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兄ちゃんに恋した俺の話【後編】

 ◇



 あれから、もう二週間。兄ちゃんとは会っていない。


 月曜から中間テスト期間に入っていて、学校は午前中だけ。いつもより早い時間の電車は空いていて、珍しく座ることができた。

 俺は腰を下ろすなり、スマホをカバンから取り出した。メッセージを確認するけど、……やっぱり、何も来ていない。


 なんだか気持ちが落ち着かなくて、何も手につかない。明日はせっかくの休日なのに、バイトの予定が数時間あるだけ。


 テスト期間中、一度だけ兄ちゃんからメッセージが来た。

「調子はどう?」って。

俺は「大丈夫」とだけ返した。本当は全然、大丈夫じゃなかったけど……。

 勉強を教えてもらってるくせに、拗ねて連絡を避けるなんて。ほんと馬鹿だ。

(だから兄ちゃんにも子ども扱いされちゃうんだよ……)

 でもあの夜のことを思い出すと、どうしても気まずくて。今は素直に会いに行く気になれなかった。


 時間はたっぷりあるのに、何をしてても胸の奥がずっとソワソワして落ち着かない。気づけば、嫌なものを見たせいでしばらく封印してたイン○タのアイコンを、無意識にタップしていた。


 スクロールしていた指が止まる。

 目に飛び込んできたのは、あの先輩の数日前の投稿だった。



【まだ完全復活してないけど、みんなの励ましでめっちゃ元気出た。本当にありがとう。

#忘れよう #やけ食い #付き合ってないけど失恋】


 色っぽい目つきの先輩が、爆盛りラーメンを啜っている写真に、そんなキャプションが添えられている。 


「……えっ?」


 思わず声が漏れた。静かな車内に思った以上に響いて、慌てて手で口を塞いだ。


───付き合ってないけど失恋?

 どういうこと? 俺の勘違いだった……? いやでも、あの写真はどう見てもホテルの部屋っぽかったよな?

 ってことは、まさか。

恋人じゃなくて、…セフ……

(嫌だ~……っ)

 思わず頭を抱えた。自分の想像で、胸の奥が焦げ付くように苦しくなる。

 兄ちゃんが誰と付き合おうが、俺が口を出す権利なんてない。そんなの、わかってる。

 わかってるけど……嫌だ。

 俺の頭を撫でてくれるあのおっきな手が、他の人に触れるなんて。

 俺をまっすぐに見るあの目が、他の人を見つめてる、なんて。



(……ちょっと待てよ? なんで今、先輩がフラれたんだ?)

 投稿された日付を見れば、俺が兄ちゃんに「恋人いるの?」って聞いた日の、翌々日。

 まるで俺のせいみたいなタイミング。


(兄ちゃん、もしかして……俺に知られるの、嫌だったのかな?)


 もし本当に、俺を弟だとしか思ってないなら、知られたって構わないはずだ。仮にあの人がセフレだったとしても、別に……兄ちゃんは大人なんだし。


 ってことは、もしかして、もしかしたら──?

 兄ちゃんも、俺のこと意識してたりして……⁈


……なんてね。まっさかぁ。


 思いついた瞬間、頭をぶんぶん振って打ち消す。ないない。そんな都合のいい話あるわけない。

 そう思っているはずなのに、鼓動が勝手にバクバクと跳ね始める。


(あー、……どうしよ。自分に都合のいい想像ばっかりしちゃうっ)


 今、兄ちゃんはフリー。仕掛けるなら……チャンスかもしれない。


(そうだよ。まだ俺のこと意識してないっていうなら、意識させちゃえばいいんじゃん!)


 積極的に言い寄るほどの度胸はない。でも、さりげなくアピールするくらいなら……いけるかも。兄ちゃんがその気になってくれたらラッキーだし、ならなくても現状維持はできる。

(どっちに転んでも俺に損はない。……よし!)


 衝動に突き動かされて、急遽行き先変更。家の最寄り駅を通り過ぎて、兄ちゃんの通う大学のある町へ向かう電車に飛び乗った。


 もし偶然、思いもよらない場所でばったり俺と出くわしたら。いかにも運命っぽくて、兄ちゃんだってドキッとしちゃうんじゃない?

「なんでこんなところにいるの?」

 って、目を丸くする兄ちゃんのびっくり顔を想像する。


(久しぶりに会うし、いろんな話がしたいなぁ。ついでにデートみたいに並んで歩いて……何か食べてる時、ふざけて『アーン』なんてしてみたり!)

 思い描くだけで、ニヤニヤが止まらない。

(絶対、俺のこと意識させてやる。弟だなんて言えないくらい……!)

 車窓に映る顔が得意げに笑う。流れる景色を見つめながら、俺は鼻息荒く決意を固めた。





  ◇



「……よく考えたらさ、今の俺ってストーカーみたいじゃね?」

 窓の外を歩く人を眺めながら、俺はぽつりと呟いた。



 勢いで兄ちゃんの通う大学まで来ちゃったはいいけど……

 構内は想像を遙かに超えた広さだった。案内図を見たら、ちょっとした町くらいある。少し歩いただけで、もう自分がどこにいるのかすらわからなくなっていた。

 兄ちゃんが経済学部ってことは知ってる。けど、どの建物で講義を受けてるのかなんて見当もつかなかった。

(こんなんで会えたら、ほんと奇跡だよ)

 俺はそびえ立つ講堂を見上げ、自分の無謀さを痛感した。


 諦めきれずにうろうろしていると、カフェテリアの看板が目に入った。開放的な雰囲気に誘われ、中へ入ってみる。

 広い店内は空いていた。大学生っぽい人が数人、寛いだ様子で座っている。心地よいBGMの中、カウンターでドリンクを買って、窓際の隅に座った。店の側面はガラス張りで、外には鮮やかに色付いた並木と、行き交う人の姿が見えた。

 初めて立ち入ったおしゃれな空間にドキドキしながら、ホットコーヒーに口をつける。

(う……っ…)

 思わず顔をしかめた。

(兄ちゃんの真似してコーヒーにしたけど……苦すぎるよコレ……) 

 スティック砂糖を入れたはずなのに、全然甘さを感じない。我慢してちびちびと舐めながら、俺は鞄から取り出したノートを広げた。大学生のフリをして、場に溶け込む作戦だ。

 初めのうちは、一人だけ浮いてないかヒヤヒヤしたけど、他にも一般っぽい人が利用しているのを見て、少しだけホッとした。



(こんなに広いんじゃ、兄ちゃんに会えるわけがないや)

 一瞬、連絡してみようかと思ったけど……それじゃ偶然会ったドキドキ感がなくなっちゃうし。ここまで来た意味がない。


(ま、せっかく来たし。兄ちゃんがここでどんなふうに過ごしてるのか、ちょっと想像してから帰ろっと)

 ついでに、俺の頭じゃ一生受からない大学を見物して帰るのも悪くない。



 一応、兄ちゃんとばったり会った時のための言い訳も考えてあった。

「大学生の気分を味わって、受験勉強のモチベ上げようと思って」。

 うん、完璧。これなら、まさか俺が待ち伏せしてたなんて思わないはずだ。


 あとはこのコーヒーを飲んで、大人の雰囲気を味わってから……

(うぁっ苦い……やっぱり、格好つけずにホットココアにしておけばよかった……)

 カップを両手で包みながら、俺は小さくため息をついた。さっきから何やってるんだろって急に可笑しくなって、一人でこっそり笑った。

 その笑みがすぅ…と消える。

(なんだろ……)

 胸の奥がざわざわする。

(なんか、さっきから変な感じが、する)

 まるで誰かに見られているみたいな──……。

 自意識過剰かな? と思いつつ、ひょいっと顔を上げた。途端、離れた席の男の人が、慌てて目を逸らした。

(ん?)

 別の席の人も、チラチラとこっちの様子を窺っているような気が……。

(え……もしかして俺、浮いてる? やっぱ制服のままはまずかったのかな)

 そろそろ帰ろうかな、と思い始めた時だ。


「ねぇ、君、高校生?」


 突然、声をかけられた。

 見上げると、爽やかな雰囲気の若い男が立っていた。知らない人だ。すごく背が高くて、体も大きい。なんとなく兄ちゃんと同じαっぽいな……とか思った。


「え? あの……」

 部外者が勝手に入ったの、やっぱマズかったんですか!? と動揺する俺に、男は白い歯をみせてニカッと笑いかけてきた。

「あはっ、そんなに怯えないでよ。ごめんね、びっくりさせて。ちょっとここ座ってもいい?」

 俺の返事も待たずに、隣の椅子に腰を下ろす。そして矢継ぎ早に話しかけてきた。

「可愛いね、どこの高校? この大学、志望してるの? よかったら案内しようか?」

 表情はずっとにこやかだ。なのに、目の奥は妙に冷たくて……なんだか、少し怖くなった。


「あの、俺、もう帰ろうと思ってたところで……」

 そそくさと立ち上がった途端、手首を掴まれた。

「待ってよ。ちょっと話すだけだからさ」

 ぐっと指に力が入る。反射的に振り払おうとしたが、相手の力が強くて、びくともしなかった。

「ちょ……っ」

(やばいやばいやばい……何この人、しつこいっ)

 ふと、動揺する俺の鼻を、変な匂いがかすめた。ものが焦げたような……でも、一瞬のことでよくわからなかった。

(………あ……れ?)

 急にくらぁっと視界が揺れる。軽い眩暈だ。とっさにテーブルに手をついて堪えた。

 どうしたんだろう……思わず首を傾げる。視界の隅で、男が口元を歪めた。


(……なに、これ……)

 体の奥が、熱い。お腹のあたりがじくじくと疼き出す。

(なんか……変な感じ)


「君、大丈夫? 顔が赤いよ」

 男の手が俺の肩に伸び、ぐいっと引き寄せられた。生温い体温が腕をつたい、鳥肌が立つ。

「……離せよ…!」

 思わず声を荒げた、その瞬間。


「何してるんですか」

 背後から低く、落ち着いた声がした。振り向く前に分かった。兄ちゃんだ。

 俺の手を掴んでた男が、びくんっと体を震わせた。

「……え? いや……別に……おれは何も…」

「兄ちゃん……っ!」

 ホッとして呼びかける。その一言で、男の周りの空気が一気に凍りついた。

「兄ちゃん……?」 

「ええ、こいつ俺の弟なんですけど。何の用ですか?」

 兄ちゃんは男を見下ろしたまま、静かに言った。表情は一切ない。なのに、目だけはまるで研いだ刃物みたいに光ってて……見慣れているはずの俺でも息が止まるくらい怖かった。

 男は青ざめた顔で立ち上がり、何も言わずに逃げていく。兄ちゃんはじっと男が去った方向を見つめていた。横顔がいつになく真剣で、光の加減でまつげがやたら長く見える。鼻筋も、顎のラインも──完璧すぎる。

(やばっ、兄ちゃん……超かっけぇっ)

 さっきまでの気持ち悪さも忘れて、俺は心の中でこっそりと身悶えた。



 カフェテリアの外に出たあとも、兄ちゃんは俺の手を引いて歩いた。嬉しいけど、周りの人にじろじろ見られてて、兄ちゃんは恥ずかしくないのかな……とちょっと不安になる。

「兄ちゃん、目立ってるよ……?」

 こそっと伝えてみる。けど、兄ちゃんはちらっと俺を振り返っただけで何にも言わず、手を繋いだまま歩き続けた。日が陰って、空気は冷たくなってるはずなのに、頬の熱だけはどうにもおさまらなかった。


(あれ……? そういえば、治ってる……)

 あの男に話しかけられていたときは、風邪みたいな寒気がして、お腹まで変になっていたのに。兄ちゃんと手を繋いでいるうちに、あのざわつきはいつの間にか消えていた。





「なんであんなところに一人でいたの?」

 車の助手席に乗り込んだ途端、兄ちゃんに聞かれた。優しい声。でも、……ちょっと怖い。

「えっと……大学って、どんな感じのとこなのかなって思って、……だから……その……」

 ──あれ? 頭の中で何度も練習した、完璧な理由のはずだったのに。口に出した途端、信じられないくらい嘘っぽくなった。


 ……あーあ。せっかく、奇跡的に兄ちゃんと会えたのに。

「運命的な偶然」で兄ちゃんをドキドキさせる状況には、ほど遠かった。

(くっそ……あの男のせいだ。余計なことしやがって……!)

 悔しがる俺に、兄ちゃんは前を見つめたまま言った。

「危ないよ。この大学はαが多いから。中にはさっきみたいなやつもいるし。俺がたまたま通りかかったから良かったけど……」

 淡々とした声だった。けれど、ハンドルを握る手の関節が白くなっているのに気付いて、胸がひやりとする。

「……兄ちゃん、怒ってる……?」

「暁人に怒ってるわけじゃないよ」

 俺は俯いて「本当に……?」と消えかけた声で呟いた。



 車内にはしばらく沈黙が落ちた。唸るようなエンジン音と、時折ギアチェンジをする音だけが聞こえる。

「暁人、いま家に誰かいる?」

 ふいに兄ちゃんにそう尋ねられて、俺は首を横に振った。

「……ううん、母さんも父さんも仕事中。夜になれば帰ってくるよ」

「だよな」

 兄ちゃんは少し考えこむような顔をした。

(あ、もしかして……さっきのことで俺が怖がってるって思ってるのかな?)

 確かに気色のわるい体験だったけど。助けに来てくれた兄ちゃんの格好良さのおかげで、ショックなんて吹き飛んでしまった。

(でも、兄ちゃんが俺のことか弱い弟だって思ってるなら、チャンスかも)

 滑らかにハンドル操作をする兄ちゃんの横顔を見ながら、俺はいかにも弱ったような声を出した。

「……ねえ、兄ちゃん。今から、ちょっとだけ兄ちゃん家に行ってもいい? 一人じゃ心細くて……一緒にいて欲しいんだ」

 ちらっと、一瞬だけ兄ちゃんが視線を寄越す。

「……わかった」

 小さく頷いた。



 そのあとは会話らしい会話もないまま、車は間宮家の門をくぐった。

 お茶を運んできてくれたお手伝いさんが居なくなると、また沈黙が落ちた。


(思わせぶりな態度で兄ちゃんに意識してもらおうって作戦だけど……)

 さて、このあとどうすればいいんだ。俺、別に恋愛のプロじゃないし。相手はよりによって“あの”兄ちゃんだぞ。

モテまくりの人に色仕掛け? いや無理無理。じゃあ弟の顔して可愛く甘える? ……いや、それじゃ意味ないってば。弟ポジから卒業したいんだから俺は! 


 もだもだと考えていると、目の前に温かいお手拭きが差し出された。


「これで手首、拭いとけ」

「手首?」

「さっきのやつに触られたところ。暁人……お前、Ωの自覚が足りなすぎるぞ」

 そう言われて、首を傾げた。

「なんのこと?」

「さっき、あの男が近くにいた時、変な感じがしなかったか?」

 言われて、そういえば眩暈がしたことを思い出した。正直にそう言うと、

「あいつ、お前の近くでわざとαのフェロモンを出してたんだ。周りには気付かれない程度に、少しずつ。それに反応させられたんだろうな」

「え……なんで?」

 まだピンと来てない俺に、兄ちゃんが目を剥く。

「お前にイタズラしようとしてたんだよ」

「え……えぇええっ?! うそ、だって…あんなに他にも人がいるところで? そんな、まさかぁ!」

「フェロモンに酔って身動きがとれなくなったΩを連れ出すなんて、そう難しいことじゃない」

 低く抑えた声に、スーッと血の気が下がる気がした。兄ちゃんが来てくれなかったら、どうなっていたのか……。知らないうちに、他人の性欲の対象になっていただなんて。ぞわっと全身に鳥肌が立ち、膝がかすかに震えた。

「……だって……いままではそんなこと、一度もなかったのに」

 呆然と呟く。兄ちゃんがこともなげに言った。

「俺がそばにいたからな」

「えっ?」

「俺の匂いがカモフラージュになってたんだろ。でも最近、しばらく会えてなかったから……。鼻のいい奴にΩだって嗅ぎつけられたのかもな」

「そんな……」

 俺、知らずにずっと兄ちゃんに守られてたの……?

 固まった俺の頭に、何かが触れた。兄ちゃんの手だ。でっかい手のひらが、慰めるように撫でてくる。


「大丈夫。これからも、俺がずっとそばにいるから。暁人は今まで通りに生活してればいいからな」


 安心させようとするみたいな、低くて穏やかな声。なのに、急に胸の真ん中がギュウッと痛くなって、喉の奥が熱くなる。


「お前は何にも悪くないのに。怖い思いをしたな」


 じわぁっと視界が滲む。

あんなの、たいしたことなかったはずなのに……兄ちゃんの言葉のせいで涙腺が崩壊した。鼻水が垂れそうになってズビッと鼻を鳴らすと、兄ちゃんは俺の頭を引き寄せて、自分の胸に抱え込んだ。

 肌触りのいいシャツに頬を押し付けると、兄ちゃんの匂いで鼻腔が満たされる。布越しに伝わる体温がたまらなく心地いい……。小柄な体型じゃないのに、すっぽりと胸の中に包まれる。圧倒的な体格差を痛感した。この広い胸で、力強い太い腕で、俺は守られてたんだ……。そう実感した途端、頭がぼうっとして体が溶けていくような幸福感に包まれた。


(兄ちゃん、好き。大好き……)

 ピンク色に染まった頭の中は、もう兄ちゃんのことでいっぱいだった。この太くて頼もしい腕に抱かれたい。シャツを開いて、中の筋肉に触ってみたい。あのきれいな唇にちゅうして……。

 兄ちゃんのことを考えすぎて、体がじんわり熱くなってきた。


 俺がぎゅっと腕にしがみつくと、兄ちゃんの体が少し震えた気がした。


「兄ちゃん……好き……」


 あ、言っちゃった。

言うつもりなんてなかったのに。

けど、不思議と後悔はなかった。


(だって……もう、我慢できない)

 弟でもいいなんて、大嘘だ。

 相手がどんな美人でも、兄ちゃんの隣に別の奴がいるのは許せない。兄ちゃんは俺のもんだ。

『なんで俺じゃダメなの?』って、そんな風に思いながらずっと一緒にいるなんて。想像しただけで無理だ。弟としてでもいい、一緒にいられれば満足、なんて。

(そんな風に思えるわけない……っ!)



 兄ちゃんは少し眉を寄せて、俺を見つめた。


「暁人、ちょっと落ち着こうか。まずは離れなさい」

「やだっ」

 俺は兄ちゃんの胸に腕を回して、必死でしがみついた。その気になれば簡単に引き剥がせるはずだけど、兄ちゃんはそうしなかった。代わりに、落ち着いた声で言った。

「……暁人。自分でも今の状態が少しおかしいってわかるだろ? 抑制剤はどこにある?」

「抑制剤……?」

「ヒートを起こしかけてる」

 驚いて力の緩んだ腕をそっと外して、兄ちゃんは俺のカバンの中から錠剤を取り出した。目の前に差し出された白い錠剤をふた粒、水と一緒に飲み込む。

 隣では兄ちゃんが、何かペンみたいなものを自分の太ももに押し付けていた。


「さっきの男のフェロモンに当てられたせいだろうな……。家で独りにしなくてよかった」

 そう言って立ちあがろうとした兄ちゃんに、俺は焦って手を伸ばした。

「待って、兄ちゃんっ、どこ行くの?」

「……母さんに連絡するだけだよ」

「やだ、行かないでっ」

「暁人」

「行っちゃやだ……」

 兄ちゃんの腰にすがりついて止める。体の奥がじくじく疼いて、どうにも落ち着かなかった。少し揺さぶられただけで弾けそうなくらい、感情が昂っている。

(なるほど、これが発情期か)

 と。まるで他人事のように、頭のどこかで冷静にそう考えている自分がいた。

 全ての感情が倍々に膨れ上がって、体の中でめちゃくちゃに暴れている。中でも、元から大きかった兄ちゃんに対する気持ちは、もう隠しようがないほど大きくなっていた。


「兄ちゃん、好き。好き……だいすき」


 何度もそう繰り返した。触れようと伸ばした腕は、大きな手のひらで一纏めにされ、ひょいと体を抱え上げられた。

「うん」

 気付けば、無の表情を浮かべた兄ちゃんに、俺はがっちりと横抱きに抱き固められていた。優しい拘束のせいで、手も足も出せない。目の前にある唇にキスしたいのに、許してくれない。俺は頭がふわふわしたまま、懸命に兄ちゃんを誘い続けた。

「兄ちゃん、好き。すきぃ……大好き…大好き」

「………」

「俺、兄ちゃんの赤ちゃんが欲しいよ……」

 ゴクッ……小さな音と共に、兄ちゃんの喉仏が上下する。でも、腕の力は緩まなかった。

「ね、しよ…? おれとえっちしよ?」

「………」

「兄ちゃん、……ねぇ、にいちゃん…」


 結局、抑制剤が効くまでの間、俺の口は怒濤のように抑えきれない想いを次々と吐き出し続けていた。




 ◇




「暁人」

「………」

「暁人、大丈夫か?」

「…………イッソ…コロシテ……」

 俯いたまま俺が小さく呟くと、兄ちゃんはホッとしたように息を吐いた。


「良かった。やっと薬が効いたみたいだな」


 俺を抱き上げていた腕の力が抜け、そっと下ろされた。自由になっても俺は床にへたり込んだまま、身動きが取れなかった。……恥ずかしすぎて。


(俺……さっき何て言った……?)

 思い出したくもない。とにかく兄ちゃんに触れたくて、一生懸命誘っていたような気が…する。

「うぁあーー……っ」

 顔が燃えるように熱くて上げられない。頭を抱えたまま悶絶する俺に、

「頭痛がするのか?」

 と心配そうな声が降ってきた。


「……大丈夫だから……俺のことはしばらく放っておいて……」

 やっとの思いでそう答えた。抑制剤を飲んだ後は、副作用のせいで頭痛と吐き気がする。でも、今はそんなこと大した問題じゃなかった。


(兄ちゃんに……知られた)


 気持ちを伝えるつもりなんてなかった。なのに、仄めかすどころかカケラも残さず全部、打ち明けてしまった。

(もう後戻りできない)

 兄ちゃんは、どう思ったんだろう……

恐る恐る盗み見ると、目が合った。

「……ッ…!」

 恥ずかしくてすぐ俯いてしまう。耳が燃えるように熱い。多分、真っ赤になってるんだろう。

 そんな俺を安心させるように、温かい手が背中をさすった。

 

「大丈夫だよ。ヒート中の言葉なんて誰も本気にしたりしない。正気じゃなかったことくらい、分かってるから」


 優しい声が、胸に突き刺さった。

 兄ちゃんは慰めるつもりで言ったんだろう。けど……完全に逆効果だった。


「なにそれ……」

 絨毯を見つめていた目線をゆっくりとあげる。

「何でそんなこというの…?」

「暁人……?」

「全部が本音じゃないけど……、でも、嘘でもないよ」

 気づけば、口が勝手に動いていた。

「なかったことにしないでよ」

 気まずい空気が流れる。兄ちゃんは黙って俺の顔を見返してくる。なんて言おうか、考えているみたいだった。


 その袖を握って、言った。

「ねえ、兄ちゃん、教えて。……俺のこと、どう思ってる?」

 すがりつくみたいな台詞。自分がこんなこと言う日が来るなんて、思ってもみなかった。

(お願いだから、好きって言って。俺のこと欲しがって……!)

 荒れ狂う気持ちを抑えて、兄ちゃんの返事を待つ。


「……大事だって思ってるよ」


 やっと返ってきた言葉は、期待していた熱量の半分もなかった。踏み込もうとする俺の前に、線を引くみたいに。距離を取ろうとしているのを感じた。


「……弟みたいに……?」


 兄ちゃんは答えない。ぶわっと涙があふれた。こんなに簡単に泣くなんて。まだ気分が高ぶっているせいだ。声も出せずに泣いている俺に向かって、兄ちゃんはなだめるように言った。


「暁人、今はこんな話をするのはやめよう。体が落ち着けば、お互いもっと冷静になれるから……」 


 冷静に?

 冷静になったら、なんだっていうの?

(どうせ、答えは変わらないんでしょ……?)

 急に、すべてが虚しくなった。どんなに真剣に言葉を重ねたって、ヒートのせいにされる。まともに受け取ってももらえない。


 そんなの……もう、これ以上話す意味なんてある?


「……もういい。分かった」

「暁人?」

「もう、諦める。兄ちゃんのこと。大好きだけど……大好きだったけど。俺のこと、弟としかみてくれないなら」

 ぐしっと手の甲で涙を拭う。

「弟にしかなれないなんて、苦しすぎる」

 そう言いながらも、自分が本当に諦められるかはわからなかった。きっと、何年も引きずる。今日のことを何度も思い出して、ずっと後悔し続けるんだろう。

 それでも、不思議と胸が少しだけ、晴れやかになった気がした。



(あーあ。……まあ最初から分かってたことなんだけどね……)

 そう。兄ちゃんは最初からずっと、俺のことを弟って言ってたんだから。

(なのに、俺は……)


 その気もない相手に言い寄られて、嬉しいはずがない。どんなに俺が兄ちゃんを好きでも、兄ちゃんに応える義務なんてないのに。優しさに甘えて、身勝手な気持ちを押し付けてしまっていたんだ……。


(ごめん、兄ちゃん)

 

 困った顔をしてるかな。それとも、ほっとしてる……?

 恐る恐る視線をあげた。


 すると──


(……えっ……?)

 思わず息を飲む。

 兄ちゃんの顔は真っ青だった。見開いた目が、じっと俺を見つめたまま凍りついている。薄く開いた唇はかすかに震えていて、開いたり閉じたりを繰り返していた。まるで言葉が出てこない時みたいに。


(兄ちゃんのこんな顔見るの、初めてだ……)

 俺の前ではいつも冷静で、余裕たっぷりでかっこよくて。動揺したところなんて、見たことがなかったのに。

(俺のせい?)

 俺が、兄ちゃんに『諦める』なんて言ったから?


 兄ちゃんの震える指が、ぎゅっと俺の袖を掴んだ。まるで、逃がさない、って言うみたいに。


「兄ちゃん」

「………」

「ごめん、兄ちゃん。こんなこと、もう二度と聞かない。最後にするから……正直に答えて。俺のこと、本当は、どう思ってるの?」


 ちょっとでも、ほんのひとかけらでも、心の隅に俺への想いがあったのか……聞きたかった。

 兄ちゃんは、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。


「好きだよ」


 返ってきた言葉は、期待通りだった。

でも……口調はいつもと同じ、淡々としていて。まるで、駄々をこねられたから仕方なく言ったみたいで、気持ちがこもっていなかった。


(……なんで? 俺、こんなに真剣に聞いたのに……)

 今日だけは……いつもの「好き」とは違う言葉が聞けると思ったのに。期待してしまった分、余計に揶揄われたような気がした。胸の中に深い失望が広がっていく。


「……もう、いい……」

 とぼとぼと部屋を出ていこうとする。その腕を掴まれた。

「どこ行くの」

「……帰る……」

「暁人」

「やだ……はなして」

 掴まれた手首を振るけど、兄ちゃんは全く離す気がない。長い指でがっちりと捉えられている。


「もうっ……失恋したときくらい、ほっといてよ……っ」

「失恋? なんで」

「兄ちゃんは、俺のこと、好きじゃないんでしょ?」

「好きだよ」

「だから…そうじゃなくてっ! 俺が言ってるのは……っ」

「暁人」

 兄ちゃんが俺の名前を呼ぶ。

「暁人、こっち見て」

 大好きな、俺を甘やかす時みたいな甘い声で。

「ほら……そんな顔してないで」

 俺は膨れっ面のまま、ちらっと目だけで兄ちゃんを見た。兄ちゃんは少し困ったような顔で笑っていた。そして、わずかに首を傾げた。顔が近づいて……


「………えっ」


 柔らかい感触が唇に残った。

指で触れようとして……止めた。感触を上書きしたくなかったから。


「えっ? なに……えっ……?」

 一瞬のことだった。まるで夢でも見ていたかのように、現実感がない。

 兄ちゃんは情けなさそうに眉を下げて、

「本当はダメなんだけど……」

 と小さく呟いた。

そして、俺を見て蕩けるような顔で微笑んだ。


「俺も暁人が好きだ。……もちろん、こういう意味で」

 優しい指が、頬をくすぐるように撫でた。思わず首をすくめる。触れられたところが、じわっと熱を持った。

「え……ほんと……ほんとに? 兄ちゃん、俺のこと……好き、なの?」

「うん。好き」

「本当に?」

「うん」

「エッチ、したいって……思う、くらい?」

 兄ちゃんは笑った。人差し指を立てて、そっと唇に当てる。

「……暁人が大人になったら、ね」

 囁くような声だった。

「………ッ!」

 壮絶に色っぽい流し目をくらって、俺はのけぞりそうになった。

 一気に体温が上がる。

(うっ……うわぁああ…っ)

 信じられない。嬉しい。嬉しい…! 兄ちゃんも俺が好きだったなんて……!! 


 たまらなくなって、兄ちゃんに抱きつこうとした。……でも。

 急にぐにゃり、と体の力が抜けた。


「ふぇ……っ?」

 お腹から火が噴き出したかと思うような熱が走った。猛烈な熱さはあっという間に全身に回った。顔が火照り、呼吸が乱れる。身体中の毛穴から汗が吹き出した。

「──暁人っ!」

「あ……ぇっ?……」

 視界が赤く染まり、霞んでいく。

 膝から力が抜けて、ぐらり、と前のめりに倒れ込む。驚いたように目を見開いた兄ちゃんが両腕を差し出す。倒れ込んだ俺を、たくましい腕が支えてくれるのを感じて……


「──兄、ちゃ……」

 縋る声は、喉の奥で途切れた。




 後のことは、覚えていない。





 どうやら、俺はそのまま意識を失ったようだ。



 次に目を覚ましたとき、見知らぬ天井があった。

白い壁、無機質な光。鼻を突く薬の匂い。ぼんやりしていると、気づいた看護師さんが声をかけてきた。

そしてここが、Ω専用の隔離病棟だと教えてくれた。



 あの時、俺の体は爆発的なヒートを起こしていたそうだ。

医師の説明によれば、長年、不完全な体に押し込められていたΩ性が、何らかの原因で暴走してしまったのでは……とのことだった。

 通常のヒート時よりもはるかに濃いフェロモンを放ってしまい、その影響は当日、間宮家にいた使用人たちにまで及んだ。意思とは関係なく数人が俺の元へ吸い寄せられるように集まってしまったのだという。そのまま襲われてもおかしくない状況だった。

そんな中で、俺を守ってくれたのは──やっぱり兄ちゃんだった。

 兄ちゃんは、普段の三倍の抑制剤を自らに打ち込んで必死に理性を繋ぎ止め、俺を安全な場所まで運んでくれた。一番そばにいたから、誰よりも強く影響を受けていたはずなのに。



 いてもたってもいられず、兄ちゃんにすぐに連絡した。でも、いつまで経っても既読にならなかった。

いつもどんなときも、俺のことを最優先してくれていた兄ちゃんが俺を無視するなんて、ありえない。

心配になって母さんに電話したら、『今は抑制剤の副作用で、自宅療養しているようだ』って教えてくれた。

 返信できないってどんな状態なの……? そう思った俺は、αの抑制剤について調べた。

そして……、スマホを握ったまま、枕に顔を埋めてしばらく泣いた。


『過剰投与は、命に関わることもある』


 って。その時、初めて知ったから。





  ◇





 俺が退院して二日後の週末。兄ちゃんがうちを訪ねてきた。


「えっ……兄ちゃ……なんで、そんな格好……?」

 初めて見る、かっちりとしたスーツ姿。あまりのかっこよさに、俺はトキメキすぎてまともにしゃべれなくなった。着飾ったイケメンなんて、本当に心臓に悪い。


 客間に通されるなり、兄ちゃんは両親の前に膝をつき、

「大変申し訳ありませんでした」

と言って、フローリングの床に両手をついて深々と頭を下げた。


「私のせいで暁人くんを危険に晒してしまいました」


「えっ……ちがうよ…っ兄ちゃんは……っ」

 口を挟もうとした俺は、兄ちゃんの視線に黙らされた。


「大学で変な男に絡まれたのも、元をたどれば私の不注意が原因です。私がもっと早く気づいて駆けつけていれば……あんなことには……」


 兄ちゃんは真剣そのもので謝ってくれる。でも、そもそもうちの両親を含めて誰一人として兄ちゃんの責任だなんて思ってる人はいなかった。そりゃそうだ。実際、兄ちゃんは何にも悪くないんだから。

 あらまあ……、と兄ちゃんの体を起こしながら、両親はニコニコ恵比寿顔だ。


「もう、顔を上げてちょうだいよ」

 母さんがやわらかく声をかける。

「あなたが暁人を必死で守ってくれたことは、全部聞いてるのよ。かなり無理をしたっていうじゃない。もう体は大丈夫なの?」

「あのくらい、大したことありません」

「あなたには本当に感謝しきれないわ……ね、お父さん?」

「そうだな。律くんのおかげで暁人も無事だったことだし。むしろ、こちらからお礼に伺わなきゃいけなかったくらいだよ」

 父さんの声も穏やかで、空気がほぐれるのを感じた。


「……ほら律くん、もう立って。よかったら、晩御飯を食べていきなさいよ」

「いえ、でも……」

 恐縮している兄の袖を引いて、俺も引き留めた。

「そうしてよ、兄ちゃん」

 彼は俺を振り返ると……柔らかく微笑んで、頷いた。



 箸の音がひとしきり落ち着いた頃、母さんがふっと笑った。

「あなたが無事で本当に良かったわ。大量の抑制剤を打って、暁人を守ってくれたんですってね? もう本当に何ともないの?」

「はい、もうすっかり。ご心配をおかけしました」

「……感謝してるよ、律くん」

 父さんも静かに頷いた。兄ちゃんは少しだけ首を横に振る。

「いえ当然のことをしただけです。あと……例の男のことは、すでに学生課の窓口に報告済みです。ですが、間宮の方でもあらためて、きっちりと対応させて頂こうと思っていますので……」

 そう言う兄ちゃんの背後に、暗いモヤのようなものが渦巻いているのは気のせいだろうか……


「もういいのよ。結果的には助けてくれたんだから」

 母さんがやさしく笑う。


「……迷惑かけちゃって、ごめんね…」

「暁人、あんまり律くんにばっかり頼っちゃダメよ?」

「うん……」

 兄ちゃんはその言葉に首を振って、少し照れくさそうに笑った。

「いいんです。俺は……暁人に頼ってもらえると、嬉しいので」

 父さんが、湯呑を持ち上げながらぽつりと呟いた。

「全く、不思議な縁だなぁ。暁人は一人っ子のはずなのに、生まれる前からこんないいお兄ちゃんが身近にいたんだもんなぁ」

 兄ちゃんは、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。そして、ほんの少し間をおいてから、静かに口を開いた。

「……できれば彼のそばで、一生守ってやりたいと思っています」


 箸の音が止まる。

 母さんが驚いたように目を瞬かせ、父さんが「お、おう?」と咳払いをする。

 俺は盛大に咽せ、危うくお茶を吹き出しそうになった。


 兄ちゃんはその反応に気づくと──、有無を言わせぬほど美しく、妖しく微笑んだ。



 空気に飲まれたように、誰も何も言えない。ただ、お椀の中で味噌汁が静かに湯気を立てていた。






 夕食の後。帰る兄ちゃんを見送るため、玄関の外に出た。

すっかり日が沈んで、外灯に照らされたポーチで、改めて兄ちゃんと向かい合う。


──一生、そばで守りたいと……。


 さっきの言葉を思い出すと、胸の奥がくすぐったくなって、自然ともじもじしてしまう。

「……あのさ」

 思わず口を開いたものの、何を言いたかったのか、自分でもよくわからなくなる。言葉が喉の奥でぐるぐる回って、出てこなくて焦る。兄ちゃんはそんな俺を見て、少し首を傾げた。

「ん? どうした?」

「えっと、あの……また勉強、教えてくれる?」

 兄ちゃんはふっと笑った。

「当然だ」

 そう言って、俺の頭を優しく撫でる。その手のひらの温かさに、また心臓が跳ねた。

「うん……」

 目を合わせるのも恥ずかしくて、視線を靴のつま先に落とす。

 しばらくの沈黙。夜風がふわりと吹いて、熱くなった頬をやさしく撫でた。


 意を決して、顔を上げる。兄ちゃんの目をしっかりと見つめ返して、言った。

「じゃあ……気をつけて。また明日ね……律くん」

 そう呼びかけた途端、兄ちゃん──ううん、律くんの目が丸くなった。唖然とした顔のまま、しばらく固まっている。


 その予想以上の反応に、なんだか猛烈に恥ずかしくなって、気づけば必死に言い訳をしていた。

「だ、だって……っ! いつまでも“兄ちゃん”呼びじゃ、ずっと弟のままってことになっちゃうし……そんなの……っ!」

 モゴモゴ言っていると、急に律くんが手を伸ばして、俺の頬っぺたをぷにっと軽く摘んだ。

「にゃ、にゃにを……っ」

「……まだ“兄ちゃん”でいいよ」

「え? なんでぇ……?」

 首を傾げる俺に、律くんは唇を歪めるようにして笑った。


「あと二年もしたら、“兄ちゃん”なんて呼べなくなるんだぞ? それでもいいのか?」


 冗談めかした声の奥に、うねるような熱を感じた。思わず、息が詰まる。

 早く恋人同士になりたいって思っていたはずなのに。そう言われると、まるで暗闇から虎視眈々と狙い澄まされているみたいな気がして、ゾクゾクするのは──なんでなんだろう……?


 恋人として付き合い始めたら、“兄ちゃん”とは、もう呼べない。それから先は、ずっと「律くん」って呼ぶことになるんだ。


(じゃあ……あと二年だけ……)


 兄ちゃんに甘える弟ポジのままでいるのも、悪くないかも。


 そんなふうに、思った。




【兄編に続く】



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