Small Blind - Queens -
ふしだらな自由を、愛しなさい。
キスした後の駆け引きを、楽しませてくれるのでしょう?
♛♕♛ ♕♛♕
迸るほど熱い女だ、と男は思った。
鼻先が触れるほどの距離で生唾を飲み込むこと2回。鼻腔を抜ける噎せるほど好い女の匂いに脳髄まで眩々と痺れそうになる。CHANELの香水に混じった女の官能が雄の支配欲を焚きつけ、その獣欲の対応を迫る。乗るか反るか、どちらの方が理性的と言えるのか。
男は、導かれるままに女に溺れることに苛立ちを覚えた。だからこそ、あえて嗜虐心に任せたように顔を歪めて荒々しい態度で迫ることを選択した。ちっぽけな男心が、己が欲望を乗りこなしていると証明したかった。
「ん……っ。はぁ……せっかち、ね。」
地下ライブハウスの個室トイレで湿った吐息が絡み合う。
「盛ンなよ雌犬。」
対して壁の向こう、スポットライトの下で音が濡れていた。
インディーズシーンでカルト的人気を博するガールズバンド『Umbrella』。嬌声にも似た吐息で拍を取る扇情的な曲と、身体の曲線が浮かぶほどタイトなレインコート姿で歌うボーカル。
ファンも物販の暴利なレインコートを羽織り、小さな傘を突き上げて汗に濡れる。
その色気たっぷりな雰囲気を言い訳に、男女は一瞬の快楽に身を任せるのだろう。
フロアのファンたちに漏れず女が纏ったレインコートの0.2 mmの上、男は両掌で腰つきを確かめ、そして女の身体を摸るように上へ撫でていく。双丘の輪郭の下を滑って、華奢な身体を支えるよう片手を背中に回し、もう片方は返す手で尻臀の丸みを追って裏腿を抱え上げ、男は女に腰深く密着する。
まるでTangoの一場面のように。
「紳士的ね。」
「言ってろ。」
互いの心臓の拍動が聞こえるほどの距離で、男は、そこがまるでベルベッドを敷いた天蓋付きのベッドであるかのようにさりげなく、女の腰を下ろすべく誘導する。
しかし、熱を帯びた密室での秘め事を女が制止した。
「ねえ、ちょっと待って?」
男は女がくだらない駆け引きを始めたのかと、不満そうに眉を顰める。例えるなら深夜、雑な個撮動画で済ませたあとに泥酔した遊びの女が家に訪ねてきた際の不完全燃焼感に似ていた。
「あなたならもっと……もっと気持ちよくしてくれるって聞いたのだけれど。」
「……なンだ? お前もそれが目当てのイカレか? やめとけよ。」
「……ダメ?」
「ちっ、まあいい――が、ここじゃダメだ。あとでな。」
声に失望の色が滲む。男は理知的な女の言葉に、これからを期待していたが、裏切られた気分だった。冷めた心は瞬時に女の扱いを底辺に落とし、ひと夜限りに食い散らかす対象に定める。それほどにまでに、混ぜ物の薬物が心身を破壊することを男は知っていた。
当然だ。男は最近この街で幅を利かせ始めた半グレ集団、Crow(N)の中心的人物の一人だった。
壁の向こう、スポットライトの下で嬌声が絡み合う濡れた音楽の幻想が、幻想的であるのは辺りが暗いからなのだろう。かつての若者が、今の若者のために作ったクラブに、オーナーは親しみをもって若者を迎え入れ、そして当然のように規制の緩さに付け込まれた悪意のヘドロが澱み溜まっていた。
もしくは、冷戦下の西ベルリンの夜にも例えられるこの街の姿をオーナーが知らなかったことが災いしたか。
「ん……っ。はぁ。」
たまり場のヘドロの澱の暗がり――個室トイレに入った男女の視線が熱っぽく絡まる。
睦言の呼吸は視線が交わることでピタリと合って、どちらからともなく自然と次へと進んでいく。
もう十分に身体は温まったとばかりに、男は女の雨合羽をいよいよ寛げて熟れて濡れた身体を愉しむべく、唇を舐めて口端を歪める。
女も呼吸を合わせるように、脚を上げて伸ばした。男には、女が甘い痺れを隠せずに反応してしまった姿に見えた。
――そこで、違和感を覚えるべきだった。
いくら女の身体が柔らかくとも、それが拒絶の姿勢であることを。女が狭い室内で甘美な痺れを受け入れたなら、男の誘導に誘われて、裏腿に回った掌を脚で挟んで支えられながら交わる呼吸の流れに乗って、腰を落として正常位の姿勢を取るべきだ。脚を伸ばしたままでは、男が裏腿に回した手から女の脚がすっぽ抜けてしまい、白けてしまう。
女のそれが男を試す駆け引きでないのなら、いや、駆け引きであったとしても、この先に進むことを僅かに躊躇い男の誘導を遅らせる行動であることは気づくべきだった。しかし男は気づけなかった。理性のほとんどが目の前の雌を強引にモノしたいと獣欲に塗りつぶされていることに。
女は思う。涙袋を偽装して、腫れぼったいアイシャドウで操れる男の浅はかさ。
たかが3秒、見つめて逸らしたただけのこと。
Louboutinが映える女の脚は真っ直ぐに伸びて、すでに密室のドアノブを静かに下げて押していた。開いたドアの向こう、逆光でも隠せないもう一人の好い女。
そのもう一人の女が音もなく男に被さりながら、首にナイフを突き立てた。
用意周到な二人の、必殺の定石。
「!?!?」
気付いたときにはもう遅い。
組み拉く予定だったハズの女にもしがみ付かれて離されなければ、恐慌状態に陥った男に為す術はない。二人目の女に何度も首を掻き混ぜられて思考は明滅し、男の脳のどこか冷静な部分が手遅れを悟る。
男が女を汚す予定だった体液は、こんなにも赤く黒く重いものではなかった。ただ、女のレインコートの上を滑って落ちる円やかな血脂が、薄れる視界の中でそれだけが鮮明に見えて現実を知らしめて、酸素も薄く頭が非現実な妄想を始める。
男は、女の柔らかな肢体に溺れて果てる夢を見た。
演奏も終わりかける最中、女はどこか場違いなほど穏やかな声音で男に囁いた。
「どうして獲物を組み拉く瞬間、どんなに用心深い男でも一瞬、無防備を晒すのかしら?」
言いながら男をどけて、洗面台に王冠の刻印がある拾ったメダルを2枚置いた。
それは3番の男が鬻ぐ混ぜ物と類似した印章。No.2が殺しの証として今回残す痕跡。
残り香に流し目も無い。ピンヒールの靴音が、『Umbrella』の演奏の残響に官能を足していた。
それもステージの喧騒にかき消された。
「そんなだから――死んでしまうのよ。」
クスクスと女たちの囁く声がする。
「わたしたちPRADAは趣味じゃないの。」
いまだ熱気冷めやらぬ会場を素通りして、赤の証拠をべったりと方々に塗って散らせた殺し屋の姉妹は、路地裏でレインコートを畳んでHERMESのポーチにしまう。
湿った残暑の夜に、スパンコールが煩い安物のドレスを着こなした双子姉妹の軽やかな笑い声が華やぐ。同じ髪型に眼、揃いの格好は小物だけがブランド物だった。しかして美人双子姉妹は誰もの目を惹きつけて、けれど路上喫煙の条例も大胆に無視して、赤いMarlboroの先の火を二人で分け合っていた。
まるで口づけでもするかのように。
「ねえ、またアオイが囮をして……欲求不満なんじゃないの?」
「本気? ――そう見える?」
「見える、って言わせたい?」
「ミノリは、またそういうこと言う。」
痴話喧嘩は耽美だ。
欲求不満なのはミノリの方で、これはつまり『このまま家へ帰らずに、どこかBarでも寄ってお酒を愉しみたい。』という誘い文句に他ならない。
ただ、それをわかるアオイだからこそ、焦らす。
じっくりとミノリとの夜を愉しむために。
それが前戯の目的だから。
「その前に少し華やかにいきましょう? 今日は#466の気分だわ。」
「最期に、男に二突き刺される女の唇がいいの?」
「今日はね。」
「今、持ってる?」
「ない。」
「なら、デパートに寄らないと。」
「そうね。」
口紅のテスターから色を取った親指で、互いの唇にカルメンの名を持つCHANELの#466を塗りたくって、ドライマティーニとともに囁きで耳を擽る夜に耽るのだろう。
アオイとミノリ――『アオイトミノリ』という男性名で3番の仕事を請け負う二人組の女殺し屋。
死者の赤で紅を引いた女。
――Ami。愛を意味する極めて古い語根。
それがこの女たちが普段使っている偽名だ。
ただ、その耽美な夜を迎えるよりも先に二人は街中の、いつも通りすべて使用中のコインロッカーのひとつを開けて普段に戻るための衣装を取り出して、煌びやかさを隠すために化粧室を探した。
~to be continued~
【Q1】なぜこの街のロッカーは、いつもすべて使用中なのか。(ヒント:Butterfly Clips: Hekátē)