15 麦屋丸
15 麦屋丸
洋子は以前勤めていた印刷会社に再就職した。社長を初め従業員全員が心から洋子を歓迎してくれた。彼女がこの数か月どこに住んで何をしていたのか、誰も知らない。あえて聞く者もいないが、もし聞かれたら田舎に帰っていたと言おうと思っている。当然、母が病気だったことにする。
仕事は以前のようにチラシのデザインをすることになった。社長が言うには、お客さんからこの頃のチラシのデザインが田舎臭くなった、と苦情が寄せられているそうだ。この間デザインを担当していたおばちゃんが一瞬むくれた顔をしたが、彼女も苦手なデザインから解放されて内心ほっとした。
おれたちは、以前のように、洋子の収入で食っていかなければならなくなったが、洋子には何の不満もあるわけではなかった。洋子は強面のビジネスウーマンから、以前の物静かな女性に戻った。どちらが本当の洋子なのかわからなくなったが、どちらも芯は変わらない。いずれにしても、おれにとって洋子はチャーミングな女である。
おれはアパートに戻って来て、ユーチューバーを再開することにした。数か月ぶりに、おれのチャンネルを覗いてみると、この数か月で登録者が9人にまで激減していた。当然のことだが、もはやスポンサーはついていない。おれはユーチューバー業界から完全に忘れられた存在になっている。この業界の栄枯盛衰は信じられないほど早い。
あれからもおれはずっと盗まれた「ムギヤマール」のことを忘れてはいない。決して「ムギヤマール」を取り戻して、再び大金持ちになりたいなどと思っているわけではない。タワーマンションの生活は、浦島太郎がしばらくの間滞在した竜宮城みたいに、現実感のない夢幻のようだったと思えるのだ。我々の周りには、当時の名残が何一つ残っていないのだから、なおさらそう思えるのかもしれない。でも、おれは浦島太郎のようにじじいになってはいない。
「ムギヤマール」騒動の間、おれはタワーマンションに住み、高級レストランの食事を食べたりして良い目をみたが、海外に豪遊したり、カジノで散財したり、酒池肉林を味わったわけではない。色々な国のおかしな人間と出会ったのは、いま思い起こせばまるで映画の中の仮想現実のようで、スリルもあって楽しい事だらけだった。平凡な庶民には決して味わえない特別の経験をさせてもらった。こうした経験ができたのもすべて「ムギヤマール」のおかげである。
おれには心にひっかかって抜けない棘があり、それがチクチクとおれの心を刺して痛い。それが「ムギヤマール」なのだ。おれは「ムギヤマール」をスーパー少年兵士製造薬として世に広め、売って、盗まれて、結局一万本近くの「ムギヤマール」を世界に拡散してしまった。おれは世界の貧しい国の少年たちを絶望の淵に陥れているのかもしれない。かれらは何の効き目もない薬を飲まされて、少年兵として他国に売られ、戦場で母親の名前を叫ぶ余裕もなく、爆弾に吹き飛ばされて、手足がバラバラになって無様に死んでいるのかもしれない。
ニセ薬の「ムギヤマール」を世に出したのは、全部おれの責任だ。おれは何とか自分の手で終止符を打ちたいと思ったが、いくら考えてもおれのぼんくら頭では妙案が浮かばなかった。
夕食にハウスバーモントカレーを食べている時に、このことを洋子に打ち明けると、彼女は丁度良い動画があるから、それをユーチューブで流したら、と提案してきた。動画を見ると、それはおれが毎日60本もの「ムギヤマール」を飲んでいた時の映像だった。洋子が凝りもせず隠し撮りをしていたのだ。彼女はこの動画を倍速にして、これだけ飲んでも何の効果もなかった、とナレーションを入れればいい、と提案してくれた。そして、最後に「ムギヤマール」は単なる栄養ドリンクであることを白状すればいい、と言った。
おれが、「ムギヤマール」がただの栄養ドリンクに過ぎないことがわかったら、おれたちが詐欺を働いていたことがばれてしまう。そうすると、これまで売りつけた奴らや盗んだ奴らに、おれだけでなく洋子も殺されるかもしれない。洋子は、その時はその時じゃない、と明るくほほ笑んだ。それにそんなこともあろうかと、最近はユーチューブを見て空手を練習していると、おれに向かって正拳突きと回し蹴りを実演した。これではそこらの小学生の男の子にもかなわない。でも、おれはこれで決心がついた。
おれは洋子に言われた通りユーチューブに載せて、「ムギヤマール」のすべてを暴露した。おれは爆発的なヒットになると不安と期待を抱いた。それなのに、「いいね」は3つしかつかなくて、ほとんど誰もおれのチャンネルを観ていないことがわかった。完全な肩透かしだ。気負ってユーチューブに載せたおれは脱力した。洋子は「そんなものよ」と言って、壁にもたれて読書を続けた。
精力剤として信じ込んで飲んだ老人たちはみんな幸せに亡くなった。「ムギヤマール」のほとんどすべてを手に入れたアメリカのIT長者は、頭に「ムギヤマール」をつけて、清涼飲料水の「ムーラ」の大ヒットに気を良くしている。そんな連中は板倉のユーチューブなど見もしない。それは地球の片隅のほとんど誰にも届かない呟きにしかすぎなかったのだ。
ここで断言しておくが、「ムギヤマール」は老人の精力剤として利用されはしたが、スーパー少年兵士製造薬としては世界のどこにおいても利用されることはなかった。それでも「ムギヤマール」の単語はネットの世界でコード(秘密の暗号)と化して深く潜伏し、たまに頭を擡げて、陰謀論好きの人間に利用されることになる。もはやその独り歩きを誰も制御することはできない。
しばらくして、おれのチャンネルのコメント欄に「情けねー」という書き込みを発見した。このフレーズからして、これを書き込んだのがあのまことであることがわかった。加えて、かれは最初のチャンネル登録者のうちの一人であることも判明した。そして「情けねー」の後に、「おかえりなさい」と書き込まれてあった。おれは無性にまことに会いたくなった。
初冬の夕方、おれはぶらりと麦山小学校にやってきた。放課後のグラウンドには誰もいなかった。しかし、驚いたことに依然来た時には石ころが目立ったでこぼこのグラウンドが、きれいに整備され、石ころ一つなかった。鉄棒や雲梯、砂場も新しいものに替えられていた。
麦山小学校は夕日に照らされ輝いた。おれは心が洗われるようで、涙が落ちた。
おれは帰宅して、洋子に麦山小学校のグラウンドがきれいになったことを話すと、彼女は「寄付したお金でグラウンドを直したんだ」と言った。おれはいったい何のことを言っているのかわからなかった。「誰かお金を寄付したの?」と訊くと、「あなたよ」という返事が返ってきた。おれにそんな心当たりはないし、こんなに貧しいおれには寄付するお金なんかどこにもない。
洋子は、「ムギヤマール」で儲かっていた時分、おれの母校である麦山小学校に一億円寄付したそうなのだ。おれは「一億円?」と聞き直した。「ええ、一億円よ。あの頃は信じられないくらいたくさんお金があったじゃない」と平然と応えた。でも、どうして寄付なんかしたんだと聞くと、おれたちが金持ちになったのはすべて「ムギヤマール」のおかげで、それは麦山小学校6年2組の子供たちのおかげだと、おれの話を聞いてそう思ったそうなのだ。だから、自分たちの景気の良い時に一つくらい良いことをしておきたいと考えたそうなのだ。それが恩返しの意味も込めた麦山小学校への寄付だった。洋子は「麦屋丸」という偽名を使って寄付したそうだ。おれに内緒で。どうして今日まで内緒だったのかと訊くと、相談したら反対しただろうと言う。その通りだ。けちなおれは間違いなく反対した。それにしても、偽名の「麦屋丸」は粋だ。やっぱり洋子にはセンスがある。これからおれはユーチューバーとして「麦屋丸」と名乗ることにしよう。
いまさら、一億円を返してくれとは言えないけど、せめて一千万円、いや百万円でも返してくれないかなと毎日ぐちぐち言うのを、洋子はそばで聞き流していた。おれは往生際が悪い。でも、内心では、おれたちが良いことをしたことがかたちとして残って、洋子にすごく感謝している。こどもたちは石に躓いて怪我をせずに元気一杯に走ることができる。
おれはユーチューバーになることを諦めたわけではない。一瞬ではあるけれど、一流のユーチューバーになったではないか。もう誰も覚えていないだろうけど。「麦屋丸」として再出発だ。
おれは再び初心に帰って、大食いから始めることにした。大食いと言ったら、果物屋の「マルコ」だ。あそこに良い思い出はないけれど、ラーメンや丼物の大食いではおれの実力では話にならない。ここはやっぱり果物だ。それに金のないおれに食い物を安く提供してくれるのは、このマルコのおばちゃんしかいない。
冬の果物はリンゴかミカンしかないので二者択一だった。リンゴよりもミカンの方が食べやすい。こうして、ミカンひと箱を30分で食べる挑戦が始まった。2キロ入りの箱でよかったのに、おばちゃんが奮発して5キロ入りの箱をおれの前に出した。たしかに2キロでは大食いにならないことくらいはおれだってわかっていたが、5キロの箱に入ったミカンを見ただけで、おれの気力は萎えていった。それでもおれは後へはひけない。すでにミカン代として500円を払った。下の方はきっとアオカビが生えているのだろう。今回は腐ったものは手を付けないようにしよう。
マルコの店頭でおばちゃんのスタートの号令でミカンの大食いが始まった。
買い物客の観客に交じってまことがいた。いつの間に現れたのだろう。これはやばい。もう耳の中で「情けねー」の声が連呼されている。それでも、とにかく食べ続けなければ。
となりでマルコのおばちゃんがミカンの皮をむいてくれた。有難迷惑とはこのことだ。そんなに早く食べられないので、自分で皮を剥くからと言って断った。みかんは小粒だったので、剥いて一口で食べることができた。最初のペースはなかなか快調だ。
おれの食べる速度が落ちてくると、マルコのおばちゃんが「嫌になったら、いつでもやめていいから」、と耳元で囁いてくれた。おれはその言葉に勇気づけられて、また食べる速度を速めた。
おれがもうだめになりそうなったとき、マルコのおばちゃんが「うちのトイレ壊れているから今日は使えないの」と耳元で囁いた。悪魔のささやきだ。おれは脂汗が出てきた。おれはミカンの皮を剥く手が止まった。みかんはまだ半分以上残っている。
すると、まことが「麦屋丸、頑張れ」と大声叫んだ。そして、おれのところに走って来て、ミカン箱からミカンを取り出して食べ始めた、おれを助けてくれようとしているのだ。まことは懸命に食べた。おれは小学生を苦しませてはいけないと、再び必死で食べ始めた。
マルコの前を偶然に通りかかったまことの同級生たちが、何をしているのかと店の中を覗き込むと、まことが「手伝って」と頼み、こどもたちみんながミカンを食べ始めた。そこには太一、千夏、大輔、蒼太、和也、里奈の無邪気な顔があった。
子供たちへ送るおばちゃんたちの声援が小さな商店街に響いた。おれは観客たちの中に洋子を見つけた。
完




