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本音を隠す兄の話【前編】




「兄ちゃん、恋人ができたんだね」


「……は?」

 突然の従兄弟の言葉に、俺は思わず手を止めた。脈が小さく跳ねる。

「何の話だ……?」

 昨夜、俺がなにをしていたかなんて、この子が知るはずがない。なのに……


「え……だって、昨日、デートだったんでしょ?」

 あどけなさを残す唇から飛び出してきた言葉に、思わず眉根が寄るのを感じた。


(誰だ? この子に余計なことを吹き込んだのは……)

 三歳下の従兄弟は、「俺は全然興味なんてないんですけどね?」という顔で、チラッと俺の方を見た。明らかに拗ねている。しかし、それを一生懸命隠そうとしているのが──そしてうまく隠せていると思い込んでいるのが、たまらなく可愛らしかった。


「なんだそれ……。どこで聞いた?」

 俺がそう言うと、彼はスマホの画面を向けてきた。

「イ◯スタのストーリー。これ、兄ちゃんの時計でしょ?」


 画面に映っていたのは、一枚の写真。

『夜景が綺麗』

 短いテキストと、夜景が見えるホテルの窓辺。サイドテーブルには、グラスと男ものの腕時計が置かれている。

(あいつ……ッ)

 明らかな匂わせ投稿に、思わず奥歯を噛みしめた。シャワーのために時計を外している間に撮られたようだ。


「その時計、兄ちゃんしか持ってないんでしょ?」

 あの腕時計が祖父から贈られた特別な品であることは、従兄弟にも話したことがあった。とぼけようにも、世界に同じ物が二つと無い特注品だ。


「別に、恥ずかしがらなくてもいいじゃん。この人、高校生の頃から有名人だったんだよ。すんごい美人だ、って」


 黙った俺をどう思ったのか、従兄弟がまた「俺は何とも思っていませんよ」という仮面をかぶって、そう言った。


(まさか二人が知り合いだったなんて。……失敗したな)


 その男と会うのは、昨夜が初めてではなかった。少し前に、出会いを目的としたアプリで知り合った。以来、お互い深入りしないことを前提に、割り切った付き合いをしていた。……はずだったのに。

 出会ったばかりの頃の彼は、さらさらの黒髪をしていた。恥ずかしそうに俯いて話すくせに、見上げる目は悪戯っぽくて。そこが少しだけ、年下の従兄弟を思わせた。

(だから何回か会ったんだけど……)

 現在のプロフィール写真の彼は、かなりイメージが変わってしまい、見る影もない。潮時だな……。忌々しい写真を眺めながら、内心ため息をついた。


「美男と美男で、お似合いだと思うよ」

 従兄弟がからかうように言う。


(暁人のほうが綺麗だよ)

 俺は心の中で、従兄弟にそう囁いた。




  ◇




 俺、間宮律のことを、三つ年下の従兄弟、高梨暁人は「兄ちゃん」と呼ぶ。

 それは昔から変わらない。暁人が言葉を覚え始めたころから、ずっと。


 俺の母は暁人の母親と姉妹だ。

俺を産んでから体調を崩しがちになった母に代わって、幼い俺の世話をしてくれていたのが伯母さん──つまり、暁人の母親だった。



 俺には幼少期の記憶がある。まだ乳飲み子だった頃の自分が、どんな色の産着を着ていたのか、どんなベッドで寝かされ、どんなおもちゃを持っていたのかまで、つぶさに覚えている。忘れてしまうのが普通だと知ってからは、家族以外に話したことはないけれど。

 これは、その幼い頃の記憶の話。

俺が二歳の頃、突然、伯母さんからたまらなくいい香りがするようになった。

匂いの元を辿ると、お腹のあたりだった。理由はわからなかったが、気づけば俺は夢中で伯母さんのお腹に話しかけていた。

「かわいいね」

「はやく、きてね」

「あいたい」

 俺の行動を笑って見ていた伯母さんは、後日、嬉しそうな顔で教えてくれた。

「私、妊娠していたの! りっちゃん、すごいわ。どうしてわかったの?」

 と。それから伯母さんのお腹はだんだんと大きくなっていき、やがて小さな赤ちゃんを連れて、うちに来てくれた。

「アキトっていうのよ。りっちゃん、よろしくね」

 伯母さんの腕の中で、小さな手を動かすその赤ん坊からは、あのときと同じ香りがした。その瞬間、俺は幼いながらに、はっきりと心に決めた。

──この子を一生、守るんだ。……と。



 俺と暁人は、まるで本当の兄弟みたいに時を共に過ごした。むちむちした腕も、ぷっくりとした頬も、涎だらけの顎も……すべてが可愛くて仕方がなかった。

 小学校に上がってからも、同い年の子の誘いを断って暁人とばかり遊んでいた。


 出生後の検診で俺はα、暁人はβと診断されていた。けれど、そんなことどうでもよかった。暁人がβだろうがαだろうが、関係ない。俺が一生を共にするのは暁人だ。そう決めていたのだから。


 もっとも、そう決めるには相応の覚悟が必要だった。

 俺の生家、間宮家は、地元ではその名を知らぬ者がいないほどの名家だ。かつては血縁に何よりも重きを置いていたらしいが、それも今は昔の話。若年の頃に海外企業へ身を置き、能力の有無だけが評価される環境で働いた父は、その経験をもとに、当主就任後は間宮家の仕組みを実力本位へと改めたのだ。たとえ血縁者であっても、能力がないと判断すれば容赦なく切り捨てる。その姿勢は、唯一の子である俺に対しても例外ではない。

 だが逆に言えば、この先、俺が「血統」や「跡継ぎ」などという理由で望まぬ婚姻を強要される心配もない、ということでもあった。



 ──ところが。

暁人が中学二年生になった頃、思いもよらないことが起きた。


 ある時期から体調不良が続いていた暁人が、後日「未分化のΩ」と診断されたのだ。

 未分化Ω──つまり、まだ完全に発現を迎えていない、あいまいな状態のΩ。


 その後の発育によっては、ずっとβとして生きてきた彼が、この先Ωとして生きることになるかもしれない、という話だった。

 俺は戸惑いを覚えた。正直なところ、心のどこかで「面倒なことになったな」と思っていた。


 案の定、彼の両親は俺と暁人を引き離そうとしてきた。

 表向きの理由は「名家の息子さんとの間に過ちが起きては申し訳が立たないから」というものだったが……彼らの本音は見え透いていた。αである俺から、息子を守ろうとしたのだ。

 だが、そんな理屈で俺が引き下がれるはずがない。そんな理由で彼と引き離されるなど、到底納得できなかった。


 俺は、暁人が生まれたその日から、ずっと彼のことを思い、大切にしてきた。何年も前から、暁人の魅力に抗いながら、彼を守り続けてきたのだ。

 それを今さら、診断が下されたからといって、一緒にいることすら禁じられるなんて……。

 そんな理不尽、受け入れられるはずがなかった。


 だから俺は、母にすべてを打ち明けることにした。





「あなたの気持ちは、よくわかりました」

 正座した母は、静かに頷いた。

「……でも、私はかつて、ヒートに触発されて正気を失ったαが、襲いかかってこようとする姿を……何度も、見たことがあります」

 そう言った母の顔は強張り、膝に置かれた指は震えていた。

「何度も、恐ろしい目に遭いかけた私を救ってくれたのは、いつだって姉さんでした。だから……私には暁人くんを守ろうとする、姉さんの気持ちも痛いほどわかってしまうのです」

 母は生まれつきのΩだった。Ω性の特徴といわれる儚げで美しい見た目をしており、そのせいで幼い頃から大変な苦労をしてきたのだ、と。伯母からそう聞かされたことがある。


「どんなに意思が強い人でも、普段はとても誠実で優しい性格の人でも……。本能に逆らうのは、それほど難しいということなのです。あなたは本当に、そうはならないと断言できるのですか?」

「自分では、そう思っています。しかし、それを証明するにはどうすればいいのでしょうか?」

 俺は背筋を伸ばし、姿勢を正すと尋ねた。母は少しうつむいてから、静かな目で俺をじっと見据えてきた。

「……信頼を得るには、相応の時間をかける以外、方法はありません。あの子がしっかりとした大人になるまで、絶対に自分の気持ちを伝えず、己の欲も押しつけないと……誓えますか?」

「『大人になる』とは、何歳のことでしょうか」

「……きちんと自分の意思と責任を持って、考えられるようになるまで……。少なくとも、あの子が二十歳の誕生日を迎えるまでは、私が許しません」


──暁人が二十歳になるまで、あと六年。


 それくらい、今まで過ごした時間に比べればあっという間だ。

「誓います。暁人が大人になるまで、この気持ちを一方的に押し付けるような行いは、絶対にいたしません」

 俺は、迷わず頷いた。



 後日、暁人のご両親のもとへと赴き、説得した。事前に母からも連絡がいっていたようで、話はスムーズだった。

「赤ん坊の頃から見てきた暁人に、俺が何かするわけないでしょう」

 そう言う俺を、暁人はキラキラとした瞳で見上げていた。でも、


「暁人のことは、弟のようにしか思えない」


 そう言った途端、その目はみるみる翳った。暁人が俺を慕っていることは感じていた。どうやらそれが兄弟愛ではなさそうだ、ということも。

 はっきり『弟』と明言したことで、突き放されたと感じたのかもしれなかった。


──違う暁人。俺は一度だってお前を弟だなんて思ったことはない。でも、今はこうでも言わないと、一緒にいさせてもらえなくなるだろ……?


 悲しそうに顔を伏せる暁人に、そう言ってやりたかった。

でも、できない。母との誓いを破ることになる。

 偽りない本音を苦心の末、飲み込んだ時。初めて俺は、これから耐えなければならない六年の苦しさを理解した。



 高校生になった暁人は、ますます可愛らしく成長し、彼の周囲には常にいい香りが漂うようになった。それはむせかえるほど強いものではなく、風に乗って届く花の香りのように、爽やかでほのかに甘かった。

 本人にΩの自覚はなく「自分はβのまま変わっていない」と思い込んでいるのが厄介だった。甘い香りに誘われて湧き出す有象無象から、警戒心のかけらも無い彼を守らなければならなかったから。

 虫除けに、己のフェロモンをなすりつけることも考えたが、そのせいで暁人の発育に影響が出るかもしれない。そう思うと、暁人が気づかない程度の、最低限のマーキングのみで対抗するしかなかった。



「えっ、兄ちゃんが勉強、教えてくれるの?」


 家庭教師を口実に、毎週末は暁人と二人で過ごす時間を確保した。

「やったぁ! 終わったら、一緒にゲームもできる?!」

「いいけど、終わってからだぞ?」

「わかった!」

 やった、やったぁと喜ぶ様子に目尻が下がる。兄として振る舞いながら、暁人を目一杯甘やかすことを楽しんだ。

 一方で、そばにいる時間が長くなるほど、彼の香りは俺の理性をじわじわと蝕んでいった。抑制剤を服薬しても、その効果を打ち消しそうになるほどの強い誘惑。すっかり参ってしまった俺は、ついに物理的な解決策をとることにした。

 出会いを目的としたアプリを使って、割り切った関係の相手を探す。後腐れなければ誰でもよかった。だが……無意識に、暁人と似たタイプばかりを選んでいたようだ。


 暁人を守るためとはいえ、暁人には知られたくない秘密がまた一つ増えてしまった。

 暁人が二十歳になった時、果たして俺を選んでくれるのか……少しばかり不安になることもある。けれど、彼を諦めるなど到底考えられなかった。

 暁人だけには汚い部分は見せず、俺を選ぶように仕向けていくしかない。

 そう思っていた。


 あの投稿を、見られるまでは。




  ◇




「投稿、見たよ」

 俺がそう言うと、テーブルの向こうに座る相手の口元が、言葉を飲み込んだようにぴくりと震えた。

 店内のざわめきが二人の間をすり抜けていく。いつも待ち合わせに使っていた洒落た店ではなく、雑多な居酒屋を選んだ。

「よく撮れてた」

「……ありがと」

 そう言って、少し吊り目がちな目で彼が見つめてくる。この目が気に入っていた。涙を滲ませながらも、強がるように見上げてくる目が。……暁人を、思い起こさせたから。

 俺は煙草を取り出すと、唇に咥えた。ライターで火をつける。口の中に苦い味が広がった。

 ふぅ……と細く長く、煙を吐き出す。目の前の男が煙たそうに顔を顰めた。

「別に……あのくらい、いいじゃん」

 俺の怒りを感じ取ったのか、紫煙の向こう側で、男は拗ねたような顔をした。自分のかわいさを心得たような言動が鼻につく。俺は顔に笑みを貼り付けたまま、ちりちりとした苛立ちを堪えた。

──同じことを暁人がしたら、どれほど可愛らしいか……。

 そう思いながら、またひと息、吸い込む。その煙を男に向かって吹きつけた。

「わざと見せつけただろ」

「……何?」

「投稿。友人限定にして公開するあたり、あざといよな」


 アカウントのアイコンの周りに、緑の輪が光っているのを見て気付いた。この男があの投稿を見せたかった相手は、ただ一人──暁人だったのだと。


「同じ高校の、部活の先輩……だって?」

 男は答えない。

 アプリで「偶然」知り合い、体の関係を持った相手の弟が、「偶然」かつて通っていた高校の後輩だった……そんな「偶然」、ないとはいえない。だが、直感が違うと告げていた。

 プロフィールに顔写真は載せていない。だが、この男はどうやってか、俺のことを知った上で近づいてきた。口をつぐんだまま顔を伏せる男の様子が、その確信を強固にする。


「……なんでそんなに怒るの」

 男の言葉に、片眉が勝手に跳ね上がった。

「……は?」

「どうして? あの子は、あなたにとってはただの弟みたいな存在なんでしょ? じゃあ、なんでそんなに気にするのさ?」

「お前には関係ない」

 吐き捨てて、煙草を灰皿にねじ込んだ。

「じゃあな」

 テーブルにお代を置くと、素っ気なく立ち上がる。慌てて男も立ち上がり、追いかけてきた。

「ごめん、まさかそんなに怒るなんて思わなかったんだよ……っ」

 男の声に店内の客が数人、振り返った。

「もうしないから! また会ってよ、お願い……!」

 周囲の視線を気にする様子もなくすがりついてくる腕を、静かに振り払う。


「なんであの子なの……? なんで俺じゃダメなの……!?」


 背後から裏返った声が追いかけてくる。けれど、振り返らず店を後にした。



 車に乗り込んで、ため息を吐く。久々に吸った煙草のせいか、気分が悪かった。

──なんで暁人じゃなきゃダメなのか、だと?

「そんなこと、俺が知りたいよ」


 彼が生まれる前から、ずっと。甘く絡みつくような香りに、俺は囚われ続けている。





 ◇





 暁人は学校の勉強があまり得意ではないようだ。

 今もテーブルの向かいで、参考書を睨みつけながら懸命に内容を頭に叩き込もうとしている。そのひたむきな姿は、「どうにか力になりたい」と思うのに十分すぎる理由だった。

 本人の努力を裏切るように、成績は思うように上がらない。知識の土台が不十分なのか、それとも勉強の仕方が身についていないのか──。いずれにせよ、俺は再び基礎から教え直し、いくつかの方法を試してみた。だが、今のところ目立った成果は見られない。

 もちろん、学校の成績が人生において絶対的に重要だとは思わない。だが、本人にやる気がある分、見ていて胸が痛んだ。


「少し休憩するか?」

 気分転換になればと思って声をかけたが、暁人はしょんぼりとしたまま、顔を上げようとしない。


「ごめんね、兄ちゃん。俺、すぐに覚えらんなくて……」


 どうやら目前に迫った大学受験のせいで、いつもよりナーバスになっているようだ。

「謝る必要なんてないよ。暁人は頑張ってるんだから」

 そう励ましてみても、彼の中にある不安は、簡単には消えないらしい。


「兄ちゃんはもう、将来なにするか決まってるんでしょ? すごいなぁ……」


 暁人が、憧れを込めた目で見上げてくる。


「あーあ。かっこよくて頭が良くて、背が高くてお金持ちで……そのうえ可愛い恋人までいるなんてさ。完璧すぎてズルい。不公平だ!」


 間宮グループの現会長は、俺の父親だ。一人息子の俺が、いずれその地位を継ぐものと思っているのかもしれない。現実はそう単純でもないのだが。

「どうかな。そう簡単にいくか、わからないけど」

 俺は苦笑して、濃いめのお茶を一口飲む。次の瞬間、その手が止まった。


「いいなぁ。……俺もせめて恋人くらい欲しい……。兄ちゃん、いい人紹介してよ」


 暁人はテーブルに突っ伏したまま、そう呟いた。

 見え透いた挑発だと分かっていた。だが、胸の奥がじわじわと熱を帯びる。湧き上がる苛立ちをひっそりと押さえ、余裕綽々の笑みを浮かべて見せた。

「……お前にはまだ早い」

 暁人が拗ねたような顔で見上げてくる。

「俺、来年高校卒業なんだけど?」

「だから?」

「全然早くないよ。クラスでも、もう何人も初体験済ませてるって話だし。遅いくらいだって」

「そんな連中と一緒にするな。お前はお前のペースでいいんだ。この先、本当に好きな人ができたときのために、大事にしておきなさい」


 我ながら「どの口が言うんだか」と思う。

 だが、暁人が誰かと──たとえママゴトでも──付き合うなんて、想像しただけで胸が焼けるように苦しかった。


 保護者のようなことを言った俺に向かって、暁人は悔しそうに唇を尖らせ、「うーーっ」と唸ってきた。

(なんだそれ……可愛っ……)

 不意打ちの仕草に、危うく抱きしめそうになる。なんとか理性で押さえ込み、代わりに彼の頭をそっと撫でた。


「暁人は可愛いから、おかしな奴に目をつけられないか、心配だよ」

 少しだけ冗談めかして、誤魔化すつもりだった。なのに──

「……俺、可愛い?」

 机に頬をつけたまま、暁人がじっと俺を見上げてくる。精一杯かわいく見せようとする、そのあざとさが妙にいじらしい。仕草そのものより、俺の気を引こうと必死になっている姿が、愛らしくてたまらなかった。

 暁人も、多分俺のことが好きなんだろう。……だが、まだ早い。

 ここからは自分との戦いだった。


「うんうん、可愛い可愛い。可愛い暁人はもうすぐ試験だろ? いい子だからこの公式も覚えような?」

 わざと軽く受け流し、暁人の目の前に参考書を突きつけた。

「またそうやって子ども扱いするっ」

 俺ももう子ども扱いなんてしたくないよ。だから早く、大人になってくれ……。

そんな本音を隠して揶揄っていると、暁人が急に爆弾発言をかましてきた。


「これでも最近、“俺と付き合わない?”ってDMもらったりしてるんだからね!」


 一瞬、腹の底がきゅっと冷えた。

「………へぇ」

 画面に浮かぶ文字列が、妙に生々しく胸を突く。少しおちゃらけた感じで、しかし文面からは隠しきれない本気のニュアンスが滲み出している。

「それ……、知り合いか?」

「うん。バイト先の先輩。でもタイプじゃなかったから断ったけどね」


 バイト先だと? つまり、今も繋がりがあるということか。胸の奥が胸の奥がざわめきに掻き乱される。


「まぁ知り合いなら別にいいけど。SNSは成りすましも多いからな、気をつけろよ」


 俺は動揺を見せまいと、努めて保護者らしく振る舞った。だが、的外れな心配と澄ました声は、自分でも滑稽だと思うほどわざとらしい。かえって狼狽していることを露呈しているようにも思えた。


「……で? そいつは、ちゃんと諦めたのか?」

「ちゃんとって?」

「告白を断ったせいで嫌がらせされたり、付き纏われたりはしてないか? 後々トラブルになるって話、よくあるだろ…?」


 暁人の返事は、再び俺を仰天させた。


「うん、大丈夫だよ。あの人、いい人だから。俺がΩだって知ってからは店でも色々と気を遣ってくれるし……」


「何……?」

 感情が声に乗ってしまったようだ。暁人が『しまった』という顔をした。


「何でそいつが、暁人がΩだってことを知ってるんだ?」

「……えっとぉ……」

 言いづらそうな暁人に、先を促す。

「……いや、別に俺が話したわけじゃないんだよ? ただ……」

「ただ?」

「……初めてヒートっぽくなったのが、その……バイト先にいる時でぇ……バレちゃった、っていうかぁ……」


ヒート? ヒートだって?!

俺以外の男が、暁人の危ういほど甘い香りを嗅いだ──?


 想像しただけで、胸の奥がぐらりと煮えたぎる。その男を殴りつけたい衝動に駆られ、拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みでようやく我に返る。


「……ヒート、来てたのか」

 こみ上げる怒りを押し殺し、低く囁いた。

「いつ頃? 何で俺に言わなかった」

「だって……」

「だってじゃないだろう」

 思わず声が厳しくなる。

「ごめんなさい……。でも、もう半年以上も前の話だし。それに、ヒートっていってもすごく軽くて、聞いてた話と全然違ってたから。多分、大丈夫かなー……って」

「大丈夫? 何が大丈夫なんだ?」

「……このまま、兄ちゃんと会ってても……」

 暁人は気まずそうに目を逸らして、続けた。

「俺……普通のΩに比べて、出るフェロモンの量がすごく少ないみたいなんだ、だから……」

 下を向いたまま、ぽつりぽつりと言う。

「このまま兄ちゃんのそばにいても、迷惑かけることはないと思った、から……言わなくても大丈夫かなって」


 思わず重い息が落ちた。暁人の肩が、ぴくっと震える。


(半年以上も前、だって……?)

 最近、理性のタガが緩くなったような気がしていたが……気のせいじゃなかったわけだ。

 ヒートを迎え、改めてΩとして覚醒した暁人の匂いの変化に、知らず知らず触発されていたんだろう。


 そもそも、暁人は大きな勘違いをしている。俺がそばにいても大丈夫なのは、暁人のフェロモンが弱いからじゃない。ひとえに俺の我慢と忍耐の賜物だ。

──フェロモンの量が少ない、だと……?

 馬鹿をいうな、と叱りつけたくなった。


(まったく、こっちの苦労も知らないで……)


 ついつい、口調にも疲れが滲んでしまった。


「……またその話か。いいか、暁人。俺はお前の嫌がることを無理やりするつもりはない。どんなことがあっても、それだけは絶対にない。断言できる」

「わかってる……」

「それに、お前はまだ子どもだ。子ども相手に発情するほど、俺は見境のない人間じゃないぞ」

「……わかってるってば……」

「暁人にヒートがきたことを知らないままだと、もしもの時きちんと対処できないかもしれないだろ? だから……、おい、ペンを噛むな」

 膨れっ面の暁人が、手に持ったシャープペンの端を噛んでいる。指摘すると、バツが悪そうな顔で手を下ろした。

 小さい頃から、暁人は不満を抱えると何かを噛む癖があった。

 さすがに少し言いすぎたか、と反省する。


「わかってるよ……」

 そう呟くと、暁人はテーブルの上を片付け始めた。

「俺……帰る」

「暁人」

 呼びかける俺を振り返りもせず、ドアに向かって歩き出した。

「じゃあ……またね、兄ちゃん」

「暁人っ」

 バタン、と音を立ててドアが閉まった。



「……クソっ」

 一人残された部屋で、吐き捨てる。さっきまで向かい合っていた椅子だけが、ぽつんと残っていた。


 たまらない。もどかしい。

 暁人がどんな言葉を欲しがっているのか、分かっている。でも、それはまだ伝えられない。


 母に誓いを立てた時、「ほんの数年待つだけ」だと思っていた。

そんな愚かな自分を殴りつけてやりたい。


 両手で顔を覆い、深々とため息を吐いた。




【後編に続く】


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