3 丘の上の製薬会社
3 丘の上の製薬会社
ある日、大輔は学校を休んだ。かれが病院に行くのを見たという女子がいた。そう言えば、このところ大輔の記録は落ちていた。時々、びっこをひいていることがある。ある子が、大輔は最近人からもらってパンを3個も食べている日があると言う。「もしかすると薬の過剰摂取でなんらかの病気になったのではないか。きっと新薬の副作用が出たんだ」という発言があった。みんなには副作用と言う言葉が新鮮に響き、副作用という言葉に怯えた。太一はこの話を聞いて、自分も毎日コッペパンをたくさん食べているから副作用が出てくるのではないかと心配になった。
ある子供がこのまま学校のコッペパンを食べ続けていいのだろうか、と言った。またある者は、一人一個が適量で2個以上食べるのは薬の取り過ぎではないかと心配した。まして大輔は3個も食べていたので、人よりも早く副作用が現れたのではないかというのだ。みんなで話し合って、今日はスーパーマーケットのコッペパンを一個ずつ食べ、学校のコッペパンはそれぞれが家に持ち帰ることにした。
翌日、大輔が学校に来た。別に変ったところはなかった。みんながかれのところに寄ってきて、口々に「体は大丈夫か」と訊いた。大輔はただ風邪をひいただけだと言った。他の者が足の骨は大丈夫なのかと訊くと、運動場で足を挫いただけで、レントゲンをとっても骨には異常がなかったと面倒くさそうに答えた。それでは新薬の副作用ではなかったのかと誰かが訊くと、大輔はそれは何のことだと問い質した。大輔は説明を聞いて、そんな副作用なんかどこにもない。ぼくはこんなに元気だと力こぶを作った。確かに一段と腕が太くなったようだ。こうして新薬の副作用説は立ち消えとなり、再び以前のように二つのグループに分かれてコッペパンを美味しそうに食べた。
そうこうするうちに、クラスマッチの日になった。6年2組はぶっちぎりで優勝した。これは新薬の効果だとみんなが喜んだ。
まことは改めて考えた。先生たちにもわからないように、密かにうちのクラスにだけ新薬が投入されていたのだ。これは人体実験ではないか。でも、どうしてうちのクラスが選ばれたのだろうか? これはでたらめに選ばれたのだろうか? それともうちのクラスが選ばれたのにはそれなりの理由があるのだろうか? 確かうちのクラスの平均身長は低かった。もしかすると薬の効果を確かめるために、弱弱しい子供たちを選んだのかもしれない。きっとその理由で6年2組は選ばれたんだ。
そもそも誰が選んだのだろうか? この薬の効果を調べるために丘の上の製薬会社が絡んでいるのは明白だが、学校の中にだって協力者がきっといるはずだ。どうも担任の有馬先生は知らないようだし、給食を作っているおばちゃんたちも知らないようだ。やっぱり校長先生だろうか? 校長先生は製薬会社から賄賂をもらっているのだろうか? それとも校長先生は何も知らなくて、教育長が絡んでいるのだろうか? はたまた、もっと上の市長や知事が絡んでいるのかもしれない。もしかして、首相ってことはないよな。まさか、国際連合の事務総長のからむ国際的な陰謀ということはないだろうな?
あっ、化学兵器というものがあった。ぼくたち子供をスーパー兵士に変身させる薬じゃないんだろうな。すると、外国の死の商人と結託しているのかもしれない。こんなことがわかったぼくは交通事故かなんかに見せかけて殺されるかもしれない。
だけど、足が速くなったくらいで、スーパー兵士になったりはしないだろう。やっぱりぼくの考え過ぎだろう。そのうち、足の速くなる薬ってテレビで宣伝して、一般に売り出されるかもしれない。もしかしたら、ぼくも「ムギヤマール」を飲んで足が速くなりましたって言って、太一や千夏ちゃんと一緒にコマーシャルに出演することになるかもしれない。あっ、そう言えば、6年2組のデータを持って丘の上の製薬会社に行かなくっちゃあ。みんなに10万円って言っちゃったから、10万円を手に入れなくっちゃあね。
まことは夏休みに入ると、50メートル走のデータとクラスマッチ優勝の表彰状を持って、里奈と二人で丘の上の製薬会社を訪れた。あらかじめ、夏休みの自由研究のために製薬会社を見学し話を伺うということにしてアポをとっておいた。
総務課長というおじさんに会社を案内してもらって会社の一般的な説明を受けたが、その後でまことが足が速くなる薬は開発していないのですか、と直球で訊いた。課長は怪訝な顔をし、残念ながら君たちの足が速くなるような薬は開発していないけど、足が速くなりたいのかい、と逆に訊いてきた。いや、もしそんな薬があったら飲んでみたいだけだと言うと、残念ながらそうした薬はないから、毎日地道にトレーニングするだけだね、と課長が常識を言った。子供だと思って甘く見ているのは明らかだ。まことが「ムギヤマール」の開発は秘密なのですか、と切り出すと、課長は「ムギヤマール」って何なの、と怪訝な顔をして訊き直してきた。まことが子供の足が速くなる新薬です、と言った。課長は、残念ながらそんなものは開発していないと言った。そして、大人になったら研究者になってそんな薬を開発したらいいよ。おじさんも楽しみに待っているからね、と言った。これ以上話しても無駄だと思って、まことは里奈に目配せをした。里奈は小声でデータは置いていかないのかと訊いてきたが、まことは首を横に振った。里奈は頷いた。
帰る段になって、課長がまことと里奈のそれぞれにお土産をくれた。会社で作っている製品の試供品だという。君たちはイボができないかと課長が訊いてきて、これはイボに塗るとイボがとれる「イボコテン」という軟膏だと教えてくれた。全国のシェアの半分以上を占めていると自慢した。
「イボコテン」の他に6本入っていたのは「ムキット」という名前のついた栄養ドリンクだった。それはお父さんとお母さんのお土産にしたらいいよ、と言われた。君たちは元気一杯だから栄養ドリンクなんか必要ないだろうけど、大人になったら必要になるからとも付け加えられた。このおじさんは小学生でも塾の帰りに栄養ドリンクを飲んでいることを知らないらしい。こんなおじさんが「ムギヤマール」のことを知るわけがないと思った。帰る途中の土手で、袋の中から「ムキット」を取り出し、里奈とベンチに座って飲んだ。里奈が「まずいね」と言った。塾帰りに飲んでいるのより明らかにまずい。これでは売れないだろう。それでもあとの4本は父と母が喜んで飲むだろう。両親は栄養ドリンクが好きだ。
夏休みが終わって、6年2組のみんなに里奈と一緒に丘の上の製薬会社に行ったけれど10万円をもらえなかったことを話した。誰もそんなことは気にしないからと言って、夏休みに行ったディズニーランドや海の話をして盛り上がった。一学期のことなんか遠い昔のことのようだった。
九月の第二週に夏休みの宿題だった絵や図工、読書感想文、自由研究の展示が体育館であった。まことはクラスの体力増強のグラフを発表して、先生たちから高い評価を得た。その発表にはどこにもコッペパンに含まれていたかもしれない新薬のことは書かれていなかった。50メートル走のタイムの向上は、日々のトレーニングの成果だとした。この発表は県の大会で最優秀賞をもらった。朝礼で校長から表彰状をもらい、まことは全校生徒の前で「これは6年2組全員がもらったものです」と言って、ひときわ6年2組の仲間から拍手喝さいを浴びた。
この日も給食室ではおばちゃんたちが給食を作っていた。そのうちの一人が、一学期の初めに6年2組の子どもがコッペパンの味を変えたのかと訊いてきたことがあったのを思い出した。たぶんそれは、彼女が粉末の胃薬を飲む前にくしゃみをして、粉薬が小麦粉の中に入ったことによるものかもしれないと話を聞いた時にピンと来た。小麦粉の表面にあった目立った粉薬は大方とったし、粉薬が残っていたとしてもわからない程度だったから誰も胃薬が入っているなんて気づかなかったはずだ。私も焼きあがったコッペパンを食べてみたけど、味は違わなかった。まさかそれを6年2組の子供たちは気づいたのだろうか? 子供たちの味覚はそんなに鋭いのだろうか? 担任の有馬先生も味が変わったのかと訊いてきたけど、胃薬の粉が混じったなんて私は一言も言わなかった。間違って微量の胃薬を子供たちが飲んだからといって、病気になるわけがないからだ。微量の胃薬が入ったためにコッペパンを作るために準備しておいた大量の小麦粉を全部捨てるなんて、もったいないじゃあないの。それに胃薬が入ったのはたった一回よ。あっ、そろそろ胃薬を飲む時間だわ。忘れないようにしないと。
二学期になって十月の運動会の日までは、6年2組の放課後のトレーニングは児童の集まりが悪くてもなんとか続いていたが、運動会が終わるとトレーニングは完全に終わった。私立中学の受験を目指して塾通いが忙しくなった子も多かった。誰かが「頭の良くなる「ムギヤマール」があったらいいのだけどね」と言い、みんなしみじみと「そうだね」と思いながらも、顔を上げずに問題集を解いていた。
つづく