4 ユーチューバー
4 ユーチューバー
板倉正はしがない隠れユーチューバーだ。いや、将来は正々堂々とユーチューバーを名乗ろうと心に決めているのだが、現時点ではユーチューブに映像を載せてはいるが、自分でも二度と観たくないほど退屈な映像ばかりである。ユーチューブを始めて半年になるが、現在かれのチャンネルに登録しているのはたった3人しかいない。そもそもまだコンテンツを5つしか載せていない。こんなのでユーチューバーと名乗るのはおおいに気が引ける。3人の登録者にしたってたまたま見たものを全部登録しているユーチューブ入門者なのだろう。もしかすると数分の映像を最初の数秒だけ見て、最後まで見ていないのかもしれない。それとも観もせずに間違ってポチンと登録のボタンを押したのかもしれない。いずれにしても、この3人の登録した動機を詮索しても始まらない。登録者として貴重な3人であることに違いはないのだから、彼らに文句を言っては罰が当たるというものだ。感謝、感謝である。
最初のユーチューブは、最新ファッションを撮ろうと思って、メルカリで買った古着を着て、自分がモデルとなって撮影してみたが、自分で見てもあまりに冴えない。改めてずんぐりむっくりのおれの体型では何を着ても映えないことがわかった。そもそもおれはファッションに興味はなく、どこかでファッションで有名になったユーチューバーがいることを聞いて、ただ真似をしただけなのである。それからの動画も似たり寄ったりだ。
最新作になる予定だったのは、大食いの動画だ。たまたまラーメンの大食いで評判になっていたユーチューバーがいることを小耳にはさんだ。子供の頃から大好きなメロンの大食いならば誰にも負けないだろうし、万が一、途中でこけたとしても好きなメロンが思いっきり食べられるのだから、それだけで本望だ。
そこで行きつけの潰れかけた果物屋の女あるじに大食いの話をもちかけると、店屋の宣伝もかねられるので、店頭でチャレンジしてみたらと勧めてくれた。特大メロンを格安の10個500円で売ってくれたが、ほとんどが腐りかけていたので、おれはただになるとばかり思っていたが、世の中そんなに甘くはなかった。自分の部屋で撮影するより果物屋の店頭の方が絵になるのだから、500円程度の出費で文句を言ってはいけない。特大のメロンは少し酸えた臭いがしたが500円では致し方がない。腐ったところは食べなければいいだけだ。それにしても、俺がワンコインで買わなければ、翌日には間違いなく全部廃棄される代物だ。(強欲ばばあ)
大食いは早食いでもある。ゆっくりと時間をかけて食べる大食いなんか誰も見たくない。10個のメロンをどのくらいで食べればみんなが驚くのだろう? 大食いの業界の常識の線はどのくらいだろうか? そう言えば、下調べをまったくしてこなかったので、自分で考えなければならない。いつも行き当たりばったりだ。1時間もかけたらさすがにかけ過ぎだろうし、30分くらいが常識の線か? だが、常識に乗っては誰も驚かない。ここは10分だな。1個を1分のペースで食べれば10分で10個を完食できるじゃないか。うん、なんとかうまく行きそうだな。メロン好きだし。
店屋の前にカメラ(と言ってもスマホだが)を設置すると、店屋の客や通りがかった数人の子供が何が始まるのかと立ち止まって見学し始めた。盛り上がってきたぞ。
カメラの前でおれはユーチューバーとしての口上を述べ始めた。
「今日は、金谷商店街にある果物屋さん「マルコ」に来ています。マルコさん提供の完熟特大メロン10個を10分以内で完食したいと思います。どれも美味しそうですね。ではマルコのおばさんのスタートの声で始めたいと思います。おばさん、掛け声をお願いします。あっ、このカメラの前でお願いします」
「ひよーい、とん」と緊張して裏返ったおばさんの声が響き、観客は大声を出して笑った。おばさんがいきなり盛り上げてくれた。これは良い動画になると確信した。
おれは1個目を一番大きくて立派な奴から食べ始めることにした。用意されていた包丁で4つに切って、その一つにがぶりと齧りついた。一口目は完熟メロンの美味しさに幸福感が口の中全体に広がった。果物屋のおばさんに目配せをして感謝することを忘れなかった。ユーチューバーはどんな時もカメラ目線を忘れてならない。子供たちはうらやましそうな顔をした。カメラマンがいたら、子供たちの表情を写したはずだ。どうだ、これが大人食いだ。おれはいつもの習性で、1個目は皮の近くの味のしないところまできれいに食べた。子供たちよ、食べ物は粗末にするな。1個を食べ終わるのに37秒が経った。
こうして順調に4個まで食べた。現在のタイムは3分27秒だ。このペースだったら、10個10分は楽勝だと思い、5個目に入った。こんなことなら、最初から大食いのユーチューバーとして売り出せばよかったと思ったし、メロンの次は何にチャレンジしようかと、余裕をぶっこいていた。この際だから果物シリーズにすることに決めた。やっぱり次回はスイカだろう。スイカなら5個かな。
メロンの5個目の半分までは美味しく食べられたが、ここで酸えた臭いが鼻の粘膜に付着して、急ブレーキが踏まれた。5個目の残り半分は鼻から息をしないようにして、口に運ぶだけになった。もはや皮の近くまでは食べられなかった。急に苦境に陥ったおれを見て、客のおばさんたちが「頑張れ」とエールを送ってくれた。子供たちは冷ややかな視線をおれに向けた。子供たちに、良い子は家に帰る時間だよ、と厳しい口調で言ってやりたかったが、そんな余裕はおれのどこにもなかった。
ここまでに要した時間は5分55秒だ。5個目を食べるのに2分28秒もかかってしまった。ペースを上げなければならない。6個目のメロンは残った5個のうちもっとも小さい物を選んだのだが、それが最悪だった。小さいくせに触ると水枕のようにぼにょぼにょとして不気味なほど柔らかかった。切るとメロンなのに黒い汁がどっと出て、腐った臭いが辺り一面に飛び出し、そこらじゅうを汚した。おれはむせ返って何度も咳をした。客たちも鼻をつまんで身を引いた。それでもおれはなんとかメロンの中心付近の汁だけを口にして、6個目を食べきったことにした。マルコのおばさんも咄嗟に「6個目、完食」と大声を出してくれた。一人の子供が指を指して「まだ残っているよ」と冷静に言ったが、おれは無視し、おばさんは「しー」と口に人差し指を当てた。子供は情けというものを知らない。これからの人生で情けを学んで行けよ。でないと、立派な大人にはなれないんだから。
堅めの7個目を包丁で切った瞬間、包丁が下腹部に刺さったように激痛が走り、おれはマルコのトイレに飛び込んだ。激しい下痢だ。それからはメロンを食べるどころではなく、数分ごとにトイレを出たり入ったりし、便座に座ると水気だけの便しか出てこないありさまだった。こうしておれは便座に座ったままになった。マルコのおばさんが心配になってトイレの外から「ただし君、大丈夫?」と声をかけてきた。おれは「大丈夫です」と弱々しく声を発した。そして「もうしばらくトイレを貸してください」と哀願すると、「ゆっくりね」という優しい返事が返ってきた。
外から「情けねー」という聞えよがしの子供の声が聞こえてきた。トイレから出て説教の一つもしてやりたかったが、便座から立ち上がる余裕はどこにもなかった。おれがトイレに駆け込んで30分は経ったのに、まだ帰らずに店に残っている子供がいたのだ。早く帰れ。
こうしてその日はマルコのトイレに2時間以上こもった。その後で、なんとかアパートに帰って、腐ったメロンの汁がたっぷり付いた服を急いで全部着替え、それからトイレに飛び込んだ。アパートでも数分おきのトイレの往復を12時間繰り返して、やっと解放された。
さすがにこんな惨めな大食いの映像はユーチューバーに上げられないと思ったし、マルコのおばさんも店の評判が落ちるからユーチューブには載せないでくれと懇願してきて、気前がいいことに500円を戻してくれた。おれとしては、大食いの代わりに下痢で苦しんだ半日をそのまま発信した方がよっぽど受けると思ったが(断じてメロンのせいだと言わないが)、放送倫理に抵触することなく撮影するにはどうしたらいいかわからなかったし、そもそも下痢をしている時は撮影する余裕もなかったので、映像が残っていなかった。それにしても、超下痢で苦しんでいたおれに向かって「情けねー」という言葉を投げた小学生には、今度会った時は人生のなんたるかを教えてやらなければならないと思った。
おれがユーチューバーで成功するには発想力があまりに貧困なことくらいは、自分でも十分にわかっているが、そんなおれでもいつか一発当たれば大金持ちになれるんだと信じていた。昔の演歌歌手のようなものだ。と言って、このたとえだって親からの受け売りに過ぎず、一発屋の演歌歌手がどのくらい儲けたのか、おれだってわかっているわけではない。
そんなおれは立花洋子と2人で6畳一間の安アパートに住んでいた。おれはたまにポケットティッシュ配りなどの単発のバイトを入れて働いているが、生活費のほとんどは洋子が得る収入に依存していた。家事はおれが担当している。自慢じゃないが、おれの作る料理は美味しいんだ。洋子は小さな印刷所で広告のチラシを制作していたが、チラシをデザインすることは好きなようだった。出来上がったチラシは依頼主からいつも好評だそうだ。洋子はおれに愚痴を言うこともなく、おれの好きなようにさせてくれた。おれはたまにパチンコに行くが、それ以外とりたてて趣味もなく、酒を飲みに行くわけでもない。おれたちには親しい友人はいなかったし、互いを干渉しないので、二人で暮らすことは互いに心地よかった。
つづく