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第4話『真実の森』

もはや僕には、自分がいつから森にいるのか分からなくなっていた。


宿に戻っているのか、それとも森の中で夜を過ごしているのか、その境界も曖昧だった。

目を開けると森があり、目を閉じても森があった。

その頃には森は僕の内側にまで入り込んでいた。


鏡に映る姿はもうなかった。手を伸ばしても、その手の輪郭が見えなかった。

触れているものの感触はあるのに、触れているのが「自分」だという実感がない。

まるで世界の方が僕を透過して、僕という存在が薄い膜のようになっていた。


その中でただ一人、妹だけが、僕を見ることができた。


「お兄ちゃん、今日も来たんだね」


彼女は毎日そう言って迎えてくれた。

その声は日に日に力強くなり、体には確かな重さが宿っていった。

頬を染める赤み、瞬きの自然さ、息づかいの深さ――すべてが「生きている人間」そのものだった。


ある日、彼女は僕の手を取って、森のさらに奥へと導いた。


「お兄ちゃんに見せたいものがあるの」


僕は何も言わずについていった。

もはや拒む気力もなかったし、拒む理由も分からなかった。


木々の間を抜け、獣道を進み、やがて僕たちは見たこともない場所へ辿り着いた。


そこは森の最深部のようだった。

木々がさらに密集し、光がほとんど届かない。

地面は黒く湿り、苔が厚く積もっていた。そして中央には、巨大な古木が立っていた。


その木は、まるで生き物のようだった。

幹は脈打つように波打ち、枝は天を掴もうとするように伸びていた。

根は地面を這い、まるで無数の腕で大地を抱きしめているようだった。


「これが、森の心臓」


妹はそう言った。


「ここに、全部の記憶が集まってるの」


彼女は古木の幹に手を触れた。

すると、木の表面が波紋のように揺らぎ、その中に映像が浮かび上がった。


その映像は、記憶だった。


沢山の記憶の映っていたのは、幼い頃の僕の記憶だった。


十二年前の、あの日の記憶。


映像の中で、幼い僕と妹が森で遊んでいた。

二人とも笑っていた。妹は楽しそうに、僕の後を追いかけていた。


「お兄ちゃん、待ってよ!」


映像の中の妹が叫んだ。けれど僕は振り返らなかった。

少し意地悪な気持ちで、わざと早く歩いた。


「もう帰るよ」


僕はそう言って、森の出口へ向かった。妹の「待って」という声が背中に届いたが、僕は何も考えず無視した。どうせすぐに追いついてくると思っていた。


けれど――


映像が切り替わった。


妹は、追いかけようとして、足を滑らせた。

斜面があったのだ。枯れ葉に覆われて見えなかった、急な斜面。


妹の小さな体が、斜面を転がり落ちていった。


「お兄ちゃん――!」


悲鳴が森に響いた。けれど僕は、それを聞いていなかった。

いや、聞こえていたのかもしれないが、鳥の声か何かだと思って気に留めなかった。


妹は斜面の下で、動かなくなった。


頭を石にぶつけていた。白いワンピースに、赤い染みが広がっていった。


そして――森が、動き始めた。


木々の根が伸び、妹の体を包み込んだ。まるで優しく抱きかかえるように。

そして妹は、ゆっくりと土の中へ沈んでいった。


森が、彼女を取り込んだのだ。


そこで映像は途切れた。


僕は膝から崩れ落ちた。涙も声も出なかった。

ただ口を開けて、体が何かを吐き出そうとしたが、何も出てこなかった。


「思い出した?」

妹が静かに尋ねた。


「お兄ちゃんは、本当は知ってたんだよ。ずっと」


彼女は僕の隣に座った。


「あの日、お兄ちゃんは途中で気づいたんでしょ? 私の声が聞こえなくなったって。でも怖くて、確かめに戻れなかった」


その通りだった。


僕は途中で、妹の気配が消えたことに気づいていた。

けれど認めたくなくて、そのまま森を出た。家に帰ったら妹がいると信じたかった。

いや、信じなければ、自分が壊れてしまいそうだった。


「お兄ちゃんは何も悪くないよ」

妹は優しく言った。


「ただの事故だった。誰も悪くないの」


けれど、その優しさが、逆に僕を責め立てた。


「でもね、お兄ちゃんはずっと自分を責めてた。それが…この森に届いたの」


妹は古木を見上げた。


「森はね、罪悪感を持つ人を呼ぶんだって。苦しんでいる人、後悔している人、許されたいと願っている人」


古木の幹が、再び波打って、静かに叫んでいる。


「そういう人たちは、森にとって完璧な"苗床"なの」


「苗床……?」


「うん。森は、その人の記憶と罪悪感を栄養にして、"失くしたもの"を再構築する。でもそれは本物じゃない。ただのコピーなの」


彼女は自分の胸に手を当てた。


「私も、コピー。お兄ちゃんの記憶から作られた、妹の形をした何か」


その告白は、淡々としていた。まるで天気の話をするように。


「最初は曖昧だった。形も、声も、記憶も。

でもお兄ちゃんがここに来るたびに、お兄ちゃんから"素材"を受け取って、私はどんどん完成していった」


彼女は僕の顔を覗き込んだ。

その目には、もはや人間と変わらない光があった。


「そして今、もうすぐ完成する。お兄ちゃんの全部を受け取ったら、私は完全な"生きている人間"になれるの」


「そうしたら……僕は……どうなるんだ?」


「消える」

妹は即座に答えた。


「お兄ちゃんは森の一部になる。

記憶も、名前も、体も、ぜんぶ森に溶けて、私の材料になる」


風が吹いた。いや、それは風ではなく、森全体の呼吸のように感じた。


「でも、それでいいんでしょ?」


妹は微笑んだ。


「お兄ちゃんは、それを望んでた。妹を生き返らせるためなら、自分が消えてもいいって」


違う、と言いたかった。けれど本当に違うのか、もう分からなかった。


「ねえ、お兄ちゃん」


妹は僕の手を握った。

その手は温かく、柔らかく、生きていた。


「私の中に、お兄ちゃんの全部が残るよ。記憶も、感情も、ぜんぶ。だから寂しくないよ」


彼女は僕を抱きしめた。


「私が、お兄ちゃんの代わりに生きる。外の世界で、お兄ちゃんの分も、ちゃんと生きる」


耳元で囁く声が、森の声と重なっていった。


「だから、安心して」


古木の根が、僕の足元から伸びてきた。

ゆっくりと、優しく、僕の体に絡みついていく。


「ありがとう、お兄ちゃん」


妹の声が遠くなった。いや、遠くなったのではない。

僕の耳が、もう何も聞こえなくなっていたのだ。


視界が暗くなっていく。

体の感覚が消えていく。


自分が誰なのか、どこにいるのか、何をしているのか。

すべてが溶けて、混ざって、森に還っていく。


最後に見えたのは、目の前の妹の笑顔だった。


彼女が本物なのか、偽物なのか、もう分からなかった。

ただ――彼女は、確かに「生きて」いた。



第4話 完

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