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迎えたバラ祭りの日。
年に一度の大規模な王都のお祭りで、地方からも沢山人が集まる日だ。
噴水のある広場を中心に四本の大通りを露店が並び、晴天の下にはレンガ畳みの道を沢山の人々が行きかっていた。
家々の玄関や窓には籠が下げられ、そのなかに大量のバラが入れられている。
移動花屋の店主は忙しそうに大小のバラの花束をせっせと作っていた。
紙吹雪やバラの花弁がひらひらと風に揺れるなか、リーゼロッテは上機嫌にクレメンスへ振り返った。
「こっちよクレメンス」
「リジー待って、転ぶから走らないで」
「転ばないわよ」
きゃっきゃっと弾んだ足取りで歩くリーゼロッテの横に大股で追いついたクレメンスが、赤い髪についている白いバラの花弁を指先でつまんだ。
今日のリーゼロッテは薄い桃色のワンピースにペールイエローのリボンで髪をフィッシュボーンに結んでいる。
「帰る頃にはバラまみれね」
リーゼロッテも指を伸ばしてクレメンスの紫がかった黒髪についている赤い花びらをはらってやった。
「そうだね、それで何を買うの?」
「もちろん食べ物よ!」
クレメンスの問いかけにリーゼロッテがびしりと指差したのは、食べ物の屋台が並ぶ通りだった。
クレメンスの視線が思わず花や小物を売っている別の通りの方へ動いたけれど。
「花も小物もクレメンスがくれるから、いっぱいあるもの」
「そ、そっか」
あっけらかんと言ったリーゼロッテに、何故かクレメンスの頬がうっすらと赤くなりぎこちなく目線をずらされた。
それを変な奴と思いながらも、リーゼロッテは急かすようにクレメンスの紺色の上着の袖を引っ張った。
「どれにする!?串焼きもいいけどやっぱりバラクレープは食べなきゃよね、今年はカフェで林檎をバラに見立てたケーキもあるらしいわよ」
「そんなに急がなくてもバラ祭りは始まったばかりだから大丈夫だよ。それに食べ過ぎるとお腹壊すよ」
「人気のやつは売り切れちゃうでしょ、よし決めた!まずはクレープよ」
言うなりリーゼロッテは今にも走り出そうとするのをクレメンスに宥められながら、バラのジャムと苺を使ったクレープの出店へ並んだ。
「ここのクレープは食べておかないとね」
「ハンカチはちゃんと持ってる?手を汚さないようにね」
「持ってきてるわよ、クレメンスうるさいから」
そんな応酬をしていると比較的早く順番がきたのでクレメンスがクレープをひとつ注文した。
「はいリジー」
「ありがとってクレメンスは?」
買ったクレープを渡されたリーゼロッテは不思議そうにしながらも、しっかり受け取った。
「僕は甘い物はいいよ」
「そういえば私が作ったもの以外は甘いの食べないんだっけ」
驚きつつもはぐりとクレープに齧りつけば、クレメンスはおかしそうに瞳を細めた。
「そうだね」
「……そういえば毎年私ばっかり何か食べてる気がする」
はぐりとまたクレープを一口。
芳醇なバラの香りと苺の甘酸っぱさが生クリームによく合っていて、リーゼロッテはご満悦だ。
「気のせいじゃないよそれ」
くすくすと笑ってクレメンスは座ろうと、道の端にあるベンチにリーゼロッテを誘導した。
うながされるままにベンチに座り、もっくもっくとクレープを食べていく。
「次は何にする?甘い物以外よね」
「僕のことは気にせず好きなの食べていいよ。でも食べ過ぎないようにね」
うーんやっぱり串焼きかな、などと考えていると、喧噪の向こうから怒鳴り声が聞こえた。
どうやらぶつかった拍子に持っていた物を落として壊れたらしい。
男の怒鳴り声に周りの視線がそちらへ向かうなか、リーゼロッテは体を強張らせた。
「喧嘩かな」
クレメンスの言葉も耳に入ってこない。
罵声は何度も聞いた。
金を返せと借金取りに。
お前は使えないと会社の上司に。
(いや……こわい……怒鳴らないで、怒らないで)
カタカタと体が震えだして何も聞こえないし、見えない。
呼吸が上手く吸えないと喘いだ。
「リジー!」
大きなクレメンスの呼び声に、弾かれるように顔を上げた。
気づけばクレープを持っている手を温かな手が包んでいる。
心配そうなアメジストの瞳に、今は怒鳴られるような生活ではないことを思い出した。
「怖かった?大丈夫、騒ぎは収まったよ」
そういえばもう怒鳴り声は聞こえていない。
賑やかな祭りの雰囲気に戻っていた。
ほう、と細く息を吐く。
「ごめん、大丈夫」
「何か飲み物買ってこようか?」
気づかわし気な声に、リーゼロッテは首を振った。
今はもう違う世界のことだと思えば、落ち着いてきた。
「平気、大きな声苦手みたい」
「そっか、人の多いところはバラ祭りくらいしか来ないもんね。しばらくこのまま休んでいよう」
クレメンスの気遣いに小さく頷くと、温かな手が離れていった。
温もりを失った手が冷えるような感覚が不思議だった。
そのままチマチマと残っていたクレープを食べていると、いつもの調子を取り戻しクレメンスと話す。
リーゼロッテのその様子に、クレメンスはホッとした表情で静かに相槌を打ってくれる。
ふいににゅっと二人の前にピンクのバラが突きつけられた。
「お二人さんバラをどうぞ」
陽気そうな男が片手にバラのいっぱい入った籠を下げて、二人に一輪差し出してきたのだ。
バラ祭りには、愛する人の髪へバラを挿し、手の甲にキスをして告白するという風習がある。
毎年そんなものとは無縁だったけれど、年頃に成長してきているからだろうか。
バラを貰うなど初めてだった。
「あ、あの、僕達はそんなんじゃ!」
いつもの落ち着きはどこへやら。
クレメンスが一気に顔を赤くしてバラを断ろうとしたけれど。
「まあまあ、ほら」
男は強引にクレメンスにバラを握らせると、また別の人の所へと軽やかな足取りで行ってしまった。
残されたクレメンスはどうしようといった風に、自分の持っているピンクのバラを見下ろしている。
「いいじゃない貰っときなさいよ」
「僕が持ってても……」
困ったように眉を下げるので。
「じゃあ挿していいわよ」
ほらとクレメンスに横顔を近づけると。
「い、いいの!?」
「手が塞がったままだと困るでしょ」
「……そうだね」
クレープの最後の一口を口に放り込むと、クレメンスの長い指が左側の髪にバラを挿しいれた。
さすがにキスはしないけれど。
「よし!次いくわよ」
ひょいとベンチから立ち上がる。
「お腹壊すからほどほどにね」
そんな会話をして、なんだかんだと食べ物だけでなく雑貨屋なんかも見回っていると夕方になっていた。
「リジーそろそろ帰ろう」
「えぇーこれから花火なのに?」
不満いっぱいにぶうたれれば、クレメンスは仕方がないよと苦笑した。
「さすがに夜までは許可でないよ。リジーも僕も」
「そうよねえ」
あーあと未練がましくも、クレメンスに家まで送ってもらうべく歩き出した。
「まだ帰りたくないな」
唇を尖らせるリーゼロッテに。
「また来年くればいいよ」
クレメンスが慰めるようにぽんと背中を小さく叩いた。
「そうね、来年も約束よ!」
「……僕と?」
力いっぱい約束と口にしたら驚いたようにクレメンスがアメジスト色の瞳を見張った。
「なによ、嫌なの?」
心外そうにその顔を見上げると。
「ううん、一緒に行こう。約束」
ずいぶんと自分より背の高い幼馴染を見上げると、クレメンスは嬉しそうに瞳をしんなりとさせていた。