第七節 メザメ
あれほど視界を覆っていた濃霧が晴れていく。
その濃霧が晴れるとどこか少しずつ頭が整理されていくような錯覚に陥る。
1
「何を言っているんだ? ボクはスティーブだ……」
「そうなのかい? でも、それだとしたら不可解な点が多いね。君自身もここまで来るのに不思議に思ったことはある筈だ。テープが大きいと感じたり、母国語の手紙が読めない、君の奥さんはわざわざしゃがんで額にキスをするかい? しゃがむ必要がある程スティーブは小さかったかな」
――……テープが通常使用されるものよりも大きいらしい。どうしてもボクの手は小さく見える。
――……涙を拭いながら化粧崩れした女は冷静さを取り戻そうとしながら言う。
緩慢にしゃがんでボクの額にキスを落とそうとしたが、そこが再現の限界だったのだろう。それは煙のように消え去った。
――……いいえ、忘れるのはケイリーじゃない。スティーブ、あなたのお父さんのことよ。
――……ママの目をしっかり見てお話をして
今までの事が一気に思い出される。言い返す言葉が見つからず、ボクは黙ったまま夢魔を睨み付けた。
「君は自分の父親の自殺現場を見た。夢の中で何度も聞こえる炸裂音は銃声だ。それを肯定するかのように君は死因をすぐに言い当てた。交通事故と思わなかったんだね」
「あの血の飛び方は、銃以外ない。事故なら、車体に傷はなかった。それに、ボクは目が合ったんだ」
すると夢魔は「そう、そこなのだよ」と頷いた。
「スティーブの拳銃自殺の瞬間、なぜスティーブである君と目が合うんだい? まるで夢の中にいるようじゃないか」
「ボクが見たんだ。それなら車内にいるべきは、ボク以外の……息子じゃないといけない」
「息子じゃないといけない? 奥方も、第三者の可能性すらあるのに、やたら確信を持って言うのだね」
「ボクが死んだと言いたげだが、もしかしたら鏡があったのかもしれない」
「鏡?」
「鏡で反射したんだ。美容院で自分の後ろ姿を確認するようにして……。それで、ボクが死んだと誤認した。出ないと、証明出来ない」
「それはまた興味深い話だ。鏡あわせで誤認したと? この家にそこまで大きな鏡はあるかい?」
夢魔はそう言ってもう一度煙草を咥えた。ボクは黙って家の中にある立ち見鏡を指さした。
「実験するのもいいだろうさ。何事も証明が大事だ」
夢魔は煙草の煙を吐いてのんびりと言う。ボクは言われるがまま、鏡へ向かう。その間にも、お喋りが好きな夢魔は話を続ける。
「親しい者の死をすぐに受け入れるのは困難だ。それが特に家族というならばね。……自殺現場を見たならば尚更ショックだったろう。とくに拳銃自殺とまで言い切ってしまった君は。『スティーブは死んでない』という願望、希望が少なからずあった訳だ。電撃的に精神を擦り減らし残念な事に君は気絶でもしたのだろう。それはショックへの逃避だ。そうしてこの夢の世界に迷い込んだ。この複雑怪奇で忌まわしい現実を、出来る限り整理しなければいけない。どこがどう繋がったか。少なからずドリームキャッチャーを信じ吊す君は、夢魔の存在を知っていた。だから、過去と心理の精算のため私たちを呼んだ」
話を聞きながらボクは鼻で笑う。
「過去と心理の精算? バカバカしい。そんな話があるか」
すると、夢魔は穏やかな表情で首を横に振る。
「現に私が居るんだ」
「どうして、わざわざそんなことを?」
「人間は不都合なことがあれば、無理矢理でも己を納得させたがる。合理性ばかりを求め、分離が出来なくなる。「父親は死んではいない」そう納得させるために、自分の心を偽るために突拍子も無いことを考える。例えば「自分が父親である」と。しかし、いなくなった者を演じては辻褄が合わない。ケイリーが『いなくなったスティーブ』を演じれば、今度は『ケイリー』という存在がいなくなる。しかも、脳はこの事柄を出来るだけ整理しようと必死だ。それが夢の中で複雑に混ざり合い、銃声を聞き、君は『ケイリー』を探す羽目になった。……どこかで聞いた話じゃないか」
彼の言葉にボクは足を止めた。
夢魔の言葉はまるでナイフのようにボクの胸に刺さる。何も反論出来ず、かといってそれを受け止めるのは出来そうになく、つい俯く。
ふと、視界に見えたのは薄汚れたシューズだ。おかしいとボクは思う。
ボクは普段安物の革靴を履いていて、それどころかシューズなんて持っていない。視界を少し横にずらし己の手を見る。成人男性にしては小さい指にはキャラクターものの絆創膏が巻かれている。
あの時は濃霧が酷くて視界は悪かったけれど、たしかそうだった気がする。
「おかしい、ハサミを持った時手に絆創膏は貼られていなかった」
「それはそうだ。その時、君はスティーブに成りきっていた。脳がスティーブであるよう認識するため、錯覚を起こしている。ようするに幻覚だ」
「都合の良い幻覚だ」
「それを人間は《夢》と呼ぶのだよ」
ボクは答えられず、己の手をじっと見つめている。夢魔は黙って事の成り行きを見ているようだった。興味津々と言った視線が背中に痛い。
ボクは恐る恐る顔を上げた。
全身鏡には、一人の少年が映っていた。
泣き過ぎたのか目は腫れぼったく、顔は真っ赤に染め上がっており、両手は小さな拳が作られている。
それは、この数時間の間、ボクが懸命に探していたケイリーそのものだった。
2
「ボクは……」
言葉が喉でつかえる。
「ボクはどうして……」
再度、あの夢魔に言おうとしたが、零れ落ちたのは無様な嗚咽だけだった。
どうして忘れていたのだろう、どうしてこんな愚かな事をしていたのだろう。どうしようもない気持ちが胸を裂きそうだった。
父と母は口論をしていた。
驚いてリビングに行けば、泣いていた母は「何でもない」と、言って無理やり笑って見せた。その喧嘩の原因が借金である事は知っていた。引き出しに隠されていた借用書も、最初は理解出来なかったが、書かれている数値と簡単な単語からは容易に想像はついた。
あの時、普段休日は家にいる父がボクに隠れるように家を出て行ったのでどこかに出かけるのだろうと思った。おそらく、一人で楽しい所に行くのだろうと考えたボクは、何も考えず父の後を追うようにこっそり家を出た。
そして、夢が始まったあの場所で、ちょうどそこから車内が見える立ち位置で、拳銃を自分のこめかみにあてた父と目が合い。
そして、銃声を聞いた。
絶望に色を染め、それでも力なく微笑んでいた父の顔はガラスにこびりついた赤でかき消された。
明け方に響いた銃声に近所の人も母も来て、その光景に絶句したのだろう。母は突っ立っているボクを抱きしめ、しきりに「大丈夫よ」と、言っていた。
ボクは泣いていたのだろうか。それとも、茫然自失のまま立ち尽くしていたのだろうか。母の体温を感じながら目を瞑ったのだ。
「まるで悪夢だ」
母に抱かれたまま目を瞑っていると、遠くの方で誰かがそう言ったのが耳に入った。 どうしてそう言ったのか分からない。
「どうしようもなかったのだろう」
「何か方法はなかったのだろうか」
遠くの方で声がするけれど、それもやはりボンヤリとしか聞こえない。
しばらくすると急に冷静になっていく自分がいた。
先程までの緊張がウソのようだ。母に抱かれていたはずだったのに、気がつけばボクだけが一人家の前に立っている。あたりは霧が立ち込め人の気配はない。
「現実を見るのは怖いかい?」
正面に立つのは知らぬ男がいる。青のグラデーションのかかった髪を持つ男。立っているだけでも印象に残る特徴的な姿。彼はニヤニヤと笑みを浮かべて言葉を待っている。
「だったら夢魔であるボクが隠してあげようじゃないか。真実を見るのは辛いだろう?」
青い髪の男はそう言うが、ボクは……、それは無理だと思った。それはただの薄っぺらい言葉で、どうせ嘘はバレてしまう。
そんなことを思っていると、青い髪をした男の背後にまた違う男が立っていることに気がついた。黒い傘を持った長身の男だ。彼は、ただ不機嫌そうに立っている。
ウソはだめだ。けれど、この現実を受け入れるにはとてもつらい。
目の前には夢に出てくる悪魔がいる。その二人が助けてくれると言っているならば。
「頼みが……あるんです」
渇いた喉は、それでも発声することを許した。
ボクの父さんは死んでいない。
死んでいない。
だって、そうあってほしかったのだから。
3
「罪悪感を持ったのに、どうして《彼女》は来ないんだ?」
ひとしきり泣いた後、ボクは涙を乱暴に拭いながら黒髪の夢魔に尋ねた。ボクのいう《彼女》とは甲冑を纏い槍を持つ勇ましい女だ。
「『罪が償われたのならば、この夢に再訪出来る』と、彼女は言っていただろう? 」
「ああ。たしかにそう言っていた」
「それならば、彼女はもうこの夢に君臨しない」
夢魔は相変わらず、煙草を吸いながら穏やかに言う。
「君の両親は……。おそらくスティーブは、保険金詐欺を考えたんだ。しかし残念だ。自殺では保険金が支払われない。それはそれで司法が考えるだろうがね」
夢魔はそう言って、何本目かの煙草を灰皿に押し潰した。
「酷い夢だ」
ボクは自嘲する。
「酷いも何も君がそう強く望んだんだ。君は勇敢にも夢魔の来訪を許し、なおかつ注文を付けてきた。事件を受け入れられないと、だからしばらく逃避をさせてから真相を知る手伝いをしてくれとね」
「ボクが望んだ?」
ボクは驚いて、夢魔を見た。
「あぁ、そうだよ。《彼女》は例外だったが、君は真実を告げる夢魔と真実を偽る夢魔、二柱の悪魔を自身の夢へ招いた。濃霧が君の進行を、……思考を妨げただろう? 今はいないけれど、もう片方の夢魔の仕業なんだ。……でなければ、こんな面倒な夢を築き上げる手伝いなんてしなかったさ。不可解な物を適当に置いて強制的に夢だと知らせるという手抜きも君は許してくれなかった」
夢魔の体は、既に透けている。
「君も消えるのか?」
「ああ。もう真実を突き止めた。だから、ここに残る意味は無い」
「そうか。……そういえば、君の名前を聞いてみたかった。もう会わないだろうけれど、何かあった時、君を呼ぶ名前が必要だ」
「いいや。もうそれは無いだろう。私は君に興味を無くしたのだから」
それ以上、夢魔の言葉を聞く事は叶わなかった。
彼が消えるよりも先に、ボクが目を覚ましてしまったからだ。
4
目を覚ますと、お母さんが「あんな悪夢はすぐに忘れなさい」とボクを抱きしめている。
現実でボクはソファーから落ちて、心配そうな顔をしたお母さんと話をし始めてから時間はそんなに経っていないと思う。
ボクは泣きじゃくったままお母さんを抱きしめ返す。
忘れなさいと言われた、そうだ。これは悪い夢だった。
お父さんは拳銃自殺をした、それは悲しい事件だ。
この事件でお金――……保険金が貰えるとは思えない。お父さんは自殺もして人を騙した。人に迷惑をかけ悲しませる最低な行為だ。だけれど、これでボクが何か1つでも話をしてしまったら、お父さんがその身を犠牲にした意味がなくなってしまう。
「すぐに忘れなさい」
ボクの頭を撫でながらお母さんはもう一度言う。
その声色からお母さんもまたお父さんがどうして自殺しているのかわかっているのだろう。だからこそ、ボクは静かに目を閉じてそれに応えた。
「そうだね」