第3話『薄れていくもの』
森へ通う日々の中で、僕は自分が何者であるかを少しずつ忘れていった。
朝、目を覚ますと、自分がどこにいるのか分からなかった。窓の外に見える景色に見覚えがない。いや、見覚えがないわけではない。ただそれが「自分の記憶」なのか「誰かの記憶」なのか、区別がつかなくなっていた。
鏡を見ても、そこに誰も映らなくなった。ガラスの表面に、部屋の風景だけが映っている。僕の姿はどこにもない。
最初は恐怖を感じたが、やがてそれも当然のことのように思えてきた。
名前も、曖昧になった。
自分の名前を呼ばれても、それが自分のことだと認識するまでに時間がかかる。
宿の主人に声をかけられても、一拍遅れて反応する。
そしてその反応すらも、本当に「自分」がしているのかどうか、自信が持てなくなっていた。
ある朝、宿の帳面を見た。そこには確かに僕の名前が書かれていた。
けれどその文字は、まるで他人が書いたもののように見えた。
この名前は本当に自分のものだろうか?
そもそも、自分は本当にここに泊まっているのだろうか?
指で文字をなぞった。紙の感触があった。けれどそれを感じているのが「自分の指」だという確信はなかった。
森へ向かう道すがら、村人とすれ違った。
彼らは僕を見て、不思議そうな顔をした。いや、「見て」いたのかどうかも分からない。
彼らの視線は僕を透過して、その向こう側の何かを見ているようだった。
試しに声をかけてみた。
「すみません」
けれど声は喉の奥で掠れ、ほとんど音にならなかった。
村人はそのまま通り過ぎていった。まるでそこに僕が存在していないかのように。
森の入口に立つと、いつものように冷たい空気が僕を包んだ。
けれど今日は、その冷たさに安堵を覚えた。
森の中でだけは、僕は確かに「ここにいる」という実感があった。
妹が僕を認識してくれるから。妹だけが、僕を見てくれるから。
窪地で、彼女が待っていた。
以前よりもずっと生き生きとした表情で、僕を迎えた。
頬には血色があり、目には光があった。声にも温度があった。
もはや、彼女は完全に「生きている人間」だった。
「お兄ちゃん、遅かったね」
彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔は、かつて僕が知っていた妹のものよりも、ずっと自然だった。
「ごめん……道が、分からなくて」
僕の声は弱々しく、風に消えそうだった。
妹は僕に近づいて、顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん、薄くなってる」
「薄く……?」
「うん。前よりずっと」
彼女は僕の手を取った。その手は温かく、柔らかかった。
「でもね、大丈夫だよ。それでいいの」
「何が……大丈夫なんだ……?」
妹は首を傾げて、不思議そうに僕を見た。
「お兄ちゃん、まだ分からないの?」
「何を……」
「森のこと」
彼女は水溜まりの方を指差した。そこには相変わらず静かな水面が広がっていた。
「この森はね、失くしたものを取り戻してくれる場所なの」
「失くしたもの……」
「うん。でもね、そのためには、何かを渡さないといけないの」
彼女の言葉に、僕の中で何かが引っかかった。
まるでずっと忘れていた大切なことを思い出しかけているような、そんな感覚。
「森はね、人の記憶を食べるの」
妹は淡々とした口調で続けた。
「悲しい記憶、苦しい記憶、後悔の記憶。そういうものを、少しずつ食べていく。そしてその記憶を使って、失くしたものを作り直すの」
「作り直す……?」
「うん。だから私は、ここにいられる」
彼女は自分の胸に手を当てた。
「お兄ちゃんの記憶から、私は作られた。お兄ちゃんが私を思い出すたびに、私は少しずつ完成していったの」
僕は言葉を失った。頭の中で、様々な断片が繋がり始めた。
「でもね」妹は続けた。
「記憶だけじゃ足りないの。もっと大きなもの、もっと重いものが必要なの」
「それは……」
「お兄ちゃん自身」
彼女は僕の目をまっすぐ見つめた。
「お兄ちゃんが持っている全部。名前も、過去も、体も、心も。それを森に渡すことで、私は完璧になれる」
風が吹いた。木々が揺れ、葉が舞い落ちた。
その音は、まるで誰かが囁いているようだった。
「お兄ちゃんは、それを望んでここに来たんでしょ?」
妹の言葉が、胸に突き刺さった。
「私を蘇らせるために、自分を差し出すつもりだったんでしょ?」
違う、と言おうとした。けれど声が出なかった。本当に違うのか?
本当に、僕はただ妹を探しに来ただけだったのか?
頭の中で、古い記憶が蘇り始めた。
あの日のこと。
妹が消えた、あの日のこと。
僕たちは二人で森に来ていた。両親には内緒で。
妹がどうしても行きたいと言ったから、僕は仕方なく連れてきた。
森の中で、僕たちは遊んだ。かくれんぼをした。鬼ごっこをした。
そして――僕は、先に帰ろうとした。
妹が「待って」と言ったのに。
「もう少しだけ」と言ったのに。
僕は構わず歩き出した。妹が追いかけてくるだろうと思っていた。
いつものように、すぐに追いついてくるだろうと。
でも、妹は追いついてこなかった。
森の出口で振り返った時、妹の姿はどこにもなかった。
僕は慌てて森に戻った。
妹の名前を呼びながら、何度も何度も森の中を探した。
けれど、妹は見つからなかった。
そして僕は――怖くなって、逃げた。
両親には「妹が勝手にいなくなった」と言った。森に一緒に行ったことは黙っていた。
それから十二年間、僕はずっとその嘘を抱えて生きてきた。
「思い出した?」
妹の声が聞こえた。
僕は顔を上げた。彼女は悲しそうでも、怒っているようでもなく、ただ静かに微笑んでいた。
「お兄ちゃんのせいじゃないよ」
彼女はそう言った。
「お兄ちゃんは悪くない。ただ、怖かっただけ」
その優しい言葉が、かえって胸を締め付けた。
「でもね、お兄ちゃんはずっと苦しんでた。だから森が呼んだの。その苦しみを、森に渡しなさいって」
妹は僕の手を取って、水溜まりの縁へ導いた。
「ほら、見て」
水面に、映像が浮かんでいた。
それは森の記憶だった。いや、この森で消えていった人々の記憶だった。
妹と同じように、誰かを探しに来た人々。
罪悪感を抱えて、森に引き寄せられた人々。
彼らは皆、森の中で「失くしたもの」と再会し、そして――消えていった。
森に取り込まれ、記憶と存在を素材として使われ、その代わりに「失くしたもの」が蘇った。
「悲しいことじゃないよ。だって、お兄ちゃんが消えても、私が残る。私の中に、お兄ちゃんの全部がある」
彼女は僕を抱きしめた。
その体温が、かつての僕の体温だったような気がした。
「ねえ、お兄ちゃん」
耳元で、妹が囁いた。
「あなたは私になるんだよ」
その言葉と共に、僕の中に残っていた最後の「自分」が、音もなく崩れ落ちていった。
第3話 完




