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第1話『森に入った日』



森へ向かう朝の電車の中で、僕は妹の顔を思い出そうとしていた。

けれど不思議なことに、その輪郭はぼんやりと曖昧で、記憶の底に沈んでいる古いフィルムのようにところどころ白く欠けていた。


あれからもう何年が経ったのだろう。十二年か、十三年か。

いずれにせよ、僕にとって妹の不在は既に日常の一部になっていた。


その日、電話をかけてきたのは、村に住む遠縁の叔母だった。


「あの森でな、葵さんらしい人を見たって話があったんよ」


叔母の声は低く、躊躇うような響きを含んでいた。


「あんたがまだ気にしてるかどうか分からんかったけど、一応…知らせておこうと思って」


あの森――僕たちが子供の頃に何度か訪れたことのある、村の奥にある森のことだ。

あの場所には古くから妙な信仰めいたものがあって、死者が戻ってくるという噂が絶えなかった。


行方不明になった者がふらりと森から現れる。死んだはずの家族が姿を見せる。

そういった類の話が、代々語り継がれている場所だった。


合理的に考えれば、ただの迷信だ。だが僕は、その話をただの迷信と聞き流すことはできなかった。


妹は十二年前、僕が十六の時に姿を消した。理由は分からない。

いや、正確には「分からないことにしている」と言うべきかもしれない。


ある朝、彼女はただいなくなった。警察は捜索を続けたが、遺体も痕跡も見つからなかった。


できる限りの力を尽くしたが、やがて世間は妹のことを忘れ、両親は疲れ、諦め、老いていった。

けれど僕だけは、どこか心の奥底で、まだ妹が生きているのではないかという予感に囚われ続けていた。


村に着いたのは昼を少し過ぎた頃だった。

記憶の中よりも人が少なく、道は荒れ、家々の色は褪せていた。叔母の家で一服してから、僕は森へ向かった。


森の入口には、古びた鳥居が立っていた。扁額には何も書かれておらず、ただ黒ずんだ木肌が雨風に晒されていた。


鳥居をくぐると、空気が変わった。

湿気を帯びた冷たさが肌に張りつき、音が妙に遠くなる。

まるで耳の奥に水が入ったような、不明瞭な静けさだった。


足を踏み入れると、土が柔らかく沈んだ。木々は背が高く、空を覆うように枝を広げていた。けれど不思議なことに、鳥の声も虫の音もほとんど聞こえなかった。

あるのはただ、木の葉が微かに擦れ合う音だけ。その音は時折、人が囁き合っているように聞こえた。


僕は何度か立ち止まり、耳を澄ませた。


「……お兄ちゃん」


そんな声が聞こえた気がした。けれど振り返っても、そこには誰もいない。気のせいだろうか。いや、気のせいだと思いたかった。


歩いているうちに、道がどこまで続いているのか分からなくなった。木々の配置も、土の匂いも、どこか似通っていて、同じ場所をぐるぐると回っているような感覚に陥る。時計を確認すると、針は午後二時を指していた。けれどその時刻が正しいのかどうか、もはや判断がつかなかった。


やがて小さな祠が見えた。そこには色褪せた供物が置かれ、蝋燭の燃え残りが散乱していた。誰かが最近ここを訪れたのかもしれない。


その祠の前で、僕は足を止めた。なぜだか、ここから先へ行ってはいけない気がしたのだ。


けれど、そう思った瞬間――視界の端に、人影が映った。


小さな、女の子のような影だった。


「……誰だ」


僕は声を出したが、影は動かなかった。

ただじっと、こちらを見ているような気配だけがあった。


近づこうとすると、影はするりと木の裏へ消えた。

追いかけようとして数歩進むと、また別の木の向こうに同じ影が現れる。まるで遊んでいるかのように、影は僕を導いていった。


やがて、開けた場所に出た。そこは小さな窪地のようになっており、中央には水が溜まっていた。

その水面は不自然なほど静かで、風が吹いても波一つ立たなかった。


そして、その向こう側に、彼女が立っていた。


その姿は間違いなく、妹だった。


見間違えるものか。あの小さな背中、長い髪、白いワンピース――全て、記憶の中の妹と同じだった。


「……葵……?」


僕の声は震えていた。彼女は振り返らなかった。

ただ静かに立ち、水面を見つめていた。


「本当に、お前なのか……?」


僕が近づこうとしたその時、彼女はゆっくりと首を巡らせた。

その顔、姿、全てが確かに妹のものだった。


けれど――何かが違った。


表情が、あまりにも穏やかすぎる。まるで作り物のように整った笑みを浮かべて、彼女は僕を見ていた。


「お兄ちゃん」


彼女はそう言った。声も、記憶の中と同じだった。

けれど、その声はどこか遠く、森全体に反響しているようにも聞こえた。


「ずっと待ってたよ」


僕は何も言えなかった。緊張で喉が渇いていた。足が動かなかった。

ただ、その場に立ち尽くして、彼女を見ていることしかできなかった。


「また会えて嬉しい」


彼女はそう言って、微笑んだ。


そして――その微笑みのまま、彼女は再び森の奥へと消えていった。


僕は追いかけようとしたが、足が地面に張り付いたように動かなかった。

気づけば、あたりは薄暗くなっていた。時計を見ると、午後六時を指している。

四時間も経っていた。記憶が曖昧だった。

何をしていたのか、どうやってここまで来たのか、はっきりしない。


僕はその夜、村の宿に泊まった。部屋は狭く、布団は湿っていた。

眠ろうとしても、妹の顔がちらついて眠れなかった。


そしてようやく眠りに落ちた時、僕は夢を見た。


夢の中で、僕は再び森にいた。

けれど今度は、自分ではない誰かの視点で森を歩いていた。その誰かは、僕よりも小さく、歩き方が不安定だった。視界が低く、息が浅い。


そして――その誰かが振り返ると、そこに僕がいた。


夢の中の僕は、今の僕ではなく、幼い頃の僕だった。

十代の、妹がまだいた頃の僕だ。


「お兄ちゃん、待って」


妹の声だった。けれどそれは僕自身の口から出ていた。


僕は――いや、妹は――走って僕を追いかけようとした。

けれど僕は振り返らず、森の奥へと消えていった。


そこで目が覚めた。


部屋は暗く、窓の外からは何の音も聞こえなかった。

けれど、耳の奥に妹の声がまだ残っていた。


「待って」


僕は布団の中で目を閉じた。けれど、もう眠ることはできなかった。


翌朝、再び森へ向かった。


鳥居をくぐった瞬間、昨日と同じ冷たい空気が僕を包んだ。

そして――森の奥から、また彼女の声が聞こえた。


「お兄ちゃん」


今度は、もっと近くから。


第1話 完

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