幕間 修道騎士は辛いよ「ルーカス①」
「――くっ、ぐむぁ」バギィッ
それは、彼にとって記憶にある限り二度目の〝恐怖〟だった。
「ひっ、がb」バガンッ
死への恐怖ではない。そんなものはこの道を歩むと決めた時から覚悟は出来ている。その時が来れば足がすくむことがあろうとも潔く運命を受け入れる心の準備はあるつもりだ。
「うっ、なぉ」バチュッ
彼が感じた〝恐怖〟とは、己が信仰の揺らぎに対する恐怖だ。
「うぅ、くr」バギィン
こんな存在を産み出した、生きることを許した『神』は、本当に自分達を守ってくれるのだろうか。
幼き頃より暗唱出来るほどに聞き、唱えてきたあの教えは、真実なのだろうか。
真実ならば、何故このような存在が世に蔓延るのか。
「ぎっg」ブチュッ
教えは、自分が生命を賭けて護ろうとした教えは、今この瞬間も心で強く輝くこの〝教え〟は――
「かm」グプッ
――本当に信じて良いものなのか。
◇◇◇
「――うっ、うわぁ、たs」ブチャァ
またも一人が倒され、その胴体を引き五百切られる。
相手はわずかに一体。その点で、先程までのとめどない進撃とはわけが違う。
それだけの絶望的な戦力差が彼我にはある、ということだ。
目の前の生きる〝絶望〟相手に、そんなことを考えている余裕のある兵はいないようだったが、そんなことは状況の深刻さを物語るだけで、なんの気休めにもなりはしない。
彼――『青海の騎士団』第一大隊大隊長であるルーカス・アッカードは己の身体にもはや魔力が残されていないことを再度確認すると、身体の痛みに黙って耐える。
無理に動いても、身体がこの様子ではやられるだけだ。彼は慎重に好機を見計らう。
……例えそれが、一時的でも味方を見捨てることになろうとも。
彼の目の前では巨大な豚頭鬼が猛威を振るっていた。
いや、このオークは単なるオークなどではない、
『豚の姿をした災厄』だ。
幼き日、『古代大戦』の英雄譚に登場し、彼を何度も恐れさせた恐怖の権化。
最古の『英傑』の一人と相討ちになって、歴史に決して色褪せぬ深い痕を刻み込んだ古の亜人王。
その再来が、今まさに彼の目の前にいる。
〝生ける災害〟としか形容しがたいその姿は、まさしく〝絶望〟と言う言葉がよく似合う。
尖った四本の牙に、焦げ茶色の体毛、全体的に通常のオークより大きく、より荒々しい印象を与える。
これは「豚」と言うより「猪」に近い。
……そして、それでも〝猪頭〟は、〝オーク〟なのだ。
「フガッ」ガブッ
人を喰らう。己が「糧」とするために。
それでいて、腹を満たすためではない。
周囲には一口だけかじり取られた哀れな兵士達が無造作に投げ出されている。
そして、今まさに地面に投げ出される死体は増え続けていた。
次から次へと腹を、腕を、脚を、肩を、首を、頭を喰われ、放り捨てられていく。
早く倒さなければ、犠牲が無尽蔵に増え続けるだけでなく、敵はより強くなっていく。
そんなことは誰もが痛いほど理解していた。
だが、したくとも倒せないのだ。
少なくとも、今の彼らではそれは不可能だった。
……兵が、いないのだ。
連戦で少しずつ数を減らしていたこの門の守備隊も、一度は増員されて回復した……はずだった。
本来ならば、到着した増援を加えて修道騎士が約九十、『聖軍』百五十、帝国軍三百ほどがいたはずなのだ。
一部はより奥に近い地点に陣取っていたので防衛戦に加われなかったとしても、五百近い兵がこの場には集まっていたはずだった。
都市各所の被害状況の確認のために再編した後、出発する予定で、その準備を行っていた最中だった。
都市内では比較的被害の少ない部隊ばかりが集まっていたはずだ。
それが、瞬く間に壊滅した。
〝猪頭〟に付き従ってきた亜人もいなかったわけではないが、そんなものはいないのと同じだった。
この惨状は、ほとんどこのたった一体の豚頭鬼によってもたらされた。
「フガッ。聞ケ、猿ドもッ! 我ガ名はムムーティ・ムス=アヤシア!! アヤシア氏ぞク最強ノ戦シにしテ、ムス家の一バんの父ダっ!」
突如現れた〝猪頭〟は、所々片言気味ではあったものの、意味の通じる文章を流暢に話した。
つまり、人族語を解するほどの知能を有している、ということだ。
〝猪頭〟――『ムムーティ・ムス=アヤシア』は、間違いなく豚頭鬼、それも上位種だった。決して「オーク」などではない。
……彼ら人族からすれば最悪でしかないが。
この『要衝都市シナラス』を襲撃した亜人(と魔族)の中で、脅威と感じられる存在の情報は収集済みだ。
吸血鬼に戦鬼と狼鬼。
いずれも並の人族では逃げ切れるかどうかすら怪しいという規格外の戦闘力を有していると言う。
しかし、どれも目的に沿って動いていて、むやみやたらに虐殺して回っていた様子はない。
目的の達成の妨げとなる兵士を攻撃することはあっても、手当たり次第に暴れまわっていたわけではないのだ。
よって、それなりに対処のしようがあった。
実際にある修道騎士の手によって戦鬼は討伐されたという。
……その修道騎士はかなり特殊なため、それだけで「対処可能」と判断するのは早計過ぎるが。
しかし、その情報には、こんな化け物のものなどなかった。
これだけの脅威を見過ごすわけはない。
それでいて、温存する理由も思い当たらない。
ならば、信じたくはないがこれしかないだろう。
――〝猪頭〟は相対した人族を、文字通り消し去ったのだろう。完全に。
「ふざけるのは顔だけにs」ボギィィ
最初にその規格外の破壊力を身をもって体験したのは、彼にとっては同僚である『青海の騎士団』第四大隊大隊長、フィリス・ルゥ・ホランディだった。
〝猪頭〟の振るった二振りの大剣の一本を剣に喰らい、そのまま壁にめり込むほどの勢いで吹き飛ばされた。
そして、その横で同じく攻撃をしようとしていた彼もまた、蹴り飛ばされ地面を削りながら壁に衝突した。
修道騎士団の大隊長という、この場においては間違いなく最上位に君臨する〝強者〟二人が、なすすべもなく敗北……とすら呼べないような退場の仕方をしたのだ。
五百人近い兵士全員に衝撃が走ったのは想像に難くないだろう。
その後は、圧倒的だった。
仮司令部とされていた建物は投げつけられた兵士の死体で壁にいくつもの穴が開き、最終的には〝猪頭〟が振るった大剣によって破壊された。
それなりに頑丈なはずの建物を難なく破壊するその膂力は、戦意を喪失させるには充分過ぎる程だった。
怯んだ歩兵を斬り殺し、果敢に挑む騎士をへし折り、逃げようとする騎兵を踏み潰した。
合流後、この場を離れていた都市長や一足先に負傷者救護に出発していた『聖女』、そしていつの間にか姿が見えなくなったいた『神獣』に代わりこの場を預かっていた帝国軍の五百人隊長は、自慢の髭ごと首を刎ね飛ばされて、命令一つも出さずに死んだ。
その全てが、彼の目の前で一瞬で行われた。
実際は、それなりの時間が経っていたのかもしれない。
彼が茫然としていたのでその現実を直視出来ていないだけなのかもしれない。
それでも、それは彼の心を完全にへし折る、その一歩手前まで彼を追い込むほどの衝撃的な体験だった。
幸い、派手に衝突した割に彼の怪我は大したことはなかった。
正確には、それなりの負傷だったが、彼の回復魔法で十分戦闘可能な状態に回復出来る範囲だった。
もっと言えば、彼の最大の幸運はその衝撃で気を失わなかったことだろう。
気を失わなかったから自分を治療することが出来たし、状況を冷静に分析して反撃の機会を伺うことも出来た。
……肝心の反撃の機会というものが一向に巡ってこない、という大き過ぎる問題は依然として立ち塞がってはいたが。
それに、変な体勢で無理に回復させた所為か、背中が痛い。
この痛みに完全に慣れるまでは、好機が来ても戦えるかは微妙なところだった。
――無論、戦うが。
「ブガッ、グック」グチュ、ゴクンッ
人を喰らう際、〝猪頭〟は常に左右どちらかの大剣を地面に刺して手を開けていた。
その無防備な状態ならあるいは、と果敢に挑んだ者もいたが、いずれも犠牲を握ったままの素手で薙ぎ払われ、次の食材の仲間入りを果たすだけで終わった。
一方的な殺戮――食戮を目の当たりにして、もはや立ち向かおうとする者はいなかった。
そのような覚悟を持った者は一人残らず殺され、喰われてしまっていた。
かと言って、逃げようと動けば目をつけられて捕まり、結局喰われてしまう。
兵士達には、逃げたい気持ちを堪えて槍を構えるか、諦めて喰われるのをただ待つか。
その二択しか残されていなかった。
「ブガァーー!! タしかナ満ゾく!!」
そこで突然、食戮がやんだ。
悍ましく大きな口を吊り上げて満面の笑み(恐らく)を浮かべた〝猪頭〟は、地面に突き立てていた二本の大剣を引き抜くと、残った兵士達には目もくれずどこかへ去っていった。
◇◇◇
「……いっ……た?」
恐る恐るといった様子で顔を上げた兵士がそう呟く。
余りにも小さな呟きに過ぎなかったが、生き残った全員の耳に確かに届いた。
としても、被害は絶大だった。
五百人近くいた兵達は、今や二十に届くかどうか。
「壊滅」などという言葉でも生温い、この場における人族の「根絶」がそこにはあった。
そう遠くないところで兵士の悲鳴と、あの咀嚼音が聞こえてくる。
目の前でほんの先程まで繰り広げられていたあの惨状は、幻聴をもたらす程彼らの精神を蝕んだのか?
それもあるかもしれないが、この音は幻聴などではない。
この都市中央部と商業地区を結ぶ門における虐殺は、場所をほんの少し移しただけで再開されたのだ。
周囲の兵達より耳が良いルーカスには、はっきりとそのことが分かった。
ならば、こんなところにいつまでも埋まっているわけにはいかない。
戦闘とも呼べない一方的な殺戮劇とは言え、ずっと観察しているうちに分かってきたことはある。
注意が完全に逸れている今なら、奇襲が成功するかもしれない。
未だ痛みはある。それでも、先程までよりはマシだ。
鞘を杖に、心の中で勢いをつけて立ち上がると一瞬激痛が走ったが、そこは気合いで抑え込む。
「……動ける者で負傷者の救護に当たれ。未だ息のある者もいるはずだ。それが終わったら建物に入れ。奴が戻ってこないとも限らんからな」
「あっ、えっ? はっ、はいぃ!」
一番近くにいた、最も元気そうな兵にそれだけ伝えると、彼は周囲に散らばる剣の中から良さそうなものを三本ほど選び、音の方へ駆け出した。
彼の剣は壁へ蹴り飛ばされた時に折れて使い物にならなくなってしまっていた。
丸腰で戦えるわけはない。
例え正攻法での勝利は難しかろうとも、決して破れかぶれにはならない。
勝ちの目は、常に諦めない者にしか見えないし、現れない。彼はそう信じていた。
あの日の誓いを忘れたつもりはない。
非情な決断を下すことがあろうとも、決して切り捨てたりはしない。
皆んな同じ神に仕える仲間だ。
救える手立てがあるのなら、救う。
――どんな手を使っても。
「ブギャギャッ、ナかナか、面しロい! おまエ、うマソうだな」
姿が見えてくると、誰かと交戦中だった。
気付けば、悲鳴も咀嚼音も聞こえなくなっている。
生ける災害としか思えなかった〝猪頭〟を止めるとは。
一体誰なのだろうと彼が視線を先に移すと、そこには――
「……」
――『神獣』がいた。
いや、彼の知る『神獣』に比べると迫力のようなものが足りていない。
それに、『神獣』は案外お喋りだ。
戦闘中はぶつぶつ呟いている印象がある。
この『神獣(仮)』からは、そんな感じは全くしなかった。
となると、『神獣』ではなくその分身体か。
『神獣』が都市救援に駆けつけ合流した際、分身体か何かに亜人の掃討をさせている、と言っていた。
その分身体が〝猪頭〟と戦っているのか。
あれだけ一方的に人族を蹂躙していた〝猪頭〟と渡り合うその姿は、どれだけ「人」に似せていても全く「人」ではない。
――立派な「バケモノ」だ。
「フガッ、オンリャァ!!」
「……。……」
しかし、そんな分身体でも勝ち切ることが出来ぬまま倒されてしまった。
足を飛ばされ、同時に胸を深く斬り裂かれて分身体が体勢を崩す。
相手が人だろうが、なんだろうが、オークが勝った後にやることは変わらない。
「ブガッ」
両手で鷲掴みにし、大口を開けて分身体にかぶりつく。
己と善戦した相手、それすなわち強者を喰らい、その力を我が物とするために。
しかし、その後に起こったことは、予想を裏切るものであった。
「フグッ⁉︎ ッペッ、オエッ、ゲェッ」
口に入れた分身体を吐き出したのだ。
見れば、その口からは血が滴り落ち、口内は血塗れになっていた。
今まで喰らってきた犠牲者の血……ならばここまで〝猪頭〟が苦しんでいることの説明がつかない。
分身体が口内を攻撃したのだろう。
全てを吐き出せたわけではないようで、〝猪頭〟は未だに苦しんでいる。
口と喉にある違和感。それは、歴戦の猛者でもそう易々とは攻略出来ないものであった。
ここを置いて他にはない。
そう判断したルーカスは、剣を引き抜くと〈俊足〉を発動して敵に接近する。
なるべく音を立てずに近付こうとはしたものの、苦しむ〝猪頭〟は音が立っていようともはたして気付いただろうか。
気付かれた様子もなく近くまで迫ることが出来た。
〈斬撃付与〉〈斬撃強化〉〈斬撃耐性〉〈打撃耐性〉〈衝撃耐性〉を順に小声で発動する。
強化系スキルには時間制限があるので、出来るだけ戦闘の直前にかけたい。
切れた後かけ直すまでのタイムラグは、生命のやり取りの中では致命的だ。
なるべくそんな状況にはならないよう立ち回りたい。
その結果、かなり危ない橋を渡らざるを得ない状況に陥る者も多々いる。
タイミングを見誤って発動出来ずに死んだ仲間も一人や二人ではない。
それでも、この敵を倒すには多少の危険は承知で勝ちの目を拾いに行くしかない。
……武器を平気で使い捨てるような戦い方を生身で出来たり、複数スキルを同時に行使したり出来る奴には関係のない話だが、あいにくと彼はそんなことは出来ない。
効果は一つずつ、重ねていくものだ。
「……うおぉおおお!!! 〈水斬〉!!!」
「フガンッ⁉︎」
下から斬り上げ、当たる直前に〈水斬〉を放つ。
水属性を斬撃に乗せるこのスキルには、傷口を込めた魔力の量に応じて溺れさせる追加効果がある。
普段の彼の魔力量であれば欲張れば連発は可能であるし、確実にこんな使い方もしないが、今は魔力がほとんど枯渇した状態だ。
何度もは撃てない。
だからこそ、この一撃に込めた。
「ブギィィッ!」
奇襲、それも他の攻撃を受けている状況では流石になんの対応も出来なかったようで、彼の捨て身の攻撃は〝猪頭〟の脇腹を深く斬り裂いた。
今まで驚異的な強さを見せ続け、かすり傷一つ負った様子すらなかった〝猪頭〟が鮮血を噴き出し、苦しみの声を上げた。
「ブギィオォ!!!」
「ぐぅ、くぁっ!!」グギッ
しかし、そこで倒れもしなければ怯みもせず、むしろ過剰とも言えるほどの反撃をしてくるからこそ、〝猪頭〟は恐ろしいのだ。
攻撃を出来るだけ深く届かせるために懐に完全に入り込んでいた彼は、突然振るわれた腕をモロに喰らって吹き飛ばされた。
感触的に、肋骨が数本折れているかもしれない。
それでも、ここで立ち上がらねばなにも出来ずに食われるだけだ。なんとしてでも敵にダメージを与えなければ。
幸い、すぐさま反撃されたとは言え彼の攻撃は間違いなく効いていたし、分身体を喰った際のダメージにも苦しんでいた様子。
今ならば未だつけ込む隙があるはずだ。
しかし、残念ながら現実は彼の想定通りには全く動かなかった。
悲鳴をあげる身体を奮い立たせて無理矢理起き上がった彼が目にしたのは――
「ブガァ!! ナかナか、おモ白い味だったゾ! くせハつヨいが、ワるくない」
「は? ……うそ、だろ…………」
――何事もなかったかのように笑う、バケモノだった。
◇◇◇
「――ブギャア!!」
「――うぉおおおおおおお!!!!」
敵に倍する声を張り上げ、限界をとうにむかえている身体を動かし、剣を振るう。
後のことなど、なにも考えない。
少なくとも、自分に集中している間は他に犠牲者が出ることはない。
それならば、ここで自分が粘り切れば、これ以上この〝生ける災害〟によって傷つく人はいないはずだ。
彼我の戦力差や、自分自身の現状など、考慮すべき事案を全て無視したあまりにも乱暴な結論だった。
それでも、彼にはそうすることしか出来なかった。
彼にはもう――
「っ⁉ うごっ、っ!!」ドズンッ
そんな彼の決死の突撃は、突然の横からの衝撃によって、あえなく中断させられた。
前にしか注意を払っていなかった――払えなかった彼は、受け身なども取れずに横に転がり瓦礫に激突した。
それで緊張の糸が切れ――るようなこともなく、彼はすぐさま立ち上がり、立ち向かうべき強敵に剣を向ける。
そこで気付く。
己の剣が既に折れていることに。
先程の瓦礫との激突によるものだろうか。否、彼が気付いていなかっただけで、彼の剣はとっくの昔に武器としての機能を消失していた。
「うっ、ぐぁああああ!!!」
折れた剣でも構わず突撃しようとした彼は、それより先に繰り出された蹴りによって、更に瓦礫の奥へと埋もれた。
敵にしても、先程から何度も何度も性懲りもなく突っかかってくるうるさい羽虫にうんざりしていたのだ。
そこで、他の人族のように潰れたり骨折したりすることもなく生きたままで埋もれたのは、彼の持つ強運のなせる業か、それとも。
ギリギリのところで意識を保ちつつ、彼はここかれ状況を覆す策を考えるのだった。
……もはや手遅れと言えるほどの状況と化しているとも知らずに。
残酷なことだが、彼の必死の奮戦も虚しく犠牲者は増え続けている。
彼が何度も吹き飛ばされ、立ち上がり立ち向かいながら少しずつ移動している間に、その場にいた「人」は、兵士、騎士、平民、貴族、老人、若者、男、女、敵、味方に関わらず全員殺されていた。
ある者は踏み潰され、ある者は逸れた剣に斬り殺され、ある者は蹴り飛ばされ、ある者は瓦礫に押し潰され、ある者は飛んで来た彼の巻き添えにされた。
しかし、動けていることが不思議なほどの重傷かつ極度の興奮状態にあった彼はそのことに全く気付いていなかった。
彼の意識は己と敵――敵にしか意識を向けていなかった彼は見えているはずなのに認識せず、聞こえているはずなのに認識せず、感じているはずなのに認識しなかった。
……彼自身も知らないあるスキルの影響であった。
◇◇◇
「ブグォーー!!」
大剣を振り下ろし、周囲の兵士をあらかた動けなくすると、〝猪頭〟は近くに倒れている順に次々に口に放り込んでいく。
この程度の兵士達からはもはや大したスキルは得られないであろうが、折角戦った相手なのだ。食ってやらねば失礼というものだろう。
喰われようとしている兵士からすればいらん気遣いというものだが、文化の違いからかその可能性を考えることもなく、次から次へと喰っては吐き出し、喰っては吐き出す。
最後の一人を吐き出し、案の定なんのスキルも得られなかったことを少し残念に思いつつ、いよいよ本命に移る。
さっきから何度払っても執拗に襲ってきた一番生きの良い奴だ。
普通ならとっくに死んでいてもおかしくないが、何故か生きている。
なにか特別なスキルを持っているのかもしれない。
それなりの期待を持って、さっき埋めた辺りを掘り返そうとそちらへ足を向ける。
そこで一つ困ったことになった。
どこに埋めたのか忘れたのだ。
それなりに思う存分暴れまくった結果、周囲は原形を全くとどめていなかった。
辺り一面全て瓦礫の山で、お目当ての獲物以外にも何人もをその瓦礫に埋めてしまった。
どこに埋めたのか、完全に分からなくなってしまったのだ。
少し困るが、まぁ全部掘り返して全部喰えば良いだけの話だ。
特に考えることもなく、一先ず手前にあった山に腕を突っ込み、中に埋まっていた人間を引っ張りd
「おりゃあああ!!! 覚悟!!!!」
――背後からの奇襲を首に喰らい、顔面から倒れ込んだ。
この都市に来て以来、初めて明確に攻撃を喰らった瞬間であった。
瓦礫の山を掘り返そうと前傾姿勢になっていたこともあるが、口内を酸で焼かれた時も、脇腹を斬られた時も見せなかった完全なる失態であった。
「うぉおおおお!!!」
その隙を見逃さず、襲撃者はその首に追撃を叩き込む。
この世には首を落としても動き続けるバケモノもいるが、オークはその類ではない。
少なくとも、彼の知るオークはそこまでの理外の存在ではなかった。
そして、それは間違いではなかった。
奇襲を受けて不覚にも地面に突っ伏した〝猪頭〟は、起き上がる間もなく追撃を喰らい続けて首が落ちかけていた。
もはや指一本動かせそうにない。
しかし、今更無様に足掻く気はなかった。
そんな見苦しいことはしない。
負けた者が死に、勝った者が生き残る。
その摂理に沿って、今度は自分が死ぬ時がきただけだ。
あれだけ粘った極上の獲物を堪能出来なかったことだけが心残りではあるが、それもまた一興。
地面に顔面を押し付けられながら、最後に口角を上げて笑みを浮かべ満足げに意識を手放――そうとしたが、耳に届いたある音を聞いて、やめた。
「ブッ、ブグゥオオオ!!!」
どこに残っていたのか、自分でも不思議に思うような力を振り絞り、首に深く食い込む剣も痛みも無視して起き上がる。
降り落とされた襲撃者を見もせずに掴むと、口に放り込む。
完全なる無意識の行動だった。身体に沁みついた、種族としての本質的な行動。
既に思考は先程聞こえた音の主に支配されている。
遂数十秒前まで死を覚悟していたとは思えないほどの変化だった。
その眼には、今まさに立ち上がろうとする一つの人影しか映っていない。
それは、少し前のその人影と同じような状態であった。
両者は互いに、視線を交わす。
一方は満面の笑みで喜びを表し、もう一方は鬼のような形相で憎悪の念を隠そうともしていない。
間に横たわる死屍累々は視界には納めず、互いに少しずつ距離を詰める。
そして――
「うぉあおあおおおおああああ!!!!!!」
「ブグォオオオオオオオオオオ!!!!!!」
――両者はほぼ同時に突撃した。
◇◇◇
「――がっ、っ」
何度目か分からない激突の後いつも通り背後に突き飛ばされ、地面に背中を打ち付けた衝撃で、彼――ルーカスはふと我に返った。
その瞬間、全身に激痛が走る。
今まで極度の興奮状態下で脳内麻薬によって抑えられていたありとあらゆるものが一斉に噴出した感じだった。
あまりの痛さにせっかく取り戻した正気が、ものの数秒も待たずに失われそうになる。
否、そんなことすら出来ないほどの激しい痛みだ。
このまま自分は死ぬのか、頭によぎったのはそれだけだった。
『スキルレベルアップ条件を達成しました。スキル〈痛覚耐性〉LV2→LV3にレベルアップしました』
脳内に〈痛覚耐性〉のスキルレベルアップを告げる声が流れてくる。
記憶にある限り随分と久しぶりにこの音声を聞いた気がする。
自分は未だ強くなれたのかと、小さな笑みを浮かべる。
スキルのおかげか、痛みは和らいだ。
そうすると、身体の自由も徐々に戻ってくる。
そして、ようやく周囲を見渡す余裕が出来た。
目に映るのは一面の地獄絵図。
死体と、死体だったものと、今から死体になる者、それしかなかった。
彼が来たと思われる都市中央からここまで、一本の道が出来ていた。
言い表すのなら「血の道」。
徹底的に破壊され尽くした街並みに、ただただ人の死体が並んでいる。
彼が今まで直面したことのない、絶望的な状況だった。
都市中央で見た地獄絵図は、未だ兵士や騎士達だけだったから耐えられた。
しかし、今彼の視界に入っている犠牲者の中には、どう見ても兵士ではない一般人が数多く含まれている。
守るべき民を守れなかったこと、そして自分が通ってきた道に広がる惨状から導き出される我を忘れていた間にしでかした取り返しのつかない所業。
二つの悔やんでも悔やみきれず、決して償いきれない罪悪感と後悔が彼の戦意を著しく削ごうとしてくる。
それでも彼は立ち上がる。
そこに一人でも助けを求める民がいるのなら、未だ救える生命があるのなら、彼は戦わねばならない。
それが、彼らに課された使命であり、彼らの誇りだから。
それに――
「……いけすかない金髪野郎にだけ、良いカッコさせるわけにもいかないからな」
――目の前には未だ戦っている仲間がいるのだから。
戦っていたのは、バルトレイ達だった。
都市が襲撃を受ける前後で姿を消していた彼らだったが、こんなところで戦っていたらしい。
次席参謀一派の他に、彼の部下の騎士も数人いるようだった。
背後に市民をかばった状態で剣を構えている彼らもまた、かなりの重傷だった。
バルトレイらは治癒魔法が使えるはずだから、魔力が尽きるほどの戦闘があった、ということだろう。
とりあえず自分の傷を癒す術はなさそうだと判断し、痛む身体を奮い立たせて無理矢理動かす。
恐らくこの後動けなくなるだろうが、ここで手をこまねいていては修道騎士の名折れ。
幸い、傷つき疲れ果てようとも戦わんとする意志は少しも揺らいでいそうにない。
相対している例の〝猪頭〟も、彼からバルトレイへと意識を移しているようで、こちらに振り向く気配はない。
全く理解出来ない亜人の行動に思わず笑いがこみ上げてくるが、それをすぐに押さえ込むと、手の中のもはや剣とは呼べないナニカを握り直す。
こんなでも折れない意志の力を込めれば必ずや敵を討払う「刃」と化すはずだ。
神に祈りを捧げると、〈斬撃付与〉〈斬撃強化〉〈斬撃耐性〉〈打撃耐性〉〈衝撃耐性〉をかけ、もう一度神に祈りを捧げる。
「……この矮小なる僕に御身の御加護を賜りたく」
祈りが済むと、彼は全力で駆け出した。
武器を失い、満身創痍で、状況判断もまともに出来なくなっている自分と違って、次席参謀は冷静に判断してくれるはずだ。
ならばもはや後のことなど気にするだけ無駄だ。
己の全身全霊をかけて敵を滅する。その強い想いが、必ずやかの魔を打ち砕く、そう信じて。
彼は駆ける。全てを振り絞って。
――届かぬとも知らず。




