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第5話『帰る人、残る人』

僕は森になった。

いや、正確には「僕」という輪郭が溶けて、森の一部に混ざった。


もう体はなかった。手も足も、顔も声も。

ただ意識だけが、薄く引き伸ばされて、森全体に広がっていた。


木々の根を通じて、土の冷たさを感じた。


葉を揺らす風の動きを、自分の呼吸のように感じた。


降り注ぐ雨を、自分の皮膚が受け止めているように感じた。


けれど、それが「僕」なのかどうかは分からなかった。

僕の感覚なのか、森の感覚なのか、もはや区別がつかなかった。


ただ一つだけ、確かなことがあった。

妹が、そこにいる。


彼女は古木の前に座り込んで、じっと幹を見つめていた。

その姿は、完全に人間のものだった。


呼吸をし、瞬きをし、時折頬を撫でる風に目を細める。

僕の記憶の中の妹ではなく、生きている人間としての妹。


「もう、終わりだね」


彼女が呟いた。その声は森全体に響き、僕の意識もそれを拾った。


「お兄ちゃん、ありがとう」


妹は立ち上がった。

白いワンピースは少し汚れていたが、それすらも「生きている証」のように見えた。


彼女は古木に手を当てた。


「ここにいるんでしょ? もう、あなたとして、じゃないけど」


僕は答えられなかった。もう、声がなかったから。

僕にはただ風を揺らすことしかできなかった。


「大丈夫。ちゃんと覚えてる。あなたの全部を、私が持っていく」


彼女は目を閉じた。そして深く息を吸った。

その瞬間、僕の中に残っていた最後の記憶の断片が、彼女の中へ流れ込んでいくのを感じた。


子供の頃、妹と二人で星を見た夜のこと。


母親の作ったカレーの匂い。


父親の大きな手の感触。


学校の廊下の冷たさ。


友人の笑い声。


何気ない日常の、取るに足らない記憶たち。


それら全てが、妹の中へ溶け込んでいった。

まるで彼女自身の記憶であるかのように。


「ああ……こんなに、たくさん」


妹は涙を流していた。それは本物の涙だった。

温かく、透明で、頬を伝って地面に落ちた。


「こんなに、いろんなことを覚えてたんだね」


彼女は笑った。泣きながら、笑った。


「全部、私のものにする。お兄ちゃんの代わりに、私がぜんぶ生きるから」


風が、強く吹いた。


妹の髪が舞い上がり、木々が激しく揺れた。

森全体が彼女を押し出そうとしているようだった。


「そっか。もう、行かなきゃいけないんだ」


妹は古木から手を離した。

その瞬間、彼女と森の繋がりが、音もなく切れた。


彼女はもう、森の一部ではなかった。


記憶の中を飛び出した、生きている人間だった。


「じゃあね、お兄ちゃん」


妹は森の出口へ向かって歩き始めた。一歩、また一歩。しっかりとした足取りで。


僕は、いや、僕だったものは、ただそれを見送ることしかできなかった。


彼女の後ろ姿が、木々の間に消えていく。


やがて、森は再び静寂に包まれた。




妹――今はもう「彼女」と呼ぶべきか――は森を出て、村へ戻った。


村人たちは彼女を見て、驚いた顔をした。


「まあ……あなた、あの時の……」


老婆が呟いた。


「ずっと行方不明だったんじゃ……」


彼女は穏やかに微笑んだ。


「迷子になっていました。でも、大丈夫です。もう帰れます」


その声には説得力があった。

嘘をついている様子はなく、ただ真実を語っているように聞こえた。


村人たちは顔を見合わせたが、やがて誰も深く追求しなかった。

この村では、森から帰ってきた者に多くを尋ねない習慣があった。


彼女は宿に立ち寄った。


「兄の荷物を引き取りに来ました」


宿の主人は首を傾げた。


「お兄さん……? ああ、あの……」


主人は帳面を確認したが、そこに書かれていた名前はもう読めなくなっていた。

文字が滲み、消えかけていた。


「確か、どなたか泊まっていたような気がするんですが……」


主人は記憶を手繰り寄せようとしたが、すぐに諦めた。


「すみません。よく思い出せなくて」


「大丈夫です」


彼女は微笑んだ。


「もう必要ありませんから」


彼女は宿を出て、村を出て、バスに乗った。


バスの窓から見える景色は、鮮やかだった。


緑の田畑、青い空、白い雲。

全てが生き生きとして、彼女の目に焼き付いていった。


隣に座った老人が話しかけてきた。


「お嬢さん、どこから?」


「森の村から」


「ああ、あの森か。物騒なところだ。迷い込むと出てこられないって聞くね」


「ええ」

彼女は窓の外を見つめたまま答えた。


「でも、私は無事に出てこられました、運が良かったのかもしれませんね」


「そりゃよかった」


老人は安心したように笑った。


「家族も心配してただろう」


「はい」


彼女は頷いた。


「きっと、喜んでくれます」


それから数時間後、彼女は見覚えのある街に降り立った。


いや、「見覚えがある」のではない。

兄の記憶にあった街だ。

けれど今は、それが彼女自身の記憶であるかのように感じられた。


彼女は迷わず住宅街へ向かった。

角を曲がり、坂を登り、一軒の家の前で立ち止まった。


表札には、名前が書かれていた。

彼女の名前――いや、妹の名前。


深呼吸をして、インターホンを押した。


しばらくして、女性が出てきた。

四十代半ばくらいの、疲れた顔をした女性。


彼女は娘を見て、固まった。


「……嘘」


母親の声が震えた。


「葵……あなたなの……?」


「ただいま、お母さん」


娘は微笑んだ。完璧な、娘の笑顔で。


母親は崩れ落ちるように娘を抱きしめた。

泣き声が夕暮れの住宅街に響いた。


「どこに……どこに行ってたの……!」


「ごめんなさい。でも、もう大丈夫」


娘は母親の背中を撫でた。

その手つきは、まるで何年も一緒に暮らしていたかのように自然だった。


「もう、帰ってこないかと……」


「帰ってきたよ。ちゃんと、帰ってきた」


二人は玄関の前で、しばらく抱き合っていた。


やがて父親も帰宅し、家族三人は食卓を囲んだ。


「兄さんは?」


父親が尋ねた。


娘は少しだけ間を置いてから答えた。


「兄さんは……もう、いないの」


両親は顔を見合わせた。


「どういう……」


「探しに来てくれたんだけど……森で、迷っちゃって」


娘は目を伏せた。本物の悲しみを湛えた表情で。


「私を見つけてくれたんだけど……それで力尽きちゃったの」


嘘ではなかった。ある意味では、それは真実だった。


母親が娘の手を握った。


「そう……あの子は……」


「うん」


娘は頷いた。


「でも、大丈夫。兄さんの分まで、私が生きるから」


その言葉に、両親は何も言えなかった。

ただ娘の手を握り返すことしかできなかった。


その夜、娘は自分の部屋――いや、妹の部屋で眠った。


ベッドに横になり、天井を見上げた。


記憶が溢れてきた。兄の記憶、妹の記憶、そして森の記憶。

それら全てが混ざり合って、彼女という一人の人間を形作っていた。


「ありがとう」

彼女は小さく呟いた。


「あなたがくれた全部で、私は生きていくから」


窓の外で、風が吹いた。

遠く、とても遠くから、森の匂いが運ばれてきたような気がした。



森は、静かだった。

誰もいない窪地で、水溜まりが月の光を映していた。


古木は相変わらず、そこに立っていた。

幹は脈打ち、根は地面を這い、すべての記憶を抱え込んでいた。


風が吹くたび、木々が揺れた。


その音は、まるで誰かの名前を呼んでいるようだった。

けれど、その名前を覚えている者は、もういなかった。


森の奥深くで、また新しい"呼び声"が生まれ始めていた。


どこかで誰かが、罪悪感を抱えている。

どこかで誰かが、失くしたものを探している。

どこかで誰かが、許されたいと願っている。


森は、それを感じ取っていた。


そして静かに、次の訪問者を待っていた。


失われたものを取り戻したいと願う、新しい苗床を。

記憶と罪悪感を、たっぷりと抱えた苗床を。


森は呼吸をしていた。


生きているのか、死んでいるのか、その境界すら曖昧な、深く、暗く、優しい呼吸を。


そして…


遠く、街の方から、誰かの足音が近づいてくるのを感じていた。






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