2 ムギヤマール
2 ムギヤマール
最近背が伸びた蒼太が、自分の背が伸びたのはコッペパンに含まれている薬のおかげではないか、と言い出した。たしかに蒼太は学年の始めの頃は一番背が低かったのに、2ヶ月も経たないうちに前から5番目くらいになっていた。大躍進である。だが、かれが他の児童よりもたくさんのコッペパンを食べていたわけではないので、コッペパンの効能でないことはわかりきったことのように思えたが、改めてかれの身長が飛躍的に伸びているのを目の当たりにすると、コッペパンに含まれている薬のせいなのかも知れないと思えてしまうから不思議だ。背が高くなる薬の効果は人によって違うのかもしれない。そう言えば、このクラスは他のクラスよりも背が低い者が多いようだ。
6年2組の第二の仮説は背の高くなる薬の混入である。この日から、背の低い人間は背の高い人間に頼んでコッペパンの欠片を分けてもらうようになった。それでも女子の中でひときわ背の高い千夏だけは、将来ファッションモデルになるからと言って、背の低い子にパンを分け与えることなく、男の子たちの批判を無視して、食の細い女の子からパンを譲ってもらい、他人より多くのコッペパンを食べた。
一週間もすると千夏に目に見える効果が表れた。背は伸びなかったが、顔がふっくらしてきてスカートがきつくなったのだ。それからというもの、千夏は自ら進んで自分のコッペパンを背の低い子にあげるようになった。それでもコッペパンをたくさん食べた子供たちの背は伸びなかった。
ある子が一ヶ月やそこらで効果は出てこないんじゃないかと言ったが、他の児童が本来ならば薬なんだから数日飲んだら効果が出てくるはずだ。胃薬の○○や解熱剤の××を飲んだことを思い出せばすぐにわかるはずだ、と強く言った。○○や××という具体的な薬の名前を出した主張が、みんなから支持された。どうも6年2組のプレゼンテーションの実践力が向上しているようだ。
ここで言い争っても仕方ないので、みんなの身長を計ってみようということになり、保健室にみんなで行って身長を計ることにした。四月からの伸び率もそれほどはっきりしたものではなく、クラスの平均身長も五月末になっても、前年の6年生の全国平均よりも低くて、みんな愕然とした。自分のクラスには背が低い者が多いことを再認識させられた。
保健室でみんなの身長を計り終えた頃、ある子がコッペパンに入っているのは運動能力を高める薬なんじゃないかと言い出した。すると、そばにいた大輔がそうかもしれないと同調した。自分は町のサッカー少年倶楽部に入っているのだけれど、このところ急に足が速くなったとみんなからびっくりされている、と得意げに言った。そう言えば、体育の時間に徒競走の練習をしているけれど、一年前にはいつも一番ビリを走っていた和也がこのところ一番早く走るようになった。これは信憑性が高いのではないか。しかし、今でもビリを走っている太一が自分もパンを食べているけれど、相変わらずビリのままだと言い出した。太一はこのところのコッペパンの食べ過ぎで、益々太ったようだ。すると、まことがみんながパンを食べて速くなっているとしたら、順位ではわからないのではないか、ともっともな意見を主張したので、みんなはすぐに納得した。では、この第三の仮説である足が速くなる薬をどのようにして確かめればいいかということになった。
まことがみんなで毎日50メートル走の記録を測って、記録が伸びて全国平均を上回るかどうか試してみよう、ということになった。さすがに、クラス一の優等生が言うだけあって理に適っている、とみんな感心した。すると女子の中でもっとも成績の良い里奈が、どのようにして丘の上の製薬会社が薬の効き目を確かめているのだろう、と言い出した。まことはすかさず、七月にあるクラスマッチのデータを使うんじゃないかと言った。まことの確信に満ちた口調にみんなは「なるほど」と頷いた。さらにまことは、我々が毎日取る詳細なデータは薬の効能を示すことに役立つはずなので、我々のデータを製薬会社に売ろうじゃあないかと提案した。ある児童がいくらくらいで売れるのかと訊いてきたので、まことは何の根拠もなかったが、「十万円は堅いんじゃないかな」と答えた。みんなから「ウォー」という歓声が上がった。話題は十万円が手に入ったら何を買うと言う話題になった。てんでに「ゲーム」「ケーキ」「楽器」という声が上がった。みんな上機嫌だった。
6年2組の児童たちは50メートル走のタイムを毎日測るために、放課後に全員が運動場に集合することになった。塾に行く用事がある者は、真っ先にタイムを測った。かれらは、製薬会社にデータを売るために、その日の各自の伸長、体重、体調、それに食べたコッペパンの量まで記録するようになった。
ある日、「新薬の名前は何だろう」と誰かがぽつりと言った。新薬だからまだ名前が付いていないんじゃないか、と誰かが言った。それならぼくたちでつけようじゃないか、と大輔が言った。それでは「ハヤクナール」でどうかなと誰かが言い、他の誰かが「ゲンキイッパイ」と言ったが他の誰も反応しなかった。喧々諤々と話し合い、みんなが疲れてきた頃、「この際だから「ムギヤマロクニ」でどう?」という意見が出て、最終的に、「薬らしく「ムギヤマール」でどうかな?」というまことの発言で、とりあえず「ムギヤマール」と呼ぶことに決まった。
四月にはみんながバラバラだった6年2組は、コッペパンの味の変化が端緒となって、記録会の参加に一人の脱落者も出すことなく、全員が結束することになった。他のクラスからは6年2組の団結が奇異な目でみられた。
かれらの記録は毎日順調に伸びて行った。一ヶ月もすると全国平均よりも速いタイムが出るようになった。子供たちの体つきもしっかりしてきた。6年2組の子供たちはコッペパンに含まれている新薬が単に足が速くなるだけでなく、体力作りにも効き目のあることを確信するようになっていった。いくぶん体が締まってきたのだろうがそれでも十分に太っている太一が、一か月前に自分の上半身裸の写真を撮っておけばよかったと悔やんだ。女子がどうしてかと訊くと、今はこんなに引き締まった体になったのだから、テレビでしょっちゅうやっているダイエットの薬のコマーシャルに、薬の使用前と使用後の写真として自分の写真を使うことができたはずだと言うのだ。丘の上の製薬会社に写真を使われればモデル料としていっぱいお金をもらえたはずだ。今でも十分太っている太一だが、おそらく一ヶ月前の写真と比較したらそれなりにスマートになったことだろう。毎日顔を合わせている我々には変化はわからなかったけれど……。
太一の言葉を聞いて、ファッションモデル志望の千夏が「私も一か月前の写真を撮っておかなくて残念だった」と言ったが、もとから痩せている千夏がこの一ヶ月の間にどう体形が変化したのか、服を着た上からではとんとわからなかった。少しは筋肉がついたのかもしれないが、それではダイエットのコマーシャルのモデルとしては使ってもらえないだろうと誰しもが思った。
まことは一ヶ月の走力の向上の結果に満足していたが、はたと、これは毎日記録を取るために運動をしている成果ではないのか? 日ごろ走る練習をしていない者たちが毎日トレーニングをすれば誰だって足は速くなるだろう。実際、記録を測る前にみんな自主的に準備運動をし、それから何度も走る練習をしている。速い者が遅い者に走り方を教えたりもしている。もしかすると、みんなが速くなったのは新薬の効果ではないのかもしれない。まことはみんなが喜んでいるそばで一人眉間に皺を寄せていた。まことはこの問題を解決するためには、新薬を口にしないグループと新薬を飲むグループの、二つのグループに分けて比較する必要があると思ったが、コッペパンから薬だけを抽出することは、子供の力では不可能であると思った。もう少し考えて、街のスーパーマーケットで学校のコッペパンと同じくらいの大きさのものを買ってきて、そのコッペパンを食べるグループと学校のコッペパンを食べるグループに分けて、走った記録を取ればいいと結論した。まことは自分の考えをみんなに説明して、クラス全員をくじ引きで二つのグループに分けた。学校のコッペパンを2つ食べるグループとスーパーマーケットのコッペパンを2つ食べるグループだ。2つも食べると太ってしまうと千夏が反対したが、クラスマッチまでに日がないのだから、短期間に効果を調べるために我慢して、とまことが説得し、千夏はしぶしぶ承諾した。
スーパーマーケットのグループに入った児童の中には新薬入りのコッペパンのグループに入りたいという者がいたが、それは却下された。個人のわがままは許されないのだ。また、平等になるように一週間ごとにグループのメンバーを入れ替えようという意見も出たが、それではこの実験は成り立たないとまことが説明して、この方法が理解できない連中も含めて全員がおとなしくまことに従った。学校のコッペパングループに入った太一は、食の細い和也から学校のコッペパンを1個分けてもらい、毎日3個食べるようになり、さらに太っていったように見える。
二つにグループを分けた日から再び毎日走る記録を取り続けた。すると学校のコッペパンのグループの方が明らかにタイムが向上していった。やっぱりコッペパンには運動能力向上の薬が混入されているんだ、と全員が色めき立った。しかし、そのうちこのグループに入っている大輔がスーパーマーケットのグループに負けないようにと全員にはっぱをかけ、土・日曜日に全員を集めて特訓をしていることが発覚した。これでは新薬の効果を証明できないとまことが言い、学校グループは特訓を止めることになった。それでも大輔だけは一人で早朝の特訓を続けた。
つづく