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地球の片隅の陰謀論  作者: 美祢林太郎
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9 精力増強ドリンク

9 精力増強ドリンク


 「ムギヤマール」を最初に飲ませたのは、アパートが暑いと騒いだアラブの王族風の男だった。我々の新居であるタワーマンションの最上階の冷房の効いた涼しい応接室にかれを迎えた。かれはビクトリア王朝時代のソファに腰を下ろして、さも満足そうだった。おれも知らなかったが、王族にはビクトリア朝がよく似合う。

 かれを一番手として選んだ最大の理由は、王族なのだからまさか下々が愛飲する麦茶を飲んだ経験はないだろうと考えたからだ。麦茶を飲んだことがある人間ならば、「ムギヤマール」は少し麦茶の味がしますね、といい出す恐れがあったからだ。それを言われたら身も蓋もない。麦茶という言葉の響きにはどこにも怪しいムードがない。麦茶という言葉から連想するのは、ステテコ姿で縁台に座って団扇を片手に汗を掻きながら飲むあの麦茶である。これでは一挙に安っぽい日常に引き戻されてしまう。たとえなんとかその場を取り繕うことができたとしても、いらぬ面倒は避けた方がいい。こうした単純な理由から、最初の人間として麦茶を知らないだろうアラブの王族が選ばれたのだ。 

 お調子者のおれが「この一瓶で子供10人分に相当する薬の量が入っています。大人でも一瓶を一気に飲むと、効き目があり過ぎるかもしれません」と口から出まかせを言った。少しくらい吹いておいた方が、相手も嬉しいだろう。いわゆるリップサービスだ。アラブの王族は、おれの親切な言葉をスマホの自動翻訳にかけず、おれが「よし」のサインも出していないのに、勝手に「ムギヤマール」の栓を開けて飲み始めた。おれは他にも飲む前のセレモニーを色々と考えていたのに、すべてが台無しだ。

 「ムギヤマール」を飲んだかれの第一声は、「アメイジング」だった。えっ、アメイジングは英語ではないの? おれだって「アメイジング」ぐらい知っているよ。もしかすると、かれはアメリカ在住のアラブ人なのかもしれない。すると、王族というのも勝手に我々が思い込んでいただけなのかもしれない。アラブ人のように白い被りものをしているし、髭をはやし、白いゆったりとした服を着ている。アラブ人で大金持ちと言えば、みんな王族のように思っていたが、それはあまりにもステレオタイプな見方だったんだ。そもそも、王族の方が一人で直接おれたちに会いに来るわけがない。しかも話をするのはスマホの自動翻訳アプリを通してだ。かれはおれたちの日本語をアラビア語ではなく英語に変換していたのだ。かれの話す言葉がこれまで英語に聴こえなかったのは、ひどいアラビア訛りがあったからじゃないのか? アラビア訛りがどんなものか知らないけれど・・・。本当のところはおれたちの英語力が貧困なのが一番の原因であることは重々承知しているが、すべてのことを自分たちのせいにするほど、おれたちは人間ができていないし、ましてや卑屈でもない。「ムギヤマール」という誰もが欲しがる商品が我々の手元にある限り、おれたちはどんな相手に対しても正々堂々と渡り合えるのだ。

 冷静に考えれば、王族ならば、おれたちと会う際には、お付きの者と通訳を連れてきたはずだ。そう言えば、このニセ王族は、ホテルの高級中華レストランで会っていた時は、一番安い中華そばを注文していた。無礼がないように、おれたちも一緒に中華そばを付き合っていたが、かれは中華そばが好きなわけじゃなく、ただ単にけちなだけだったんだ。「ムギヤマール」も瓶を逆さにして、最後の一滴が落ちるまで、大きな口を開けていたではないか。さすがにこれは王様のやることじゃない。おれだって少なくとも他人の前ではやらないよ。

 このアラビア人風(アメイジングの言葉を聞いて以来、到底王族には見えなくなってきた)の男は、「ムギヤマール」の空瓶を前にして、顔面が紅潮し、鼻息が荒くなって、興奮してくるのがわかった。目が血走って、今にも洋子に飛びかかるのではないかと心配になってきた。「これから私はどうなりますかね」と目をぎらつかせて、自動翻訳機で洋子に訊いてきた。彼女はニヤッと笑って「いますぐに恋人のもとに走って帰られた方がいいんじゃないですか」と自動翻訳機で応えたので、アラビア人風の男は「グッド」と言って、慌ただしくおれたちの部屋から出て行った。

 アラビア人風の男の異常な興奮ぶりを見て、もしかすると丘の上の製薬会社の総務課長が知らなかっただけで、「ムキット」にはすでに「ムギヤマール」が入っていたのかもしれないと思った。おれは早速冷蔵庫から「ムギヤマール」を1本取り出して飲んでみたが、やっぱり麦茶味の栄養ドリンク以外の何物でもなく、しばらく待っても興奮してくることはなかった。あれはアラビア人風の思い込みのなせる業だったのだろう。そもそも飲む前から異様に興奮していたではないか。きっと信じる者は救われるというやつだ。

 このアラビア人風とのやり取りをおれはしっかりと動画に撮っていた。これをユーチューブに載せると、今まで以上に反響は凄まじかった。庶民からも一本いくらか、という問い合わせが殺到したが、こんなニセ薬に庶民を巻き込みたくないという良心が残っていたので、一本売りはしていないと応え、どうしてもと言う方には特別に一本980万円でお分けします、とユーチューブの中でふっかけると、大反響となり、「いいね」が10万を超した。ここまでくれば超一流のユーチューバーの仲間入りだ。

 くれぐれも言っておくが、我々は詐欺師になってひともうけを企んでいるわけではなかった。しかし、どこかで歯車が狂ってきたようだ。

 麦山小学校6年2組の子供たちの話から、子供の体力を増強する「ムギヤマール」という新薬があの丘の上の製薬会社で密かに開発されていたことをおれはつきとめた。だけど、おれたちが「ムキット」を買った時点では、薬の「ムギヤマール」はまだ栄養ドリンクの「ムキット」には混入されていなかったはずだ。もし混入されていたならば、賞味期限があと一週間しか残っていなくても、あの製薬会社が定価の十分の一の一本10円で手放すはずがない。「ムキット」はあくまで麦茶の成分が入った栄養ドリンクにしか過ぎない。

 ユーチューブでは、おれたちの意図とは別に、「ムギヤマール」は大人の精力増強ドリンクの方へ関心が向くようになったのが、多数のコメントからわかった。おれたちにコンタクトを取ってくる者たちも、スーパー少年兵士養成薬よりも精力増強剤としての問い合わせの方が圧倒的に多くなっていった。

 1億円を払うから一ダース分けて欲しいという者が、我々のマンションにやってきた。一本980万円から1億円という値段を算出したのだろう。依頼主の名前は秘されていたが、どこかの大金持ちらしい。

 代理人はきちんとした身なりと言葉遣いをしていた。これまでの胡散臭い連中とはどこか違っていた。おれは研究者ではないので、薬に精力増強の効き目があるかどうかははっきり言ってわからない。もしかするとあれはたまたまユーチューブに登場したアラビア人だけに効いたのかもしれないと正直に答えたが、たかだか1億円ほどだから、効かなくても何の問題もないし、裁判に訴えることもない、と代理人は慇懃に話した。

 代理人は、これは秘密なのだがと断って、依頼主はこれまでも様々な強壮剤を試してきたのだが、どれも効かなかったのだと教えてくれた。だから、もし薬が効いてセックスに励んで、その最中に心臓まひで死んでも困るんだと言った。でも、セックスの最中に死んだら本人は本望なのかもしれないとも付け加えた。何しろ依頼主は百歳を超えている。おれは劇画に描かれた皺くちゃな妖怪のようなじじいを想像した。代理人は譲ってもらえなければ切腹しなければならないと脅してきた。そんな時代がかったことはいくらなんでもしないだろうと思ったが、悲壮な覚悟から可能性は感じられた。代理人の迫力に気押されし、そのうえ同情も重なって、ついに一ダースを1億円で売ってしまった。これが我々が最初に売った「ムギヤマール」だ。

 おれはおまけとして代理人に1本差し上げようかと思ったのだが、すぐに洋子に阻止された。そんなに軽々しく「ムギヤマール」をあげては、「ムギヤマール」の信憑性が揺らぐというのだ。きっとそうなのだろう。

 それにしても、おれは目の前に積み上げられた1億円を見て、嬉しさよりも、危険な道に足を踏み入れてしまったと空恐ろしくなった。もしかすると、おれたちはもはや平凡な日々に後戻りできないのかもしれない。そのそばで洋子は、いつもの口調で「片付けがすんだら、ラーメンでも食べに行こう」と言って、せっせと1億円を段ボール箱に詰めていた。

 代理人は自分と会ったことは内密にしてほしいと言ったが、おれたちはユーチューバーなので、かれとの話をいつものように隠し撮りし、凝りもせずにユーチューブに載せた。もちろん顔や声にはフィルターをかけ、誰かわからないようにしたが、当人が見ればわかるはずだ。だが、後々苦情が来ることはなかったので、効き目があったのかどうかもわからなかった。いずれにしても、我々が「ムギヤマール」一ダースを一億円で売ったことは世界中の誰もが知るところとなった。

 「ムギヤマール」を売る方が忙しくなったので、おれたちはユーチューバーをやめて、ビジネスマンへと百八十度軸足を移すことになった。洋子もそれに同意した。

 一本売りは面倒なので、ダース単位で売ることにした。一ダース一億円だ。こんな大金を払うことができるのは、とんでもない大金持ちだけだ。交渉はいつも秘密で行われたし、実際薬が効いたかどうかはその後の情報が何も入らないのでおれたちもさっぱりわからなかった。二度と購入する者がいなかったのは、12本目くらいになると有効成分の入っていないニセ薬なので、信じるだけでは効き目が続かなったのかもしれない。それとも、百歳を超えた老人たちはみんなセックスの途中に死んでしまったのかもしれない。不思議と苦情はひとつも来なかったからいいのだけれど。おれは、ぽつりと、老人たちの死に顔が安らかだったらいいなと思った。

 大金持ちが購入した一ダース一億円の「ムギヤマール」は、我々庶民が買う一本100円の栄養ドリンクと同じくらいの金銭感覚で買った物なのかもしれない。そう考えると、我々だって栄養ドリンクをただの気休めにしか思っていないし、効かなくても目くじらを立てたりすることはない。ましてや誰も製薬会社を詐欺で訴えたりはしない。大金持ちはそれと同じなのだろう。いずれにしても、単なる思い付きだったのだが、庶民が頑張っても絶対に届かないような価格設定にしておいて大正解だった。1本10万円程度ならば、世の中にたくさんいるお調子者たちが買って飲んだはずだ。そうすると、全然効き目がないことがすぐにばれたはずである。庶民は分不相応な買い物には不寛容だ。

 そのうち精力剤としての「ムギヤマール」の注文はこなくなった。裏の世界で効き目がない情報が流れ、金持ちの知るところとなったのかもしれない。それとも、プラシーボ(思い込み)効果で曲がりなりにも効いた老人たちがばったばったと腹上死したのかもしれない。その情報が金持ちたちの間に流れたのかもしれない。そう言えば、最近、政界や経済界の重鎮の死が立て続けに報じられている。「ムギヤマール」と関係があるのかな? まさか。


             つづく

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