表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
地球の片隅の陰謀論  作者: 美祢林太郎
15/16

14 から騒ぎの終焉

14 から騒ぎの終焉


 おれは毎日「ムギヤマール」を冷蔵庫から取り出しては、ひっきりなしに飲んだ。引っ越した当初に冷蔵庫に入れておいた50ダース分は、少年バスケットボールクラブの実験で使ったり、怪しい人たちに売ったりで、すぐになくなり、ストックしている十畳間から新たに100ダースを取り出して、新しく冷蔵庫に入れておいた。このうち50ダースはすでに売れてしまっていて、おれは残りの50ダースをひたすら毎日飲み、気が付くと10日ほどでなくなってしまった。

 洋子はおれの体を気遣って何度もやめるように忠告した。だけど、彼女の忠告を無視して、おれは何かに憑りつかれたように飲み続けた。おれは無意識のうちにすべての「ムギヤマール」を消費しようとしているかのようだった。

 それにしても、600本が10日でなくなるのは早すぎる。単純計算で一日60本を飲んだ計算になる。いくらなんでもこんなに飲んでは健康に悪いはずだが、おれの体調は以前と変わったところがない。「ムギヤマール」の賞味期限がとっくに切れているので薬効がなくなったのだろうか? それともおれは栄養ドリンクに対して異常に耐性が強いのだろうか? はたまた、過剰摂取による副作用はこれから遅れてやってくるのだろうか? それともおれは600本を飲んでいないのか?


 あとで洋子が言うには、おれに何度忠告しても飲むのをやめなかったので、冷蔵庫の中にあった「ムギヤマール」を毎日流しに捨てていたそうだ。おそらく40ダースくらい捨てたので、おれは10ダースくらいしか飲んでいなかった計算になる。これじゃあ、一日一本の計算だ。それではおれが一日に飲んだ他の59本はどうなっていたんだ。おれはあの時期、何も考えられなくなっていたので、自分が飲んだ量もわからなくなっていたのだろうか? いや、洋子が言うには、おれは間違いなく50ダース飲んだそうなのだ。だけど、そのうち40ダースは洋子が麦茶で1万倍に希釈した「ムギヤマール」だったのだ。毎回徐々に薄めていったので、おれは味の変化に気がつかなかったらしい。おれが毎日飲んでいた頃は、洋子が食事を作るようになっていたが、料理の味が濃くてとてつもなく辛かった。おれは洋子に気を遣って、味について文句は一切言わずに、汗をかきながら黙々と食べた。料理の味の濃さと辛さは、おれの味覚を鈍くするための洋子の作戦だったらしい。そう言えば、おれは料理を食べている最中、のどの渇きを癒すために、お茶代わりに「ムギヤマール」を何本も飲むのが習慣となっていた。「ムギヤマール」は彼女が冷蔵庫から取り出して、栓を開けておれの前に出してくれた。このことが原因で「ムギヤマール」が急速に消費されるようになったのだが、あれはほとんどが麦茶だったのだ。言われてみれば、のど越しが柔らかだった。それに、あの頃、麦茶を作る香ばしい臭いが部屋中に漂い、洋子は冷やした麦茶を飲んでいた。いずれにしても、このことをおれが知るのはもっと先のことだった。


 冷蔵庫の中の「ムギヤマール」がなくなったので、おれは十畳間にストックしておいた「ムギヤマール」を新たに100ダース取り出すことにして、部屋の鍵を開けた。

 鍵を開けるとそこには何もなかった。冷房が効いて冷え切った十畳間はがらんとしていた。そこにあるはずの「ムギヤマール」の山が、引田天功の手品にかかったように、きれいさっぱり消えていた。

 少しの間があって、おれは大きな声で洋子を呼んだ。のんびりとやってきた洋子はがらんとした十畳間を見て唖然とした。時間が経って発した第一声は、「お金はどこに消えたの?」であった。

 洋子は「ムギヤマール」を売って手に入れた70億円程の札束を段ボールに入れて、この部屋に置いていたそうなのだ。それが全部消えていた。おれはそんな大金がこの部屋に置いてあったなんて、この時まで露ほども知らなかった。いくらなんでも、それはあまりに不用心だろう。

 おれはすぐに警察を呼ぼうと言ったが、洋子はそれはやめようと言った。70億円をどのように入手したのか根掘り葉掘り聴かれるだろうし、税務署から査察が入ることは間違いない。当然、マスコミの恰好の餌食になる。弁護士を雇うにもおれたちには金がない。洋子は、私たちだけでそうしたことに対処するには、自分たちはあまりに無知で無防備でひ弱だと言った。それでも「ムギヤマール」さえ残っていれば、国家権力にも対抗できたかもしれないけれど、すでにそれもない。

 万が一70億円を盗んだ犯人が見つかっても、私たちの手元に戻ってくるとは限らないし、戻ってこない可能性の方がずっと高い。それはそうかもしれない。泥棒が金を返してくれた話はこれまで聞いたことがない。あいつらはまともではないのだから、すぐに散財してしまったか、すでにスイスの銀行にでも預けているのかもしれない。

 それに警察に「ムギヤマール」の顛末を正直に話したら、おれたちは詐欺罪で捕まるかもしれない。そんなことよりも、おれたちはこれまでに「ムギヤマール」を売ってきた人間に命を狙われる恐れがある。おれたちは事故に見せかけて殺されるはずだ。いや、回りくどいことはしないで、あっさりとピストルで撃たれるだけかもしれない。ナイフで刺されると痛そうだ。毒薬は苦しいのだろうか? おれの考えは負のスパイラルに陥っていった。

 「ムギヤマール」が偽物だということがばれたら、「ムギヤマール」を信じて幸せに死んで行った老人たちに申し訳ない、とちらりと頭を掠めた。

 洋子はなくなったお金と「ムギヤマール」はこの際あきらめることにしよう、ときっぱりと言った。それでもおれは未練たらしくグチグチ言ったが、マフィアに生きたままコンクリート詰めにされ、東京湾に沈められる映像が頭に浮かんで、脂汗が出て、足がガタガタと震えてきたので、洋子の意見に従った。


 ここでタワーマンションの十畳間から「ムギヤマール」と現金70億円がなくなったいきさつを説明しておくことにしよう。

 半月前、かれらが商談のためにホテルに出かけた際、マンションの玄関で2名の引越屋とすれ違っている。引越屋は帽子を被ってマスクをし、軍手をしていた。かれらは全員同じユニホームを着て、折りたたんだ段ボール箱を載せた台車を押して、エレベーターに入って行った。どこにでも見られる引越の風景だ。板倉たちはおそらくどこかの部屋の住人が転出するのだろうと思ったはずだ。そんなことはこのマンションでは珍しいことではなかったので、かれらは警察にその日のことを聞かれても、思い出せなかったかもしれなかった。もちろん、かれらは警察からそのことを聞かれる機会はなかったのだが・・・。

 マンションには監視カメラがあるので、当日の盗難の模様が写っているのではないかと思われるかもしれないが、映像は当然マフィアが差し替えて、引越しの動画は残っていない。

 この引越屋に扮した男たちは、あらかじめ渡されていた合鍵でかれらの部屋に侵入し、十畳間の鍵はピッキングによって簡単に開けられた。部屋にあったすべての「ムギヤマール」と段ボール箱に入った現金を、かれらが持ってきた段ボール箱に詰め直して、部屋に塵一つ残さずに出て行った。この間5分もかからなかった。

 上履きに履き替え、手袋をし、十畳間以外の部屋のものに手を付けなかったので、侵入した痕跡は何も残らなかった。かれらが十畳間を開けるまで何もわからなかったのは、至極当然である。

 首謀者は目的の「ムギヤマール」をすべて手に入れ、それに加えて濡れ手に粟の現金70億円を手に入れた。犯人は予想外の大金を手に入れて、さぞかしご満悦のことだっただろう。

 首謀者が誰かというと、それはあの中国人マフィアである。ラーメン屋の店主だった中国人マフィアはすでに殺されたんじゃないか、とクレームをつける方もいるかもしれないが、かれは首謀者に雇われた、人の良いラーメン屋の店主に過ぎなかった。かれはマフィアのドンでもないし部下でもない。あの時に一緒に来ていた無口で影の薄い女性秘書を覚えているだろうか? あれが正真正銘の中国人マフィアのドンなのだ。

 彼女がトイレを借りたいと言ったことを覚えていないか? トイレを借りるふりをして、家を探索したのだ。そして玄関の鍵の鋳型を取ったり、十畳間に「ムギヤマール」があることをファイバースコープを使って確かめたりしながら、家じゅうの写真を撮っておいた。ラーメン屋の主人の話が興に行って、板倉たちは秘書の存在なんか忘れていただろう。彼女がラーメン屋を雇ったのは、かれが人懐っこくて話がうまかったからに過ぎない。

 するとラーメン屋を殺したのは、あの時秘書に見せかけた中国人マフィアのドンなのかとなるが、ラーメン屋が殺されたのは、ただの痴情の縺れに過ぎない。あれほど口のうまいラーメン屋だから愛人はたくさんいた。そのうえ金も持っていたので、女にはよくもてたんだ。その愛人の一人がラーメン屋が浮気をしていると言って、そばにあった包丁でめった突きにした。この愛人はすでに警察に捕まっている。

 運び出した「ムギヤマール」を中国人マフィアがどうしたかって? 闇のルートで、全部を世界的なオークションに掛けた。最低価格が1億ドルから開始されたそうなのだが、最後はアメリカのIT長者が15億ドルで落札したらしい。板倉たちが丘の上の製薬会社から10万円で買った「ムキット」が2,000億円という膨大な額になった。宇宙産業にまで手を出し、資産が数百億ドルと言われている人間だから、15億ドルくらいポケットマネ-らしい。中国人マフィアの懐に入った金は、オークション会社への手数料などを差し引いて、およそ10億ドルほどであったらしい。日本円になおすとおよそ1,300億円になる。これでは、金銭感覚がマヒして、板倉たちのマンションから「ムギヤマール」のついでに盗んだ70億円は、小遣い金くらいに思えてくる。

 当然のことだが、中国人マフィアはIT長者が「ムギヤマール」をどのように利用しようが、まったく興味がなかった。IT長者は自分一人で毎日食後に飲んでいるそうだ。そのうえ頭につけて、禿げてつるつるになった自分の頭に毛が生えるのを試してもいるそうだ。「ムギヤマール」が万能薬かもしれないという噂話を信じているのだろうか? かれは禿げ頭を自分のトレードマークにしているけれど、実は若い頃から禿げているのが相当なコンプレックスなのだ。それでいて、カツラをつけて変身する勇気もなかった。これまでも密かに世界中から毛生え薬を取り寄せて試してみたけれど、髪の毛が生えてくる気配はなかった。これまで毛生え薬に50億ドルくらい使っているらしいけれど、随分カモにされたものだ。「ムギヤマール」を頭につけてにやついている顔を想像すると、あんなぎらついた男がいじらしく思えてくる。

 「ムギヤマール」風呂にも愛人たちと一緒に入っているらしい。その夜が素晴らしかったのかどうかは、さすがに誰も知らない。IT長者は、これまで麦茶を飲んだことがないようで、「ムギヤマール」の味を新鮮に感じ、薬効があるように思ったらしいのだ。信じる者は救われる、かもしれない。

 IT長者は「ムギヤマール」の成分分析をするために、密かに世界中から優秀な研究者を集めて「ムギヤマール」の研究所を設立し、研究者たちはすぐに「ムギヤマール」の成分を明らかにした。そんなに難しいことではない。優秀な研究者たちはその成分が麦茶と同じものであることをすぐに突き止めたが、それをIT長者に正直に言うことはさすがに憚られた。とてつもない高給で雇われていたからだ。どうしても雇い主には忖度してしまう。かれらはその成分があたかも新しい物質であるかのように「ムーグ」と命名した。

 IT長者は「ムーグ」入りの清涼飲料水に「ムーラ」と命名して、その製造と販売を大々的に開始したが、「ムーラ」は「コーラ」以来の世界的な大ヒット商品になった。この「ムーラ」によってIT長者は益々資産が増えて行った。金持ちは雪だるま式に資産を増やしていく。

 「ムーラ」は日本でも大ヒットし、国民のほとんどが口にした。昭和生まれの日本人には、煎じ詰めた麦茶の味に似ているように思われたが、「それは錯覚よ」と若者に否定されて、老人たちは黙った。

 もちろんあの丘の上の製薬会社の総務課長も飲んでいる。最初一口飲んで、昔どこかで飲んだような気がしたが、思い出せなかったので、ぐいと飲み干した。今は「ムーラ」を愛飲しているが、それがかつて自分の会社で売り出した栄養ドリンク「ムキット」の味に似ていることに気づくことはなかった。


 話を戻そう。

 十畳間がもぬけの殻となったおれたちは、しばらく放心状態だった。二人で会話することもなかった。

 一週間が経った頃だろうか、洋子が口を開いた。

 「マンションを出よう」

 洋子から話を聞くと、マンションは賃貸で来月分のマンション代を払う金がないとのことだった。ビクトリア朝の家具一式も100インチのテレビもすべてレンタルであることがわかった。洋子は物を持たない主義だったのだ。洋子の耳のダイヤのピアスは大きなガラス玉だった。

おれたちは以前住んでいたおんぼろアパートに戻ることにした。


次回最終話

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ