくる。
温かい。柔らかい。生きている。
それだけで、胸の奥が少しだけほどけ
――そして次の瞬間に、締めつけられた。
(何か……忘れている)
「とりあえず、ここを少し調べるっすかね。」
マナンは軽い調子でそう言い、部屋の中を見回し始めた。
まるで散歩にでも来たような足取りで、床の文様の上をひょいひょいと渡っていく。
(何か、とても大事なことを)
「それにしても……こんな構造の遺跡? 初めて見るっすねぇ……この床、一方通行転移に特化した魔法陣っすか? 趣味悪いっすねぇ~!!」
独り言を並べながら、床を触り、壁をなぞり、部屋の奥へ進んでいく。
指先が水晶の縁をなぞるたび、かすかな反射が走る。
彼女はそれを観察しているようでいて、どこか“慣れている”動きだった。
(今すぐ、思い出さないと……)
その瞬間、胸の奥を締めつけていた不安が、はっきりと形を成す。
喉の奥に詰まっていたものが、一気に噴き上がる。
「……ウォル!!!!!」
叫びは、洞窟の奥へと投げつけられた。
反響が遅れて戻り、空虚に散る。
「きゃっ! いきなり叫ばれると心臓に悪いっすよ!」
マナンが驚いて振り返る。
「あ……す、すみません……」
謝りながらも、カオルの視線は扉の外――崩れた壁の向こうに釘づけだった。
「ふぅ……別にいいっすけど……。ウォルって誰っすか?」
カオルは息を詰めるようにして、必死に言葉を繋げた。
胸が痛い。肺が押し潰される。
怖くて、言いたくない。でも言わなきゃいけない。
「さっきみたいな魔獣が……もう一匹いて……僕の親友が……!」
言い終わる前に、喉が震えた。
“助けて”という言葉にならない悲鳴が、言外に滲む。
「もう一匹!?」
マナンの表情が変わる。
軽さが消え、目の焦点が鋭く合う。
空気が一段冷えたように感じた。
「それなら、急がないといけないっすね!!」
そう言って、彼女は迷いなく駆け出した。
「案内します!!」
カオルも後を追う。
身体は重い。足がもつれる。
それでも走る。走らなければならない。
「ウォル!!」
─────
二人は崩れた壁を越え、広間へと飛び出した。
――そして、そこでカオルは“見てしまった”。
血塗れの顎を、満足げにぺろりと舐める、漆黒の魔獣。
その舌がねっとりと動くたび、鉄の匂いが濃くなる気がした。
その足元。
腹部から引き裂かれ、内臓を食い荒らされ、
黒く濁った血溜まりの中に横たわる
――ウォルの亡骸。
─────
「……あ……」
声が、出なかった。
洞窟を満たす青白い光が、あまりにも残酷なほど鮮明に、その光景を照らし出していた。
影は逃げ場を失い、現実だけが剥き出しになる。
ウォルの顔は、驚きの表情のまま凍りついている。
見開かれた瞳は虚空を映し、その奥にあったはずの光は完全に失われていた。
(……違う……)
頭の中で、必死に否定の言葉が回る。
(これは……夢だ……。さっきまで……一緒に……)
ついさっきまで、腕を掴まれた感触があった。
声があった。熱があった。
戻れ、と言われた。走れ、と言われた。
だが、鼻腔を突く鉄臭い血の匂いと、
肉を引き裂かれた痕跡が、それを無慈悲に否定する。
「う……ぐ……っ……」
視界が歪み、音が遠ざかる。
耳鳴りがして、世界が薄紙の向こうに退いていく。
膝から力が抜け、身体が前のめりに崩れ落ちた。
喉の奥から漏れた音は、もはや言葉ですらなかった。
嗚咽だけが、かろうじて生きている証のように震える。
ウォルの手は、何かを掴もうとするように伸ばされたまま。
その指先は、偶然か、それとも最後の意志か――
かすかに、カオルのいる方向を向いていた。
(……嘘だ……)
(助けるって……言ったのに……)
(僕が……戻ってこなかったから……)
罪悪感が、針のように胸に突き刺さる。
胸の奥が、ぐしゃりと潰れる感覚がした。
マナンは、カオルの表情からそっと視線を逸らし、
ゆっくりと魔獣の方へと顔を向ける。
その瞳からは、先ほどまでの軽さは完全に消え失せていた。
冷たく研ぎ澄まされた殺意だけが、静かに燃えている。
「……カオルくん。立てるっすか?」
問いかけは、返事を期待していなかった。
状況を確認する言葉であり、同時に“命令の前触れ”でもあった。
カオルは、嗚咽を漏らすことしかできない。
小さな身体は喪失感に押し潰されていた。
洞窟の青白い光が揺れ、
ウォルの凍りついた表情を、さらに残酷に浮かび上がらせる。
そして――空気が変わった。
マナンの全身から、魔獣への殺気が立ち上る。
目に見えないはずの圧が、肌を撫で、背筋を冷やす。
「カオルくんッ!! 立ちなさいッ!!」
怒号が洞窟を震わせた。
反響が重なって、まるで洞窟そのものに叱責されたように響く。
カオルは、はっとして顔を上げた。
マナンの瞳には、悲しみと同時に、必死の光が宿っている。
彼女の手が胸元のペンダントに触れ、その宝石が鈍く輝いた。
その光は、さっきの軽い彼女を消し去る。
――ここにいるのは、“助けに来た誰か”ではない。
――“戦う者”だ。
「さっきと同じっす。あなたは時間を稼ぐっす。」
「……」
言葉が出ない。出るはずがない。
喉の奥が、泣き声で塞がれている。
「復讐しないと!」
「敵を取らないと!!」
「親友くんに、顔向けできないっすよ!!!」
その言葉が、崩れかけていたカオルの心に、無理やり杭を打ち込んだ。
(……ウォルの……仇を……)
仇。復讐。
その単語は本来、今の自分に似合わない。
けれど、似合うかどうかなんて関係ない。
今、立たなければ
――ウォルの死は“そこで終わる”。
─────
震える手で涙を拭い、短剣を引き抜く。
足はまだ重かった。
膝が笑い、腕が震え、視界の端が滲む。
それでも、立たなければならなかった。
「うぁぁぁぁぁああああああああああ!!」
叫びとともに、カオルは走り出す。
涙で濡れた視界を、無理やり前へ固定する。
魔獣が、赤い瞳を細めた。
獲物を変えた、というより――邪魔者を排除する目だ。
「グォォォォォオオオオオ!!!」
唸り声が洞窟を裂き、
巨大な牙が剥き出しになり、影が跳ねた。
漆黒の巨体が宙を切り裂き、カオルへと襲いかかる。
――親友の血が冷えきらぬその場所で、
復讐の戦いが、始まろうとしていた。




