カオル、洞窟へ
―――朝の光が朽ちかけた屋根の隙間から差し込み、古い木造家屋の薄暗い部屋を照らしていた。
狼の耳を持つ13歳の少年、カオルは、その光に目を細めながら、一人で寝るには些か持て余すほど大きなベッドから、ゆっくりと上半身を起こす。
起き上がって窓の外を見ると、もうすっかり日が昇っているようだった。
「ああ……やっちゃった……早く準備しないと」
カオルはあわててベッドから足を下ろす。冷たい木の感触が素足越しに伝わってきた。
部屋の隅に置かれた衣装箱から着替えを取り出し、素早く身にまとう。
普段、自警団の仕事で使う武具は壁に掛けたままだ。
革製の腕当てを留め、腰には古びた短剣を帯びる。その手際には、日々の繰り返しが刻み込まれていた。
彼は今日、朝から自警団の集会所へ行く予定だった。日が昇り切る前には起きるつもりでいたのに、すでに日差しは高く、家の周りの木々を明るく照らしている。
カオルは、空腹をごまかすように、昨日の帰りに手渡された干し肉に齧りつく。
塩気の強い肉の味が口の中に広がった。
そして、準備を終えると、軋む音を立てながら慌ただしく家の戸を開け放つ。
外のひんやりとした空気が頬を打ち、寝ぼけた頭が覚めていく感覚に包まれる。
周囲の森からは鳥のさえずりが聞こえ、それがまるで森の活気を伝えているようだった。
─────
カオルは早足で、歩き慣れた集落への小道を進む。
(すっかり寝坊しちゃった……)
自分の不精を反省しながら、歩みをさらに早める。
集落の外れにあるこの場所では、普段はほとんど人に出会わない。
いつもならそんなはずだったのに、今日は違った。進む先に人影が現れる。
「よぉ、カオル!!」
声を掛けてきたのは、カオルの親友である15歳の少年、ウォルだった。
赤い炎のように燃え盛る髪が、降り注ぐ日光を浴びて輝いて見える。
ウォルは、ライオンのような半円形の耳――黄褐色の毛がわずかに生えたそれをぴんと立て、活気に満ちた笑みを浮かべていた。
腰には鞘に収められた、黒く輝く長剣がぶら下がっている。
彼もまた、カオルと同じ自警団の一員だ。
「随分遅いお目覚めだな。自警団の皆はもう来てるぞ」
ウォルはにんまり笑いながら話しかける。その声には親しみと、からかいのニュアンスが混じっていた。
カオルは驚いて足を止め、素早く視線を合わせる。寝坊を指摘されたことに気づき、頬がわずかに熱を帯びた。
「あっ、ウォル……おはよう」
眠気と驚きの残る声で返事をする。
ウォルは腕を組んだまま、ゆっくりと近づいてくる。視線は、少し乱れた髪と慌てて着込んだ服に向けられていた。
「おはよう? もう遅いぞ。まったく、今日は朝から調子が悪そうだな」
「うん……」
事実を指摘され、肯定するしかないカオル。
「お前、昨日は何してたんだ?」
「少し夜更かししちゃって……でも大丈夫だよ。体調はなんともないし……」
「まぁ、そうならいいんだが……何かあったとき、お前は無理しかねないからな。困ったことがあったらすぐ言えよ!」
そう言って、ウォルは笑いかけた。
「ありがとう、ウォル……」
カオルも笑顔で応える。
「そうだ、親父がお前のこと探してたんだった。早く行こうぜ」
ウォルはそう言うと背を向け、集落の中心へ歩き始めた。
足取りは軽やかで、朝露に濡れた小道でも躊躇なく進んでいく。
カオルも、ウォルを追いかけるように歩き出した。
─────
二人は、名もなき集落を守る自警団の一員だった。
任務は、集落を守りつつ、周辺の広大な森や山に潜む野生動物や危険な魔物を討つこと。
時には集落外れにある古代遺跡から貴重な物資を確保するため、危険な探索に身を投じることもある。
集落の人口は三十人ほどだが、自警団のメンバーは十人ほどしかいない。
自警団は集落の若者たちで構成され、老人や幼子はそこに含まれない。
全員が体力に自信のある、働き盛りの者たちだ。
それはこの過酷な環境で生き抜くための、当然の掟でもあった。
誰も口には出さないが、人口の少ないこの集落では、役に立たない者は荷物になってしまう。
団員たちは、いざという時に自分たちが集落を守る為の最後の砦であることを自覚していた。
そしてカオルは例外的に、十三歳という若さでありながら、自警団の手伝いを任されていた。
─────
集落の入口に差し掛かったあたりで、二人は自警団の団長ルクスに出くわした。
ルクスはウォルの父親でもあり、彼と同様にライオンのような半円形の耳を持つ。
ただし毛色はより濃い茶褐色だった。年相応の白髪がこめかみに混じり、顔には幾重もの皺が刻まれている。
背中には鉄板のように大振りの大剣を背負い、その立ち姿は威厳と無骨さを象徴しているかのようだった。
「カオル、遅いぞ」
低く響く声には重みがあったが、明確な怒りは込められていないようだ。
それでもカオルは、心が少し縮こまるのを感じた。
「……すみません、団長」
か細く返事をし、視線を地面に落として深々と頭を下げる。
「……寝坊したのか?」
責める響きはない。それでも深い声が、肩を無言で押さえつけてくるように感じられた。
「……はい。ごめんなさい」
しばらく黙った末、やっとのことで答える。指先が震えていた。
─────
「あの~、団長。カオルを呼んだのは、怒るためじゃなくて、何か頼みがあるからじゃないんですか?」
ウォルが助け舟を出すように、冗談めかして言う。
ルクスは息子を一瞬見つめ、深く息を吐いてからカオルに視線を移した。
「……夜ふかしは体に悪い。早めに寝ることを心がけろ」
一度咳払いをしてから、本題に入る。
「さて、カオル。お前に頼みがある」
「ぼくに……ですか?」
「あぁ」
ルクスは少し間を置き、険しさ――わずかな懸念を滲ませた表情で言葉を続けた。
「村はずれの森の奥に、小さい洞窟があるのは知っているだろう?」
カオルは少し首を傾げたが、すぐに場所を思い出して頷く。
ルクスは深く息を吸い込み、厳しい口調で説明を続ける。
「最近そこに、魔物が現れるとの報告があったんだ」
そう言ってカオルの顔色をうかがうように目を細めた。
カオルは無言で頷くだけだったが、瞳の奥に浮かぶ複雑な感情を、ルクスは見逃さない。
「それでだ……その洞窟の調査を、お前に頼みたい」
「洞窟の調査、ですか……?」
不安に満ちた表情で問い返す。
自警団が訓練で使うこともある小さな洞窟
――カオルも知る場所だ。だが、そこに久しく魔物が出たとは聞いていない。
「ああ。洞窟の中に入って、様子を見てきてくれ。ただ状況を知りたいだけだ。危険がありそうなら、無理せず引き返してくれればいい」
ルクスの言葉に、カオルは不思議そうに返す。
「ぼくが……ですか?」
自警団の中でも自分はまだ若く、経験も浅い。危険があるかもしれない調査任務に、自分のような若輩者が向くとは思えなかった。
ルクスは疑問を察したように、少しだけ表情を和らげる。
「お前ならできると思ってな」
そう言って、肩を力強く――しかし優しく叩いた。
「洞窟の中は昼なら明るいし、構造も単純だ。それに……」
言葉を切り、カオルの顔をじっと見つめる。
「お前も自警団の一員として過ごしていくつもりなら、簡単な調査任務くらい、楽にこなせるようになってもらわなければな」
その瞳には期待が宿っていた。
カオルは押されるように小さく頷き、やや小さい声で了承する。
「わかりました……」
ルクスは続けた。
「あの周辺に生息するのは、スライムなどの未熟な魔物のはずだ」
言葉の切れ間に、唾を飲み込む音がした。
「だがな……昨日、見回りの団員から報告があった。洞窟の近くで奇妙な音がしたそうだ。警戒を兼ねて、念のため確認が必要だろう」
「もう一度言うが、調査だけで構わん。危険を感じたらすぐに引き返せ」
「だが、状況を正確に把握してくれなければ、集落全体の対応が遅れてしまう」
カオルは黙って言葉を受け止めていた。だが視線がわずかに宙を切り、遠い過去の嫌な記憶を辿るように目を細める。
ルクスはそれに気づかないふりをして、さらに言い添えた。
「念のため、ウォルも同行させるつもりだ。だが今回はお前に頼むわけだからな。判断はすべてお前に委ねる」
一瞬の静寂。ルクスとウォルは、カオルが口を開くのを待つ。
「……わかりました」
考え抜いた末の返答に、ルクスは力強く頷いた。
「うむ、頼むぞ。ウォルもな」
視線が二人の少年の間を行き来する。
─────
「わかったのなら、さっそく行ってきてくれ。暗くなる前に帰ってこいよ」
そう言ってルクスは振り返り、集落の中心――自警団の集会所へ向かって去っていく。
「無理はするなよ」
背中越しの言葉には厳しさと同時に、温かみが潜んでいた。
(無理は……するな……かぁ)
カオルはその後ろ姿を見つめながら、心の中で感謝をつぶやいた。
─────
隣に立つウォルが、カオルの肩にそっと手を置く。
「カオル、準備は大丈夫か?」
その声に、カオルは慣れた手つきで装備を確かめる。
背中の矢筒と弓の張り、足元の革靴の紐――緩みがないか確認し、問題がないことを確かめた。
そして、指先が腰の短剣の柄に触れる。
その重みと、使い古された小傷の感触が、カオルの緊張を、ほんの少し和らげてくれた。
「うん、大丈夫」
カオルの返事にはわずかな躊躇が混じっていた。不安と期待が入り混じった感情の表れだ。
自警団の一員として認められた喜びもあれば、初めて自分に任された任務へ赴く緊張もある。
視線が少し宙を泳ぎ、遠くに見える森の奥を彷徨った。
「じゃあ、行くぞ」
ウォルの声に、カオルは小さく息を吐き、静かに頷く。
視線を前へ戻し、集落の外れへ向かう足取りを踏み出した。
ウォルは少し離れた後ろから、その背中を見つめる。幼馴染の背が少し伸びたように感じられ、胸に温かいものがこみ上げた。
かつてのカオルの孤独な暮らしを知る彼だけに、この任務がどんな意味を持つのかを痛感している。
(カオル、お前なら大丈夫だ。きっと、いずれは俺よりも……)
心の中で呟く。
カオルが時折振り返るたび、ウォルは自信に満ちた笑顔で応えた。
その笑顔に、カオルの足取りが少しだけ軽くなっていく。
─────
森へ続く道には、小鳥のさえずりと、風が葉を揺らす音だけがかすかに響き渡る。
二人はしばらく黙々と歩き、やがて森の入り口に差し掛かった。
カオルは一瞬立ち止まり、深く息を吸い込んでから、再び歩き出す。
肺いっぱいに吸い込んだ空気にはまだ朝の冷たさが残っていて、緊張からくる火照りや焦りをわずかに冷ましてくれるようだった。
(……僕の、僕の初めての任務……)
─────
森へ入ると、日光は木々の葉に遮られ、周囲は急に暗くなる。
地面は柔らかい土と落ち葉に覆われ、だんだん足取りが重くなった。
カオルは無言で前を見据え、獣道のような細い道を進んでいく。
二人は木々を縫うように、黙ったまま歩いた。
しばらく進むと、やがて小さな洞窟が見えてくる。
「着いたな」
ウォルの言葉に、カオルは足を止めた。
「本当にこんな場所に魔物が……?」
「まぁ、弱いって話だし、戦闘訓練だと思えばいいさ」
少しおどけて言うウォルに、カオルは苦笑しながら答える。
「……そうだね」
「行くか?」
「……うん、行こう」
そうして二人は、洞窟の中へ足を踏み入れた。
こちらの作品はノクターンノベルで掲載していたものを再校正し、内容を充実させたものになります。
表現等に一部変更がありますが、大筋の話の流れは変えておりません。
ノクターン版はこちらに移行後公開を終了し、今後の掲載はこちらに一本化する予定です。




