Flop - Bet -
初めに口紅の付いた場末のBarのショップカードが、あの街の裏通りの目立つ壁の割れ目に差し込まれた。続いてストリートで流行のブランドCrow(n)のステッカーがその近くに貼られ、そこに煙草が押し付けられたのか、その吸い殻が下に転がっていた。
遅れて楽園のメッセージカードが添えられ、最後に白墨で狂信的な印章が目立たない下の方に描かれた。
それから2週間ほど経って、5人はあの街の場末の地下階にあるオープン目前の上海料理店に集められた。
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「はぁ~い。」
髪の毛を、肩口で怜悧に切り揃えた好い女がいた。スパンコールが煩い安物のドレス――丈の短いギャザーをヒラヒラと遊ばせながら、シックな色合いでバランスを取ったノーブランド品――で身を包み、安い大粒の装飾品で飾り、CHANELの香水を纏った、死の瞳を持つ無敵の女王がいた。
ホールの中央、開いた空間に置かれた丸い机の女王のカードが立てられた席に着いて、右手のグラスの赤ワインを通って揺れる照明の光で、妖しく誘っているかのようだ。
「……んん。やはりアミさんの飼い主が、主催したンじゃないかい?」
若頭は広いとも狭いとも言えないホールを見回してから歩を進め、立並ぶ給仕の質の低さに目を細め、バイトだろうと当たりを付ける。そしてVERSACEのコートを畳んで王のカードが立てられた席にかけながら、黒髪の女が否定するであろう先の問いを投げた。
「まさか。――せっかくの懇親会なら煩わしいアレコレが始まる前に、ひとりで思いっきり我が儘を言う方がお得だと思わない?」
あまりに真っ当で女性らしい回答に、若頭も破顔して「間違いない。」と緊張を解いて給仕に酒の種類を訊ね始める。結局、青島ビールや紹興酒だと言われた酒に「それで良い。」と告げて手を二、三度振った。
「なンだ、後ろのバーカンで酒とツマミは用意する店か。」
「そうみたい。前には舞台もあるわ。何が始まるのかしらね?」
と、ワインの残りをひと息に呷って上機嫌に、無敵の女王は唇を濡らして微笑む。ベッタリと#444の口紅の跡をグラスの縁に残して。
その姿が、あまりに無防備に扇情的に見えたのか、若頭は柄にもない言葉を漏らしてしまう。
「次、何か頼むかい?」
「あら、優しいのね。……酔わせてどうするつもりかしら。」
「……狼を口説く羊ほど愚かでも、正体を失うほどウォッカを飲んでもなかったことを、いつか後悔するとアミさんは思うかい?」
「ふふ。嵐の夜ならどうだったかしら。」
「いつになく熱いなァ。――テンペストか。それとも秘密の友達になろう、なんて俺を誘うかい?」
「――残念ね。わたしもう、"もっとステキな人と出会いたいなんて思ってないの"。」
「だろうなァ。」
ひと頻り男女は小さく笑い合う。
「高ぇ女だ。」
「あら、そうでもなくってよ。」
香水と香水の香りだけが交じり合う場で女は戯けるように、もしくは酒精に浮かれたように形の良い唇を歪めて言葉を紡ぐ。
「場末のマティーニで十分。……でもね。とびきりに辛くて、焼けるほど熱い王さまを頂戴?」
「――高ぇ女だ。」
「意気地なし。」
「構やしねぇ。」
心地良い掛け合いに、バーカンで酒を作る音だけがBGMであればどれほど穏やかに楽しめただろうか。三人目の靴音が響いて、男女の語らいは止まった。
「――皆さん……は、お揃いじゃないみたいだ。」
民族衣装に着想を得たような意匠の自然派素材で作られた服で中性的に見える男、室谷がコートを脱げば、スズランの押し付けがましい香りが広がる。そして、そのコートを給仕に預けようとして、女を見て手を止めた。
「あれ、貴女は……そのHERMESを預けないのです?」
「ええ。危機管理が甘かったから、かしら。もっと奥まで手を入れて構わないと、言ったのだけれど。」
「それに、若頭さんも背中にかけちゃって……ここ、そんなに物騒な現場になるのかなァ。」
「素人だよ。」
若頭は給仕の方に顎をしゃくり、コートの扱いへの懸念を示す。
「なるほど。じゃあボクも、止めようかなァ。……これも、何かの思し召し、かな。」
「そう。……あなたも、なにか飲む?」
「下戸なので。」
「うそつき。」
狂信者は言いながら、Tの席に着いた。特に上に羽織ったものを脱いだりせず、テーブルに肘をついて手を組み、顎を乗せて女の質問に答えた。
「酒乱は下戸じゃないと?」
「――それで、あのとき。見境が無かったのね。」
「恥ずかしながら。」
真っ赤な過去話だった。
「それなら仕方ないわ。――ねえ、ノンアルのカクテルは無いの?」
女は朗らかに給仕に訊ねるが、雰囲気たっぷりな三人に気圧された給仕は数舜、対応が遅れる。まるで女に見つめられて、見惚れてしまったかのようにも見えた。
その隙を女は見逃さない。
「――わたし、キレイ?」
「え!? あ、はいっ!」
「ありがとう。」
「――すみません。今、メニューをお持ちします。」
狂信者はメニューを取りに行った給仕のひとりに視線を遣りながら、貼り付けたような笑みを浮かべる。
「優しんだァ。」
「知らなかった?」
「もちろん、」
結論は言わず、ニタニタと気持ち悪い笑顔を貼り付け続ける狂信者を、女は机に身を乗り出してしばし真っ直ぐ見つめた。もしくは、豊満な胸の膨らみが重くて台に置きたかったのかもしれない。
「何ですかァ?」
「いいえ? どうして、"皆さんお揃いで"なんて言おうと思ったのかしら、って。」
「――ああ、それ。若頭さんのトコの車と、狂犬クンのトコのバイクがあったから。」
「そう。」
ここで帰ってきた給仕からメニューを受け取って、ついでだからと女も次のお酒を注文した。
「そういえば、気になっていたのだけれど。」
「なンだ?」
女は若頭の方を向いて訊ねる。
「若頭、狂信者と仕事で関わること、あるの?」
「ないなァ。……そもそも狂信者さんはカタギだろ?」
「え?」
「ああ、ボクたちはカタギだねェ。――驚くことかナ? アミさんもカタギじゃないか。」
狂信者が小首をかしげれば、色素の薄い髪の毛がサラサラと零れた。
「わたしはそうよ?」
「つまりボクもさ。」
「ふぅん。」
そこまですっとぼけて見せて、女は若頭への流し目に意図を忍ばせた。客層が分かれているのなら、かつて出会うハズの無かった人物がいたとでも言いたげな視線だった。
けれども。
若頭はその視線を、馬鹿正直に信じない。女という生き物はいつだって場を掻き回す。質の悪い無敵の女王は、高みの見物で薄く笑うだろう。その酷薄の、愉悦に歪んた唇が見えるかのようだ。
悲しいかな、若頭は算盤を弾く性格ではなかった。
「……。」
ゆえに、この場面で沈黙を貫いた。
しかし、その沈黙を破る男がいた。
「なンだ――おしゃべりは終わりか?」
Crow(n)の狂犬だった。
声が聞こえてきた後に存在感を増すCHROME HEARTSのジャラジャラと煩いアクセサリーの音にDr.Martensのブーツの音が重なる。DOLCE & GABBANAの派手な服をCrow(n)の上着で隠した狂犬は、いつの間にか階段近くのバーカウンターにいて、半分空いたJack Daniel'sのNo.27を持ち出して呷った。
この場において、女を一番殺したいと思っている男だ。
「あら、良いもの持っているじゃない。わたしにも頂戴。」
「うるせぇよブス。」
嗤いながら、狂犬はテーブルへと歩く。すでに女は狂犬を無視し、小首を傾げて若頭を見ていた。
「……? ねえ、若頭さん。」
「なンだ?」
「わたし、そんなに長く話していたかしら?」
「……まァ、おしゃべりは短かったな。」
「でしょう? 今日はスカートも短いの。」
女の視線は、昆虫の交尾を初めて見た耳年増に似ていた。
「ビッチが。」
狂犬の吐き捨てるような言葉に、無敵の女王は心底不思議そうな表情で答える。
「狂犬、鉄の女にも同じことを言いそうね。知らないの? それが女の名前よ?」
「は?」
「ハムレットくらい読みなさい。」
「ちっ、ビッチなら泡風呂にでも沈んどけ。」
「……なんだ。知っているじゃない。」
「は?」
「それでも、わたしはね? 世間知らずのお坊ちゃんの願いは踏み躙られてしまうだろう皮肉が、最初から明示されていたとする解釈が、好みなの。」
このとき、テーブルまで歩を進めていたCrow(n)の狂犬とNo.2の女との距離は僅かであった。
「口説くなら、もう少しマシな言葉を選びなさいね?」
ゆえに女はワイングラスを差し出して、溢れるまでJack Daniel'sのNo.27注がせた。実際には女が無言で視線を投げる時間が数秒ほどあって、ある種の根負けのような形で狂犬は酒瓶を逆さまに突っ込んだ。ウイスキーが女の手を濡らして肘まで伝う頃には、No.27は残り6分の1もなかった。
「それとも、それ以外に自慰の仕方を知らないのなら、あとで教えてあげようか?」
「はっ。スケベそうな女が本当にエロくてもクソつまんねぇだろBBA。」
「強がり言って。」
狂犬は、残ったNo.27をひと息に飲み干して、女が口に付ける前に、その手のワイングラスを奪う。意外と紳士的な手つきに女は感心して、されるがままにグラスを手放して、指に残った黄金色の雫を舐めとった。
「俺はHERMESを着てCHANELの香りを纏った女の言葉は信じねェんだ。」
「HERMESのマネキンでもないのに、中身はすべて同じみたいなことを言うのね。CHANELだって最後に纏う一枚に過ぎないのに、火照るまで温める気が無いことの言い訳かしら?」
「そんなに誘われてェのかよ。必死かよ。」
騎士の席に手をかけながら、狂犬は憎まれ口を叩く。
「そうよ? だって女だもの。」
それは鮮やかな返答だった。あまりに腑に落ちて、狂犬も笑いを堪えられなかった。その直後、最後の招待客が階段を下る音が聞こえた。
「おや、やはり私が最後になりましたか。」
コートまでお仕着せで身を固めた楽園のクレーム対応総責任者、副支配人だった。地元の仕立て屋と靴屋にオーダーした衣装はさり気なく品位が高く、ベストにかかるチェーンを辿った先、手に収まる懐中時計のフタを閉じる姿が様になる。Ferragamoの香水を纏った中年の色男。
「本日、晴れてご結婚なされた若い二人の門出を見送ってきたところです。何卒ご容赦を。」
「ステキな話ね。」
「ええ、それはそれは素晴らしいものでした。」
副支配人は後を任せて来る直前の、チャペルでの一幕を思い出していた。参加者が皆、幸せを祝う光景。
「――君。そう、そう君。シャンパンはありますか? それと皆さんに灰皿をください。」
光景の余韻に、副支配人は祝い酒を求めた。
女のシェリー、狂信者のノンアルカクテル、若頭の青島ビールと紹興酒を運ぶ給仕と入れ替わりでバーカウンターに入った別の給仕がタワー型のワインセラーから一本取りだして、軽快に栓を抜く。
ややあって、席に着いた各々の前にそれぞれの酒が置かれた。
「乾杯でもしますかァ??」
狂信者の冗談に狂犬と若頭は鼻で笑った。副支配人は乗り気そうに見えて女は肩を竦めて拒絶の意思を伝える。
ひと時の船頭になった狂信者は思案気に、そして厭らしい笑みを顔に貼り付けて、次の質問を投げかけた。
「――じゃあ、何のために集められたんですかね?」
その言葉に、円卓に着いた男たちは一斉に女を見た。
「……さぁ? わたしは知らないわ。」
しかし女はにべもない。
ただ、円卓の中央に置かれた固定電話を指して微笑んだ。
「けれど、これは何か意味がありそう、でしょう?」
~to be continued~
【Q5】アミがCHANELの#444を口紅として選ぶことが多いのは、なぜか?
そしてごめんなさい。ここで一旦、中~長期的な更新停止になります。プロットはあるのですが、お洒落で格好いい文章を書くために時間がかかってしまうからです。気長にお待ちください。