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第2話『再会』

森の中で彼女を探すうち、僕は時間の感覚を失っていった。

腕時計の針は動いているはずなのに、その進み方が正しいのかどうか確信が持てない。

木漏れ日が差す角度も、気温の変化も、すべてが曖昧で、まるで森全体が一枚の静止画の中に閉じ込められているようだった。


「お兄ちゃん、こっちだよ」


声が聞こえる方へ進むと、また別の場所から声がする。

森が僕を弄んでいるのか、それとも妹が本当にそこにいるのか、判断がつかなかった。

ただ、足は勝手に動き続けた。


昨日と同じ窪地に出たのは、どれくらい歩いた後だっただろうか。

そこに、彼女はいた。


水溜まりの縁に座り込んで、両手で水面を撫でていた。

白いワンピースの裾が泥に染まっているのに、彼女は気にする様子もなかった。


「葵……」


僕が声をかけると、彼女は顔を上げた。昨日と同じ、穏やかな笑みを浮かべて。


「お兄ちゃん、来てくれたんだ」


その声は確かに妹のものだった。けれど何か、ほんの少しだけ違和感があった。

音程が微妙にずれているような、あるいは誰かが真似をしているような――そんな印象を受けた。


「お前、本当に……本当に葵なのか?」


僕の問いに、彼女は首を傾げた。


「何言ってるの。私は私だよ」


そう言って、彼女は立ち上がった。背丈は僕の記憶通りだった。

百四十センチにも満たない、小学生のままの背丈。


けれど彼女の表情には、幼さとは異なる何かが宿っていた。


「お兄ちゃん、覚えてる? あの日のこと」


「……あの日?」


「うん。二人で森に来た日」


僕は記憶を手繰り寄せようとしたが、靄がかかったように思い出せなかった。

二人で森に来たことがあっただろうか。いや、あったような気もする。

でも、それがいつのことだったのか――。


「お兄ちゃんが先に走って行っちゃって、私、追いかけたんだよ。でも追いつけなくて」


彼女の言葉に、胸が締め付けられた。

それは僕が昨夜見た夢と同じ光景だった。


「それで、私ね、迷子になっちゃったの」


彼女は笑っていた。まるで昔話をするように、軽い調子で。


「でもね、大丈夫だった。森が優しくしてくれたから」


「森が……?」


「うん。森はね、寂しい人を放っておかないんだよ」


彼女はそう言って、再び水面に視線を落とした。

その水面には、僕たちの姿が映っていた。

いや、正確には僕の姿だけが映っていた。妹の姿はどこにもなかった。


「なあ、葵……お前、どうやっていままでここで生きてきたんだ?」


僕の質問に、彼女は答えなかった。ただ微笑んだまま、僕の手を取った。


その手は冷たかった。


いや、冷たいというより――温度がなかった。

まるで水に触れているような、体温のない感触だった。


「お兄ちゃん、一緒にいよう。ずっと」


彼女の言葉に、僕は何も答えられなかった。

喉の奥に何かが詰まっているような感覚があった。


それから僕たちはしばらく森の中を歩いた。妹は時折立ち止まって、木々や草花を撫でた。

「この木、好きなの」「この苔、柔らかいよ」とか、そんな子供じみた言葉を口にしながら。


けれど途中で、妹は奇妙なことを言い始めた。


「明日、雨が降るよ」


そう言って空を見上げた。

空は木々に覆われて見えなかったが、彼女は確信を持った口調で続けた。


「その次の日は、誰かが森に来る。女の人」


「……なんでそんなことが分かるんだ?」


妹は僕を見た。その瞳は、記憶の中よりも深く、暗かった。


「森が教えてくれるの」


それだけ言って、彼女は再び歩き出した。


その日の夜、宿に戻った僕は鏡の前に立った。

そして――自分の顔を見て、妙な違和感を覚えた。


何かが違う。


でも、何が違うのかが分からない。


目の位置も、鼻の形も、口元も、すべて記憶通りのはずだった。

けれど鏡の中の自分が、どこか他人のように見えた。


まるで誰かが僕の皮を被っているような、そんな感覚だった。


手を伸ばして、鏡に触れた。冷たいガラスの感触があった。


けれど、その感触が「自分の手が感じている」という確信が持てなかった。


その時、ふと気づいた。


鏡に映る自分の影が、薄い。


いや、薄いというより――輪郭がぼやけている。

まるで古い写真のように、僕の姿だけが焦点の合わない映像になっていた。


僕は慌てて部屋の電気を消し、布団に潜り込んだ。

目を閉じても、鏡の中の自分の顔が脳裏に浮かんだ。


翌日、妹の言った通り、雨が降った。


音もなく降る、細かな雨だった。

僕は傘も差さずに森へ向かった。

雨に濡れている感覚はあったが、冷たさを感じなかった。


それどころか、自分が濡れているのかどうかすら、途中から分からなくなった。


森の中で、また妹に会った。

彼女は雨に濡れていなかった。髪も服も、乾いたままだった。


「お兄ちゃん、びしょ濡れだね」


彼女はそう言って笑ったが、その笑い声はどこか森全体に響いているようだった。

まるで複数の声が重なっているような、不協和音めいた響きがあった。


「なあ、妹」


僕は尋ねた。


「お前、本当に十二年間ここにいたのか?」


彼女は首を傾げた。


「十二年? そんなに経ったの?」


「……覚えてないのか?」


「うーん、よく分からない。森にいると、時間が分からなくなるの」


そう言って、彼女は僕の手を取った。またあの、温度のない感触。


「でもね、お兄ちゃんがここに来てから、私、すごく元気になったの」


「元気に……?」


「うん。なんだか、体が軽くなって、いろんなことが分かるようになって」


彼女は僕の顔をじっと見つめた。


「お兄ちゃんがここにいてくれるから、私、どんどん強くなれる気がする」


その言葉に、僕は寒気を覚えた。


それから数日間、僕は毎日森へ通った。

いや、「通った」というより、「引き寄せられた」と言うべきかもしれない。


朝目覚めると、体が勝手に森へ向かっていた。

僕の意思とは関係なく、足が森へ、森へと向かっていった。


そしてその度に、妹は少しずつ変わっていった。


表情が豊かになり、声に力が宿り、動きが滑らかになった。

まるで生命が吹き込まれていくように、彼女は「生きている人間」らしくなっていった。


一方で、僕は逆だった。


自分の名前が思い出せなくなることがあった。

宿の部屋に戻っても、どの部屋が自分の部屋だったか分からなくなった。

鏡を見ると、そこに映る自分の姿がさらにぼやけていて、時には全く映らないこともあった。


ある日、妹が僕の頬に手を触れた。


「お兄ちゃん、冷たいね」


彼女はそう言った。その手は、以前よりも温かかった。


「私の方が、温かいでしょ?」


彼女は微笑んだ。その微笑みは、もはや作り物には見えなかった。

生きた人間の、自然な笑顔だった。


「あのね、お兄ちゃん」


彼女は僕の耳元で囁いた。


「私ね、分かったの」


「……何が?」


「お兄ちゃんがどうして私を探しに来たのか」


僕の心臓が、鈍く跳ねた。


「それはね――」


彼女の声が、森の音と重なった。


「お兄ちゃんが、ずっと抱えてきたものを、手放したかったからだよ」


風が吹いた。木々が揺れ、葉が擦れ合う音がした。

その音は、無数の声のように聞こえた。


「大丈夫。私が受け取ってあげる」


妹はそう言って、僕を抱きしめた。


その腕の中で、僕は――自分の輪郭が溶けていくような感覚を味わった。


第2話 完

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