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本音を隠す兄の話【後編】


 ◇




 暁人が訪ねてこなくなって、もう二週間が経つ。


 今まで毎日のように顔を合わせていたのは、暁人が自ら足を運んでくれていたからだ。それが当然のように続いていた日々が、今では遠い夢のように思える。寂しいし、物足りない。だが、今の俺は善意の家庭教師という立場を取っている以上、こちらから無理に呼びつけるわけにもいかなかった。

 暁人が会いに来るのをじっと待つ時間は、ただの忍耐ではなく、「この関係をどう維持すべきか」という、新たな対策を練る必要性を、静かに突きつけてきていた。

 暁人不足にイライラする気持ちを抑え、なんでもないふりで毎日を過ごす。講義を受け、課題をこなし、同級生と他愛ない会話を交わす。そのすべてが、どこか空虚だった。


 ふとした瞬間に、暁人の声が脳裏に浮かぶ。

「兄ちゃん、これわかんない」

「ねえ、今日も行っていい?」

 そんな言葉が、耳の奥で反響する。スマホの通知音に心臓が跳ねるほど反応してしまう自分が、情けない。

──会いたい。ただそれだけなのに。

 望みを口にすることもできず、暁人のいない日常を黙々とやり過ごすしかなかった。




 講義が終わると同時に、スマホを取り出す。無意識の、習慣化した動作だった。ポケットから滑り出すように手に取って、アプリを開く。地図が表示され、位置情報サービスが読み込まれる。画面の中央に、赤と黄色のマークが二つ、ほぼ重なるように点滅していた。


黄色は、俺。

赤は──


「……なんで……」


 思わず声が漏れた。講義室のざわめきが遠のいていく。

 画面の中で、赤いマークが確かに大学構内を示している。


「なんで、暁人が大学にいるんだ?」



 *


 なぜ暁人の居場所が正確にわかるのか。話は、少しだけ時を遡る。


 暁人のスマホ画面には、既に使われなくなって久しいアプリが一つ、ひっそりと紛れている。青いハートマークのアイコンで、「LIFE+LINE」という健康管理アプリだ。

 これはかつて、暁人がΩ性と診断された時、医師に「しばらくバイタルを記録するように」と指示された際、取り入れられたものだ。


 指先をカメラで撮るだけで脈拍や血圧が測れるという、当時としてはそこそこ便利な代物だ。これを使えば手間がないから、と言って暁人にダウンロードさせた。

 「これなら毎日できるね!」と嬉しそうにしていたが、案の定、最初の数週間で記録は止まった。それを見たときは、暁人らしくて笑ってしまった。


 まあ実際のところ、記録などどちらでも良かった。このアプリの目的は別にあったのだから。


 健康データの裏で、暁人の端末のGPSを常時取得し、俺のスマホに彼の位置を数分ごとに表示する。非通知モードにしてあるので、暁人は気付かない。


 もちろん、こんなアプリは公式ストアにはない。以前、俺が個人制作したアプリだから。


 高校生の頃、経済や統計に興味があって、データ処理の勉強のつもりでプログラミングを始めた。「位置情報を使って通学距離を可視化する」──そんな無害な題材で練習していた頃、暁人のΩ性が発現した。Ωはその特性から、さまざまな危険に晒されやすい。暁人の現在地の把握は、俺にとって急務となった。

 そこで、試作した位置情報共有アプリを暁人のスマホにインストールすることにした。暁人の居場所がわかれば、いざというときすぐ駆けつけられる。


 本人に説明することも考えたが──あの子は余計な不安を抱きやすい。「監視されている」なんて思わせたくなかった。だから、表向きは健康管理アプリということにして、静かに背後から見守ることにした。

 今になって思えば、変に偽装なんてしなくても良かったのかもしれない。普段からスマホの操作でわからないことがあると、「兄ちゃんやって」と丸投げしてきていたのだから。


 実はこのアプリ、健康データと位置情報以外にも、その気になれば暁人のスマホの履歴や写真、ファイルといった全てを見ることが可能だ。……今の所、プライバシーを侵害するほどの事由もないので、実行したことは“まだ”ないが。見るようなことが起こらないなら、その方がいい。


 倫理的には完全にアウトだ。分かっている。でも、法律や道徳なんてものよりも、暁人を守ることの方が遥かに重要だった。



 *




──なんで、暁人が大学にいるんだ?──


 スマホを持つ指がわずかに強張った。暁人がここにいる理由なんて、思い当たらない。誰かに会いに来たのか。──俺に?

(いや、それなら事前に連絡があるはず)

 ここ数日、俺のことを避けるように何の音沙汰もなかった。なのに突然、何の前触れもなく現れるなんて。

(どういうことだ……?)


 画面を見つめる。赤いマークは、確かに暁人の現在地を示していた。数分単位で更新される位置情報だ。誤差はない。

 気付けば講義室を飛び出していた。背後から名前を呼ばれたが、聞こえないふりをした。


 この大学には、多くのαが在籍している。彼らはΩの匂いにとても敏感だ。無自覚で無防備な暁人が構内を歩き回るなど、蛇のあなぐらにハムスターを投げ込むようなもの。あまりにも危険だった。


 

 赤い点滅を頼りに駆けつけると、ガラス窓のむこうに暁人の姿を見つけた。安堵する間もなく、隣に座る男が目に入る。男の手が暁人に触れるのを見た瞬間、まるで体中の血が凍りつくような、激しい怒りを覚えた。







「なんであんなところに一人でいたの?」


 先ほど、少し凄んだだけで尻尾を巻いて逃げ出した男の後ろ姿が、脳裏にちらつく。とがりそうになる声を抑えて聞くと、暁人はおどおどと目線をそらした。

「えっと……大学って、どんな感じのとこなのかなって思って、……だから……その……」

 明らかに嘘だった。だが、その拙い言い訳に、なんとなく彼の意図を察した。おおかた、思わぬ場所でばったり会って俺を驚かせたかったから……とか、そんな可愛いことでも考えていたのだろう、と。

 いつもならば愛しくてたまらないそのあざとさも、他の男のフェロモンのせいで潤んだ瞳で言われると、胸の奥がチリチリと焦げ付くような気がした。 

「危ないよ。この大学はαが多いから。中にはさっきみたいなやつもいるし。俺がたまたま通りかかったから良かったけど……」

 ことさら淡々と言う。だが、知らないうちにハンドルを握る手には力がこもっていた。


 あの男の顔には覚えがあった。

 確か教育学部の二年生。名前は……まぁどうでもいい。学業の傍ら、芸能活動もしていたはずだ。学生課に通報するのは当然として──それだけで終わるはずがない。

間宮のグループ傘下のすべての企業のCMで、彼が起用される可能性はこの先一切ない。

俺の一存で決めることではないが、母がこのことを知ればまず間違いない。母は、Ωとしての生きづらさを誰より知っている。だからαの横暴を決して許さない。そして、そんな母を誰よりも愛している父は、母の望み通り動くに違いないのだから。

 一般的に、Ωはその特性ゆえ最も社会的に弱い立場だと言われている。しかし唯一、つがいとなったαの前では、その立場は完全にひっくり返る……と俺は思っている。父がいい例だ。他人など、資源と効率としか見ていないような冷血漢が、母に対してのみその価値観のすべてを覆すのだ。

 母の前にはためらわず跪き、甘い声で愛を囁き、母が喜ぶと知ればどんなことでもする。

(俺もきっと、暁人とつがえばそうなるだろう)

 そんな妙な確信だけが、父との血のつながりをかろうじて感じさせる共通点でもあった。


 俺の、何よりも大切な暁人に手をだすなんて……。どんな手を使ってでも、必ず潰す。

(二度と陽の当たる場所を歩けないようにしてやる)

 こみ上げてくる苛立ちを、冷静な算段で無理矢理飲み込んだ。


「……兄ちゃん、なんか怒ってる?」

「暁人に怒ってるわけじゃないよ」


 自分の感情で精一杯になっていた俺は、傍らの暁人が悲しげな表情を浮かべていたことに、その時は気づいてやることができなかった。






  ◇






「もう、諦める。兄ちゃんのこと」



 暁人がそう言った瞬間、ビシッと何かがひび割れる音がした。

 頭のてっぺんから血の気が一気に引いていき、貧血のそれとは比べものにならない速さで、視界から色が消えていく。


(……諦める?)


 ドック、ドック、と心臓が自分のものとは思えないリズムで暴れ始める。このまま止まるのでは、という冷たい恐怖が背骨を伝って走り、脇腹を冷たい汗が伝った。

 次の瞬間、キーンと脳の奥で金属が軋むような耳鳴りがして、頭蓋の内側がぎゅっと締め付けられた。


「大好きだけど……大好きだったけど。俺のこと、弟としかみてくれないなら。……弟にしかなれないなんて、苦しすぎるよ」


 悲しそうに涙を拭いながらも、そう言い切った彼のつむじを呆然と見つめた。


 信じられなかった。暁人は、一体何を言っているんだ……?

(諦める……だと?)

 どういう意味だ? どうしてそんな言葉が出る?

 まさか……俺はいま“必要ない”と言われたのか?

 俺がいようがいまいが、自分は変わりなく生きていけると……暁人は今、そう言ったのか?

 一緒にいると苦しいから、俺を想うのはもうやめる、と? 

……そんな、馬鹿な。

 俺は、お前のいない人生なんて考えられないのに。お前は違うのか? 俺はそんなに簡単に、諦められる程度の存在だったのか……?


 何か言わなければと思うのに、喉の奥がひきつれて声が出ない。口を開いたら、そのまま嘔吐してしまいそうだった。


 彼が自分のそばを離れようとするなんて、今まで想像したこともなかった。暁人がいなくなると思うだけで、本能的な恐怖で体が竦む。この声が、この笑顔が、手の届かないところへ行ってしまう。背けられた顔が、去ろうとする背中が何度も何度も、脳内で繰り返し流れる。いやだ。イヤだ……嫌だ!

(絶対に……逃がさない……!)


 まるで視界が波のようにぐわんぐわんと揺れて、立っていられない。気が遠くなるなか必死に手を伸ばし、指先に触れたものを掴んだ。暁人の袖だ。



「兄ちゃん」

「………」

「ごめん、兄ちゃん。こんなこと、もう二度と聞かない。最後にするから……正直に答えて。俺のこと、本当は、どう思ってるの?」


 耳鳴りの中、ようやく聞き取った暁人の声は落ち着いていて……これが本当に、彼からの最後通告なんだと分かった。

 こみ上げてくる猛烈な吐き気を抑えて、水のような唾液を飲み下す。締め付けるような胸の痛みをこらえて、なんとか声を絞り出した。


「好きだよ」


 禁じられていた本当の気持ちを、ようやく打ち明けた。──なのに。

暁人の顔に、みるみる失望の色が広がるのを見て、胸の中がすうっと空洞になるような感覚に襲われた。予想外の反応に、一瞬対応が遅れた。そのまま部屋を出ていこうとする暁人の腕を、あわてて掴んだ。

「どこ、行くの」

「……帰る……」

「暁人」

「やだ……はなして」

 嫌がって振りほどこうとする仕草に、心が軋む。なぜ暁人がそんな反応をするのかわからなかった。

(だめだ、暁人……どうして?……逃げないで……)

 この手を離したら俺は死ぬ。まるで断崖絶壁にしがみついているような気分だった。


「もうっ……失恋したときくらい、ほっといてよ……っ」


 だからこそ。暁人の言葉には虚を突かれた。

「失恋? なんで」

「兄ちゃんは、俺のこと、好きじゃないんでしょ?」

「好きだよ」

「だから…そうじゃなくてっ! 俺が言ってるのは……っ」


 その時になって、ようやく理解した。

 暁人は、俺の告白を「弟として好き」と受け取っていたのだ、と。

暁人に見限られる恐怖でいっぱいいっぱいの俺にとっては、これ以上なく切実な告白だったのだが。

暁人にとっては、あまりに味気ない言葉に聞こえたのだろう。

 一世一代の告白も満足にできないのか、俺は……? などと深く反省する。

 ようやく血の気が回り始めた頭で、改めて目の前の暁人を見つめる。

「暁人」

 傷ついて、拗ねて、それでも俺のことを求めている……可愛らしいふくれっ面。

「暁人、こっち見て。……ほら、そんな顔しないで」

 自分でもぞわっとするほど甘い声が喉からあふれ出た。どうしてこんなに彼を愛しいと思うのか、わからない。彼に捨てられると思った瞬間、あれほどの恐怖に襲われるなんて……。自分のことながら理解が追いつかず、笑ってしまった。笑うしかなかった。

 そして、まだ戸惑いの残る表情のままの彼に、そっと口付けた。


 唇がかすかに触れるだけの、軽いキス。


「………えっ」

 暁人はまるで信じられないことが起こったように、呆然とした後、慌てふためいた様子を見せた。

「えっ? なに……えっ……?」


 キスだけでこんな反応をする暁人の幼さを見て、消えかけていた罪悪感が息を吹き返す。

「本当はダメなんだけど……」

 思わず、心の声が漏れた。

 でも今は、悠長に構えていたら一生後悔する。そんな確信があった。母との誓いを破ることになる。けれど、今だけは正直な気持ちを伝えなければならない時だった。


「俺も暁人が好きだ」

 そう言って、そっと暁人の頬を指でなぞる。ふわりと柔らかくて、指先を押し返すような弾力がたまらない。

「……もちろん、“こういう”意味で」


 くすぐったそうに首をすくめながら、暁人は目を丸くした。

「え……ほんと……ほんとに? 兄ちゃん、俺のこと……好き、なの?」

「うん。好き」

「本当に?」

「うん」

「エッチ、したいって……思う、くらい?」

 改めてはっきり確認しようとする暁人の率直さに、思わず笑みが溢れた。

 暁人が本当に俺と同じ気持ちなのかは、まだわからなかった。

 彼の気持ちが俺に向いてしまったのは、ただの刷り込みみたいなものだと言われれば……たぶん反論できない。


 それでも……もう彼を手放すことなんて、できなかった。

 たとえ偽善と言われようとも、暁人が自分の意思で選べる歳になったら……。

その時こそは、彼を完全に自分のものにする。──必ず。

「……暁人が大人になったら、ね」

 溢れそうになる気持ちをなんとか押しとどめて、優しく囁く。

 目を白黒させた後、暁人の顔は面白いくらい真っ赤に染まった。



 喜びに顔を輝かせた暁人が、俺を見つめた──次の瞬間だった。


「ふぇ……っ?」


 間の抜けた声。

 同時に、甘い香りが爆ぜるように広がり、肺の奥まで一気に流れ込む。息が詰まるほど濃い、Ωの匂い。


「──暁人っ!」


 崩れ落ちる体を、反射で抱きとめる。

「──兄、ちゃ……」

 縋るように呟いた後、暁人は腕の中で力尽きたように意識を失った。その体からは、途切れることなく甘い香りが立ち上っている。かつて体験したことのないほど濃密な……Ωのフェロモン。


 いつもならば軽々と運べるはずの体が支えきれず、一緒にその場に崩れ落ちた。


(……力が……入ら、な………)




────ほんのわずかな間、意識を飛ばしていたらしい。


 数十秒──もしくは、数分間。現実で過ぎた時間はおそらくそんなものだろう。


 隣り合うように倒れた暁人の意識はまだ戻っていないようだ。瞼は固く閉じられ、わずかに眉を顰めている。うっすらと開いた唇が、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。

……ふと。

 その瞬間、あり得ない光景が脳内をかすめた。



──桃色に染まる肌。

ボタンが飛び、ボロ布のようになった衣服。

涙で濡れた瞳。

俺を呼ぶ、震える声──。



(……違う。そ……んなはず、ない…)

 視線の先にいる暁人の服に乱れた様子はない。けれど、手のひらに生々しく残る、人肌の感触。

(夢……幻覚? それとも……)

 喉が焼けるように熱い。

 フーッフーッ……と獣のような息を吐きながらよろよろと体を起こした。肉体が、凶暴なほどの欲望を訴えている。

 床に触れた指先が、小さな筒をとらえた。オートインジェクター型の、α用の緊急抑制剤だ。中身はすべて空。

 混濁した意識のまま、自分に打ち込んだのだと気づく。

(どおりで……酷い気分なわけだ……)

 猛烈な吐き気に逆らえず、その場で嘔吐した。間違いなく、原因は抑制剤の過剰摂取。数十分前、暁人に抑制剤を飲ませた時、自分にも注射している。いま床に転がっている空の容器は、二本。

(短時間で三本は、かなり……キツイ)

 急に、金槌で後頭部を殴られたのかと思うような頭痛に襲われる。うずくまりたくなる体を必死で起こすと、暁人の体を抱え上げた。

(ここじゃダメだ。早く……暁人を、安全な所へ……)

 思いつく場所は一つしかなかった。


 よろけながら部屋のドアを押し開けた瞬間、階段を駆け上がる足音が響いた。振り返ると、作業着姿の男がこちらを凝視していた。見開かれた目はすわり、普通の状態じゃないことが一目で分かった。その背後から、清掃係の使用人がもう一人現れる。二人とも、俺の存在など視界に入っていないかのように、腕の中の暁人だけをまっすぐに見据えていた。

 爆発的に広がったΩフェロモンに当てられ、理性を失った者が集まって来たのだ。


 荒い息を吐きながら、作業着の男がふらふらと歩み寄ってくる。その姿を目の当たりにして、かつて声を震わせながら語った母の姿が脳裏に蘇った。


 飢えた獣の目で暁人を見据え、男がじわじわと距離を詰めてくる。ゾッと背筋が凍った。同時に、激しい怒りが噴き上がる。


「止まれ!」


 低い一喝。それだけで、まるで殴られたかのように男はハッと表情を変えた。怯えた目で俺を見つめ、その場にしゃがみ込む。清掃員の男も、凍りついたようにその場で固まった。

 だが、顔を伏せながらも、ちらちらと暁人に視線を向けてくる。その未練がましさがひどく不快だった。声に殺気を込めて、告げる。


「死にたくなければ、そこを動くな」


 脅しではない。暁人に指一本触れられたら、今の俺は手加減などできない。

αの力は制御を失えば、それだけで十分に致命的だ。床にうずくまった男は、どう見てもただのβ。俺に近づけば死ぬと、本能で悟ったのだろう。

 男はそれ以上、一歩も動かなかった。



 暁人を抱いて、屋敷の長い通路を歩く。その間、幾つもの物欲しげな視線が絡みついて来た。俺がいなければ、暁人がどうなっていたのか……考えるだけで肝が冷える。だが、俺自身の限界もすぐそこだった。過剰に打ち込んだ抑制剤が引き起こす、猛烈な副作用。割れんばかりの頭痛と吐き気で意識が朦朧とする。

 しかし、絶対にここで倒れるわけにはいかなかった。


 ぐらぐらと揺れる視界のせいで足元がおぼつかない。突然、片足が沈むように力を失い、そのまま膝をついた。

(早く……暁人を……)


まだ、こんなところで倒れるわけには……暁人だけは、守らなければ………


 誰かが近づいてくる気配に、反射的に腕の中の暁人を力一杯抱きしめた。彼を奪おうとするならば、相手の喉笛を噛み切る覚悟で鋭い視線をなげかける。


 白く濁った視界の中、小柄な人影が駆け寄ってくるのが見えた。

 その姿が“探し求めていた人”だと理解した瞬間、思わず天を仰ぎたくなるような安堵が胸に広がった。


「母さん...…暁人を……助けて……」


 それだけ言い終えた途端、体の力がふっと抜け、視界が斜めに傾いた。


 駆け寄ってきた母は──なぜか、着物を襷掛けにし、柄の短い薙刀を手にしていた。儚げで優しいはずの母が、まるで戦場に向かう武家のような姿で立っている。

(……これも、幻覚か……?)

 朦朧とした頭で、そう疑ってしまうほど現実離れして見えた。

 しかし、

「よく頑張りましたね」

 そう言って撫でてくれる手は、間違いなく母のものだった。その温もりに触れた瞬間、張りつめていた何かが切れ……意識は闇に沈んだ。




 次に目を覚ましたのは、それから二日後だった。体を起こせるようになるまでには、さらに二日を要した。


 原因は、やはり許容量を遥かに超えた抑制剤を使用したせい。往診に来た医師には、「今回助かったのはただ運が良かっただけ。次はきっとない」と怖い顔で告げられた。

 死にたかったわけではないが、今回の行動には何一つ後悔はなかった。ただ母を心配させたことについてだけは、申し訳ないと思った。





「……心配をおかけして、すみませんでした」

 俺はそう言って頭を下げた。


 初冬の光が障子越しに差し込み、和室全体がやわらかく照らされていた。

 南向きのこの離れは、母が一日の大半を過ごす場所。緑に囲まれた静謐な空間で、父が母のために設えた純和風の離れだ。

 井草の香りがほのかに漂い、目の前では母が淹れてくれた緑茶が小さく湯気を立てている。


 龍郷柄の大島紬を丁寧に着こなし、母は凛とした姿勢で正座している。

 しばらく沈黙が続いた後、母は穏やかに口を開いた。

「謝らなくていいのですよ。あなたはあの状況で、暁人くんをよくぞ守りぬきました。母として、誇らしく思います」

 少し間を置いて、母はその儚げな美貌を曇らせた。

「……でも同じくらい、叱りたい気持ちもあります。もう二度と、あんな無茶をしてはいけません」

 俺は目を伏せた。あの時は他に方法がなかったとしても、母を悲しませてしまった以上、言い訳は無意味だった。

「……すみませんでした。結局、途中で倒れてしまいましたし……。母さんが駆けつけてくださらなければ、暁人は……。本当に、ありがとうございました」

 すると母は、小さく息をつき、苦笑にも似た表情を浮かべた。


「律。私はお礼を言われるようなことはしていません。私があの場に駆けつけたのは──……」


 一旦、言葉を切る。母はじっと俺の顔を見つめ、静かに続けた。

「もし、暁人くんの身に何かあれば……それがもし、“あなたによるもの”であれば……私はあなたを斬り、そして私も、その場で果てるつもりだったのですから」

 思わず目を見開いた俺を、母の静かな眼差しが受け止める。

 あの時。俺が暁人の意志を踏み越えないと誓った瞬間。母は母で、別の決意を抱いていたのだと悟った。


 母は小さく息を吐き、自嘲めいた笑みをこぼす。

「……過去に見た“最悪の光景”を思い出してしまったのです。今思えば、冷静ではありませんでした。あなたを斬れば、その後、暁人くんがどれほど自分を責めて苦しむか、考えもせずに」

 母の声は淡々としているのに、なぜかひどく痛々しく響いた。


「だからこそ余計に。あなたがあの子を庇うように抱きしめている姿を見たとき……私がどれほど救われたか、わかりません。私は過去の出来事に囚われて、あなたを信頼しきれていなかった。そんな愚かさに……あなたが気付かせてくれました」


 障子越しの陽光が、畳の目地を白く照らす。衣擦れや吐息までも聞こえるほど、あたりは静寂に包まれていた。

「貴方たちが共に過ごせるように……これからは私も、できる限り協力したいと思っています」

 母は静かに締めくくった。

「身勝手な母だと思われるかもしれませんが……今はただ、あなたが無事に帰ってきてくれたことが、何より嬉しいのです」

 その一言に胸が熱くなる。

「……母さん。本当に……ありがとうございます」

一度息を整え、そっと続けた。

「俺も……まだ未熟です。だからもう少しだけ、隣で見守っていてください」


 母は無言のまま、優しく微笑んだ。




 ***


 体調が戻るのを待って、高梨家へ挨拶に伺った。暁人が安心して、無邪気に笑っていられる日々を守るため、これからもそばにいるつもりだと──その意思を、きちんとご両親に伝えるために。


 

 暁人が二十歳になるまで、あと二年弱。

 しかし、何も焦る必要はない。

 一緒に過ごせる今を、丁寧に積み重ねていきたい。求めているのは彼の体だけではない。彼の時間、彼の笑顔、彼の未来──そのすべてに寄り添っていたい。

 暁人が隣にいる。その事実こそが何よりも大切なのだから。



 ***



「兄ちゃん、こっち向いて!」

 振り返ると、スマホを構えた暁人がいた。写真を撮ったのか、確認するように画面を見ている。そして、

「眼鏡をかけた兄ちゃんも、めっちゃカッコイイね……」

 うっとりとした表情でぽつりと呟く。そういうのは本体に向かって言ってくれ、と思いながら笑って尋ねた。


「急にどうした?」

「うん、ちょっと。……ねえ、その時計、借りてもいい?」

 そう言って、暁人は俺の腕時計を自分の腕にはめた。大きすぎる時計が、暁人の華奢な手首でゆるく揺れる。そのアンバランスさが、妙に艶めかしかった。

 時計をつけた己の手首を、暁人はスマホで撮影している。

「SNSに投稿するのか?」

 そう聞くと、ちがうよ、と首を横に振った。


「別に……兄ちゃんとのこと、誰かに宣言しなくたっていいし。兄ちゃんが俺のそばにいてくれるのは、これからもずっと変わらないんでしょ?」

「それはそうだな」

「まぁ……そりゃ、俺だっていつかは誰かに自慢したくなっちゃうかもしれないけどさ!」

 頬を赤く染めながら、暁人が照れくさそうに笑う。


「だけど、これは俺たちが二人で見る用の写真。この先、三十年とか四十年経ってから、ふとした日に『こんなこともあったね』って言いながら、二人で見たいの」


 はにかむ暁人のセリフに、咄嗟に声が出てこなかった。三十年、四十年先もずっと一緒にいることを、まるで当然のことのように言う。

「……それは楽しみだ」

 俺も手放す気はない。だからこれは決定事項。でも、それが暁人の口から出たというだけで、こんなにも俺の胸を熱く満たしてくれる。


「どうせなら二人で撮ろうか」

 そう言ってソファに座り、両手を広げる。すぐに暁人が当然のようにすっぽりと腕の中におさまってきた。胸に預けられた重みが、彼のまっすぐな信頼を物語っている。


「うまく入らない……」

 と、腕を精一杯伸ばす暁人の手から、

俺が撮るよ、とスマホを掠め取る。

「じゃあいくぞ。3、2——」

 カウントダウンしながら横目で暁人を見る。少し恥ずかしそうに、澄まし顔をしてレンズを見つめている。その柔らかな頬に唇を押し付けると、暁人の肩がびくりと震えた。

 その瞬間、シャッターを押す。

 他の誰とも共有できない一瞬を、一枚の写真の中に閉じ込めた。


 世界には見せない。

 俺たちだけのストーリーとして。





【end】


お読みいただき、ありがとうございました。

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