マナン、現る
「”グルゥゥゥゥゥアアアアア!!!!”」
目の前には魔獣、背後には開かずの扉。
絶望に押し潰されるように、カオルは封印の扉の前へと崩れ落ちる。
膝から力が抜け、支えることもできず、冷たい石の床に身体を打ちつける。
そのまま伏し、顔を上げることすら億劫なまま、ただ迫り来る魔獣を見上げた。
瞳は焦点を失い、揺れる影を追うこともない。
そこに宿っていたのは恐怖ですらなく、すべてを諦めきった虚ろさだった。
まるで――自らを差し出すかのように。
涙が頬を伝い、洞窟の冷たい地面へと落ちていく。
獣の耳は恐怖に耐えきれず、完全に伏せられている。
灰色の髪に埋もれ、外界の音を拒絶するように、ぴたりと動かない。
――逃げ場はない。
――助けは来ない。
「……うぅ……っ」
魔獣の黒い影が床を這い、悪魔の手のように伸びてくる。
巨大な存在感が、空気ごとカオルを包み込もうとする。
─────
だが、その瞬間だった。
『転送魔法の受信要請を検知。扉の施錠を解除します。』
無機質で、感情の欠片も感じられない声が、洞窟の奥からではなく
――まるで、空間そのものから直接、頭の内側へと流れ込んできた。
「……え……?」
意味を理解するより先に、カオルの虚ろだった瞳が、わずかに揺れた。
焦点を失っていた視線が、ゆっくりと現実へと引き戻されていく。
直後――。
背後にそびえていた封印の扉。
そこに刻まれた古代の文様が、青白い光を帯びて輝き出した。
闇を塗り潰すような光が、洞窟の奥まで一瞬で押し広げられる。
長年沈黙していた石壁や床までもが、その光を反射し、空間そのものが染め上げられていった。
脈打つように明滅する光は、文様の細部――細かな溝や傷までも鮮明に浮かび上がらせる。
そして――奇跡は、起こる
――ギ……ギギ……。
固く閉ざされ、決して開くことはないと信じられていた扉が、不気味な軋み音を立てながら、ゆっくりと開き始めた。
骨が擦れ合うような音が、洞窟全体に反響する。
カオルは呆然と立ち尽くしたまま、思考を放棄し、ただその光景を見つめていた。
同時に、彼へ迫っていた魔獣の動きが、ぴたりと止まる。
漆黒の巨体は、見えない力に縛られたかのように硬直し、爪一本動かせない。
喉から漏れかけた唸り声すら、途中で押し潰される。
洞窟に訪れたのは、時が凍りついたかのような静寂だった。
聞こえるのは――カオル自身の心臓の音だけ。
激しく脈打つ鼓動が、頭蓋の内側を叩き、耳鳴りのように響く。
ずぅぅぅぅぅん――。
重苦しい低音とともに、封印の扉は完全に開き放たれた。
内側から溢れ出した青白い光が、涙に濡れたカオルの頬を照らし出す。
その光は温かくも冷たくもなく、ただ異様に澄んでいた。
「……ぁ……」
声にならない音を漏らしながら、カオルは、まるで操られるように立ち上がる。
考えることも、疑うこともできない。
ただ、その光に引き寄せられるまま、一歩、また一歩と踏み出した。
─────
扉の先に広がっていたのは、先ほど見た異質な大空間ほどの広さはない。
だが、明らかに同じ系統の、現実から乖離した不可思議な空間だった。
床には円形の文様が刻まれ、淡い青白い光を放っている。
その輝きは、生き物の呼吸のようにゆっくりと脈動し、
恐怖で麻痺していた感覚を強引に揺り起こした。
『警告。タイムスタンプが受信元と一致しません。警告――』
『管理者権限により、強制接続を確立します。受信を開始します。』
『座標入力完了。マナ充填を開始します。』
無機質な声が、重なり合うように響く。
それに呼応するかのように、床の文様が一段階、強く発光した。
次の瞬間――。
突如、暴風が巻き起こった。
空間が歪むほどの風圧が、カオルの身体を押さえつける。
足は床に縫い止められ、一歩も動けない。
濡れた頬は急速に冷え、服は激しくはためく。
まるで、存在そのものをこの場から引き剥がされるかのような感覚だった。
(な、何が……起きてるんだ……!?)
風は轟音へと変わり、洞窟を満たす。
扉の外で、魔獣が低く唸る。
だが動けない。
漆黒の体は光を受け、油膜のような虹色を帯びて歪み、赤い瞳だけが光の中心を凝視していた。
未知の力への畏怖。
本能が、踏み込めば終わると告げている。
巨体は、見えない鎖で地面に縫い止められたかのようだった。
光と風は、さらに激しさを増す。
熱を帯びた青白い輝きが、濡れた髪を一瞬で乾かし、肌に焼けるような痛みを与える。
風は針の群れとなって全身を突き刺し、感覚を削り取っていく。
(もう……立っていられない……!)
身体が枯れ葉のように押し流され、砂粒や小石が容赦なく叩きつけられる。
痛みすら、次第に遠のいていく。
細めた視界の先。
空間の中心で、光が一点に収束し、抗いようのない力の渦を作り出していた。
もはや直視できないほどの輝き。
(なんだ……この光は……ここで……何が……)
視界は完全に白に染まり、意識と感覚の境界が曖昧になる。
『受信完了。構成を開始します。』
光が、形を持ち始める。
輪郭が生まれ、四肢が描かれ、人の姿を成していく。
カオルは、ただ呆然と、それを見ていた。
魔獣もまた、今にも飛びかかりそうな緊張を帯びながら、輝きの中心を凝視している。
─────
「……うわぁ。最悪。どこに飛ばされたんっすかね~……まったく……」
光の奔流の中心から、声がした。
先ほどまで響いていた無機質な音声とは、明らかに異なる。
生身の人間の、少し投げやりな声。
やがて、風が弱まり、光が収束していく。
静寂が戻った空間の中心に立っていたのは――
大きな円錐形の帽子を被った、一人の可憐な少女だった。
『構成完了。』




