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地球の片隅の陰謀論  作者: 美祢林太郎
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8 北朝鮮の作員

8 北朝鮮の工作員


 長雨が続いて鬱陶しい日曜日の午後、おれと洋子が住んでいるおんぼろアパートに外国人風の男が訪ねてきた。おれの住むアパートは公表していなかったが、アパートはインターネットで少し調べれば誰にだってすぐにわかる。

 訪ねてきた外国人風の男は、見かけは日本人と同じである。それをどうして外国人だと思ったのかと言うと、喋る言葉が外国人特有のたどたどしさがあり、イントネーションがおかしかったからだ。多分、朝鮮人か中国人だろう。

 かれは「「ムギヤ〇(仮)」を売ってください」と言う。偏見かもしれないが、かれにどことなく漂う怪しさから、北朝鮮の工作員ではないかと直感した。もちろんおれはこれまで一人の北朝鮮工作員と会ったことがない。実際の工作員に対する正確な情報を何も持っていない。多分マスコミの影響によって工作員像がおれの中におぼろげにできているのだろう。おれ以外の日本人が見ても、10人中9人までが、その男を北朝鮮の工作員だと思ったのではなかろうか。一見して工作員だとわかる工作員なんて、工作員の役を果たすのだろうか? おれたち日本人は知らないうちにマスコミや映画に柔らかく洗脳されている。

 おれはかれを警戒しながらも、「ムギヤ〇(仮)」を持っていないと言うと、相手はそれを信じてくれている風ではなかった。「それならば、「ムギヤ○(仮)の入手方法を教えてください」とぐいぐいと迫ってくるので、我々が入手方法を知りたいくらいだ、と突き放した。それでもかれは執拗に「では、あなたが「ムギヤ○(仮)」の情報を入手した情報源だけでも教えてください。それ相応のお礼はします」と言葉遣いは丁寧であるが、目は狐のように鋭い。口元だけで作り笑いをしているのがありありだったが、男の目つきはマジに冷酷だ。いきなりナイフか拳銃を抜いてきそうな迫力が感じられた。今更「ムギヤ○(仮)」は私の妄想が少し、いや、かなり入っているかもしれない代物です、と言っても許してくれないだろう。この場は知らぬ存ぜぬと、全力を挙げて白を切り続けるしかないと思った。これまでほんわか生きてきて、こんな修羅場に遭遇したことのないおれは、もう泣き出しそうなほどのシリアスな場面だった。

 その時、それまでそばで黙って話を聞いていた洋子が「今は言えません」と静かに口を開いた。どこかどすがきいている。おれは最近レンタルビデオのツタヤで借りたやくざ映画の中の鉄火場で着物の片肌を脱ぎ胸を白いさらしで巻いた気風の良い女壺振り師を思い起こした。おれは彼女のこの言葉で、スイッチが切られたブリキのロボットのように固まった。

 洋子は「あなたと初めて会ったのだから、あなたのことをすべて信じることはできません。いったいどのくらいの量をいくらの値段で買おうとしているのか、我々に提示してもらえませんか」と言った。おれは固まったまま耳だけはダンボにして聞いていたが、彼女が何かを企んでいるだろうことはそれとなくわかった。

 あとで洋子から話を聞くと、これはユーチューブの新たな展開になる、とピンと来たそうなのだ。肝っ玉が据わった上に、抜け目がない。彼女にこんな一面があるとは、この時になるまで、おれはまったく知らなかった。どこにでもいる平凡な女だと思っていたのだ。おれは少しビビッているが、これからの展開には彼女の度胸と才覚が必要だ。

 洋子の迫力に負けたように北朝鮮人風の工作員(仮)は、上層部と相談してまた来ます、と言って腰を上げた。帰る際に、ユーチューブで「ムギヤ〇(仮)」らしきものを見たことがあるが、それを一本譲ってもらえないかと訊いてきた。ユーチューブの視聴者はこちらが説明したわけでもないのに、撮影の際おれがわざとらしくそばに置いた栄養ドリンクの「ムキット」を、こちらの意図した通りに「ムギヤ○(仮)」だと思ってくれたのだ。

 洋子は企業秘密であるし、「ムギヤ〇(仮)」は数が少ないのでここで渡すことはできない、と毅然として断った。工作員(仮)はおれの方にすがるような視線を送ってきたが、おれは固まったまま微動だにしなかった。鋼鉄の女ボスを説き伏せることは無理だと諦めたようで、工作員(仮)はアパートを後にした。ドアの締まる音で、おれはスイッチがオンになって、大きく息を吐いた。

 洋子に丘の上の製薬会社からもらった「ムキット」が冷蔵庫に4本残っているけど、「ムギヤ〇(仮)」はどこにもないじゃないかと言うと、「ムギヤ〇(仮)」が存在することにしておかないと、ユーチューブを見ている人たちが一斉に離れて行ってしまうだろう、と言った。工作員(仮)に「ムギヤ〇(仮)」を渡せないと言えば、こちらが「ムギヤ〇(仮)」を持っていることをほのめかしていることになる。それに、もし渡したら、勝手に成分を分析されるかもしれないと、我々の心配を見せることができるではないか。いずれにしても、交渉事は強気に出ないとだめでしょう、と彼女は言い放った。最初におれが、「ムギヤ〇(仮)」がないことや入手経路や情報を知らないと言い張ったのは、「ムギヤ○(仮)」の存在を暗示する前段としてとても効果的だったと褒めてくれた。あの場面で洋子はそこまで考えたのだろうか? 後付けの理屈なのではないのか? まあ、そんなことはどうでもいいことだ。彼女の方がおれよりも一枚も二枚も上手であることは間違いない。

 この北朝鮮人風の工作員(仮)との話し合いを、ちゃっかりと洋子が隠し撮りをしていた。それを彼女がうまく編集してユーチューブに載せた。ローアングルの動画は、隠微なスパイ活動のドキュメンタリーを観ているようで、緊張感と迫力があった。「いいね」が3万ついた。おれたちはこのユーチューブを観た北朝鮮人風の工作員(仮)によって闇に消されるのではないかと不安になって洋子にそのことを言うと、彼女は万が一かれが本物の北朝鮮のスパイだとしても、あの場面を公開してみんなに知れ渡ってしまった以上、我々を襲うことはできないはずだ、と笑いながら言った。もはや彼女の言葉を信じるしかない。

 北朝鮮人風の工作員(仮)に続いて、ロシア人風、アメリカ人風、イギリス人風、フランス人風、オランダ人風、スペイン人風、イタリア人風、ユダヤ人風(ここらで正直に言っておかなければならないが、訪問者が国籍を名乗ったわけではないし、我々としてもアメリカ人とイギリス人の区別がついたわけでもない。できるだけ多くの国から訪問を受けたとした方がユーチューブの視聴者の受けがいいだろうから、こうしただけである。おれは動画の背景に世界地図を載せ、訪問者の国に国旗を立てていった。国旗が増えると気持ちがいい。ついでに言うと、「風」を付けているのはおれの気の弱さと誠実さの表れだと理解して欲しい。(仮)も同じ理由からだ)、ブラジル人風、アラビア人風(国名がよく聞き取れなかった。聞いたことのない国名もあったようだ)、アフリカのどこかの国の人(黒人というだけでアフリカに決めつけたけど、もしかするとアメリカ人かヨーロッパの国の人なのかもしれない。ごめんなさい)、もちろんアジア人もたくさん訪問してきた。訪問者は一人であることもあるし、二人のこともある。さすがに十人以上の入室は断った。あまりに訪問者が多いので、告げられた国名が耳に入らなくなってきた。最近では、世界地図に国旗を立てるのもあきてしまった。

 訪問者が片言の日本語を話すこともあれば、日本語の通訳を連れてくることもある。通訳が我々の日本語を向こうの言葉に翻訳するのだが、それが英語かフランス語かロシア語か、はたまた聞いたこともない外国語なのか区別がつかない。たまに「ワンダフル」という言葉が聞こえた時には英語だということがわかって嬉しくなった。それは洋子も同じようで、二人で顔を見合わせてほほ笑んだ。また、スマホの翻訳機能を使って会話することもあったが、正しく伝わっているのかどうかわからなかったが、相手がニコニコ笑ってくれている間は気分が和んだ。

 交渉はおれがほとんどのことをやったが、難しい話や、緊張した場面は洋子に任せた。交渉と言っても、相手が「ムギヤ〇(仮)」を売ってくれというのを、のらりくらりとかわすだけだ。だって、「ムギヤ〇(仮)」はどこにもないのだから。おれたちは交渉をユーチューブに載せることが目的だった。

 みんな洋子が女ボスだということをユーチューブを通して知っていた。交渉人たちは洋子よりもおれとの話し合いを好んでいるようだった。女ボスが話に加わるのが怖かったようだ。それだけ洋子には威厳が備わってきたようだ。おれと洋子の役割分担がはっきりし、おれも下っ端の役が気楽だった。

 こうした模様をユーチューブに上げて行くと、世界中で大きな反響があり、英語や知らない外国語がコメントの主流を占めるようになった。最初の頃は逐一自動翻訳で日本語にして読んでいたが、コメントの量が膨大になってきたのでまったく目を通さなくなった。たくさんのコメントをスクロールするだけで満足である。

 八月のある日、アラブの王族風の男とアパートで交渉をしていると、かれが「クーラーはないのですか。暑いです」と騒ぎ出した。アラブの砂漠の方がもっと暑いだろう言うと、湿度の高い日本はムシムシして暑さの質が違うのだと言う。その場は、おれも強気で、日本の夏は暑いのが当たり前だ。我儘を言うやつには「ムギヤ〇(仮)」を売ってやらない、と言って黙らせた。それを見て、となりの洋子がクスリと笑ったようだった。おれもそれなりに強気で交渉ができるようになった。

 だが、相変わらず売るべきものは何も手元になかった。ひたすら外国人にとって実りのない交渉の場面を、おれたちは勝手にユーチューブに載せるだけだった。

 この頃はおれのユーチューブに登場したいだけで、おれに会いに来る外国人も多くなっていた。しかし、おれは本当の交渉人なのかただの物見遊山なのかを識別できる能力を持ち合わせていなかった。どちらかというと、物見遊山の方が話が面白く、おれと馬が合うようだ。なによりもかれらには凄みがないからおれは好きだ。でも、後で隠し撮りの動画を観ると、かれらがカメラに向かってポーズをとっているのがわかる。洋子はこんな緊張感のひとかけらもないものはユーチューブに上げられないから、会って話をするのは時間の無駄だと、かなりご立腹だ。それはそうなのだが、おれにもこうした安らぎの時間が必要なことを洋子には理解してほしい。

 いずれにしても、これまで交渉事をアパートの自室で行っていたが、ひっきりなしに怪しい人が出入りしているというアパートの住人の苦情もあり、交渉事は超一流ホテルの高級レストランで食事を食べながらすることになった。言うまでもなく、これも彼女の提案だ。食事代は○○風の人の驕りである。これでおれたちに会ってユーチューブで目立ちたいだけの連中は、全員とは言わないまでも、そのほとんどが姿を消した。おれは洋子に隠れて、たまに物見遊山の連中とカメラに向かってピースをしていた時代が懐かしい。

 同じ交渉人と何度か会って話をしていると、かれらはそろそろ「ムギヤ〇(仮)」が欲しいと言い張るようになり、中にはおれたちが「ムギヤ〇(仮)」を持っていないのではないかと、あからさまに口に出して疑ってかかる者も現れる始末だ。我々が「ムギヤ〇(仮)」を持っていないことがばれたら、ユーチューブの視聴者が離れていってしまう。確かに最近存在を怪しむコメントが日本語でも散見するようになった。このままでは、おれたちが詐欺師のユーチューバーとなってしまう。それではかっこ悪過ぎる。まことの「情けねー」の声が耳の奥で鳴り響くようだった。

 洋子と長時間をかけて検討した結果、丘の上の製薬会社に返品されていた栄養ドリンクの「ムキット」を全部買い占めて、それを「ムギヤマール」に見せかけることになった。だれも「ムギヤマール」の中身や外観、味を知らない。市場にも全くと言ってもいいほど出回っていない「ムキット」を「ムギヤマール」に仕立てるのは絶好であった。なにしろ「ムキット」は製薬会社が製造した栄養ドリンクなのだから体に害はないし、栄養ドリンクとして滋養強壮の効果も少しはあるはずだ。味にしても麦茶の味がするところが外国人には神秘的(?)にうつるかもしれない。

 二人で丘の上の製薬会社に行って「ムキット」をあるだけ全部売って欲しいと頼むと、賞味期限があと一週間しか残っていないが、それでいいのなら全部売ろう、と快諾してくれた。やんわりと一万本も何に使うのかと訊かれたので、来週開催のサッカーのJ1の大会に来る観客へ無料で配布する予定だ、と洋子が嘘をついた。サッカーファンなのか、総務課長は「それはいい」と、とても喜んでくれた。我々は一万本を10万円で買った。我々が買わなければ一週間後にはすべて廃棄されたのだから、こちらが思っているほど安くないのかもしれない。廃棄する予定なのだから、我々の方が逆に金をもらってもいいのではないかと思ったが、みみっちいことを言ってはいけない。おれたちにとって10万円ははした金なんだから。

 それにしても、一万本近くの「ムキット」を収納できる場所がおれたちの住むおんぼろアパートのこの六畳間にはない。しかたがないので、二人で話して、この際だからタワーマンションに引っ越すことにした。それは「ムキット」の保管場所の確保と同時に、「ムキット」を盗まれないための安全な場所の確保でもあった。タワーマンションの手付金や家賃を払うくらいの金は、ユーチューブの収入で十分に貯まっていると洋子が言った。

 アパートからの引っ越しと、「ムキット」の搬入を同日に行って、大量の「ムキット」をマンションに持ち込むことをカモフラージュした。洋子はマンションに転居してきたのと同時に印刷所を辞めて、おれと一緒に「ムギヤマール」の仕事に専念することになった。

 それから一週間は「ムキット」の瓶のラベル剥がしと、「ムギヤマール」と書かれた新しいラベル張りを風呂場、いやバスルームで洋子と一緒に行った。「ムギヤマール」とネームの入った新しいラベルは、洋子がデザインしたものだ。なかなか洒落たデザインに仕上がっている。彼女は印刷所でいい仕事をしてきたのだろう。

 これでやっと「ムギヤマール」が日の目を見ることになった。これでもう「ムギヤ○(仮)」などという面倒な表記や言い方ともおさらばである。おれはラベルを張りながら、晴れ晴れとした気持ちになっていった。

 十畳の部屋が一万本の「ムギヤマール」に覆い尽くされた。なかなか壮観である。部屋には厳重に鍵をかけた。そして手軽に取り出せるように、50ダースほどを冷蔵庫にストックした。


つづく

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