第四節 ハガネ
「彼をすぐ安全な場所へ」
警官の声に女は頷く。
グッタリとした彼はショックのあまり気絶してしまった。彼女は彼を抱き上げ、そして安全で安心出来る場所へと向かって行った。
1
少しの浮遊感は、緊張の連続で精神が疲労したから起きた。
その浮遊感が強い目眩であり、それが原因で数秒倒れていたことを除けば、ボクはまだこの夢の中にいる。
立ち止まってなどいられなかった。この不可解な世界の中で息子がいない。早く解決しなければと心が急いている。
ボクの前にいるのはあの夢魔だ。ボクは、全力で走って彼のあとを追う。だというのに、なぜこんなにも距離が縮まらないのだろう。
「待ってくれ!」
声を張り上げても、返事はない。おそらく、あの夢魔は自分が呼ばれたことに気がついていないのだろう、
誰もいない空間で、ボクが呼ぶのは彼しかいない。夢魔、悪魔らしくわざと無視しているのだろうか。
「そこの夢魔!」
耐えきれずボクがそう叫ぶと、彼はようやく足を止めた。気怠げに振り返り、黒い傘を杖のように一度地面を突く。
「確かに私は夢魔だけれど、そんな呼び方は品が無い。君達を『人間』と呼んでいるようなものだ。もし、誰かが勘違いをして此所に来たらどうする?」
「ここには、君とボクしかいない」
彼が足を止めたので、ボクも追うことをやめる。懸命に走ったので、息が切れて苦しい。
「そうかな」
夢魔は、ボクの足下から頭のてっぺんまでを見て言った。
「ボクが今見ているこの夢は、一体何だ?」
「君が苦痛を感じているならば、悪夢だ。夢以下でも、以上でもない」
「そうじゃない。ボクは一度目が覚めた。そうしたらまるで夢の続きのような出来事が起きている」
夢魔は「と、言うと?」と尋ね、雨も降っていないのに傘を差した。
骨がいくつもある傘だ。内側は赤、外側は黒の二色使用の傘は、彼を益々怪しく魅せる。そんな奇妙な傘が「番傘」と名を持つのを、この夢の数年後に知ることとなる。
「ケイリーがいない」
「存在するさ」
彼の即答にボクは少し苛立つ。
辺りを見ても、彼が指を差した方に振り返っても、ケイリーの姿は見えない。
もしかしたらもっと遠くの場所に居るのかもしれない。しかし、それだとしたらあの子はきっと声を出してくれるだろう。
「いない」
「それならそうかもしれない。ここは、君の夢。君が望めば、彼は存在する。しかし、見えないという事は……」
「ボクが望んでいない?」
夢魔は傘をクルクルと回していたが、一言も話そうとはしない。しかし、その沈黙がボクの問いに肯定と答えている。
「夢の主であるボクが、今『ケイリーはいる』と思えば、ケイリーは現れるのか? こんなに望んでいるのに、どうして出てこない? 君は何か知っているんじゃないか?」
「君との深い接触は避けたい。気持ちに偏りが出てしまうのは失礼だろう?」
「誰の失礼に値するんだ? ここはボクしかいないんだろう?」
彼は傘を回すのをやめ、そしてボクをじっと見つめた。紅い瞳は射貫くようにギラギラと輝いている。
「ケイリー」
夢魔の言葉を一瞬、理解出来なかった。
「どうしてケイリーが失礼だと思うんだ?」
ボクの問いに夢魔は、何も答えない。
突然、遠方でボクの耳をつんざくようなとても嫌な音が聞こえた。その音は最初、この夢の中に入ってすぐに聞いた爆音に近い。
「君の家の方向から聞こえたね」
ボクは口を横に結び、夢魔を睨む。彼は本当に夢魔だ。無意味にボクを恐怖に陥れ、混乱させる。
「これはボクの夢だ。音くらいで、もう驚かない」
「私は音に驚く君を見たいわけではない。君が事実を知りたいなら、急ぐといい。早くしないと片付けられてしまうから」
「誰に?」
すると、夢魔は再び口元を歪めた。
「死体を片付けるのは誰か、君は知らないのかい?」
2
それ以上、ボクは夢魔の話を聞いていられなかった。
やはり死人が出ている。
しかも、ボクの家の前でだ! 夢魔に踊らされているのは酷く不快であったが、走らずにはいられない。
来た道を走り抜け、家の前へ向かう。
ハサミで切った筈のテープが全て綺麗に戻っている。そのテープの向こうには、車が一台見えた。
「交通事故?」
テープの間を潜り抜け、車を見る。自爆なのか、車の前後にガラス片は散っていない。それどころか、この車は無傷だ。
「なんだ?」
そして、ボクは車の中を見た。
赤。
一面の赤。
視界に入ったのは、車のガラスを内部から濡らす赤だった。
中に散らばるのは、液体だけではない。肉片、人の体のような何かも運転席に存在している。人に見える《何か》は、赤に汚れた窓ガラスにもたれ掛かるようにして一向に動かない。この光景から「生きている」と思う人間は、果たして居るのだろうか。
吐き気が込み上げ、一度車から離れる。そのまま、崩れ落ちるように、地面に膝をつく。
嘔吐の衝動と、嘔吐への恐怖に挟まれながら何度も呼吸を繰り返す。幾度となく咳を繰り返し、空気を吸って落ち着こうとし、過呼吸になりかける。
「ケイリー?」
弱々しい声でボクは車中の人物に声をかける。
そうであってほしくない。だが、既に社内に居る人間が生きていない事をボクが一番よく知っている。
車内からは、何も聞こえない。
ここはボクの夢の中だ。
ボクの他には、あの夢魔しかいない。鳥も、虫さえ存在しない。
パニックに陥ったボクの荒い呼吸だけが、この空間内に響き渡っていた。
3
暫くの間、ボクはその場に座り込んだまま指一本動かせなかった。
それ程まで、ショックだった。
どうして、彼が死ななければならないのか。どうして、ボクではないのか。何度自分に問いかけただろう。けれど、その思考は、ガチャリという耳障りな音により掻き消された。
振り返れば、旗を持つプレートアーマーで全身を覆った人間が立っていた。装備が完璧過ぎるため、表情も分からなければ年齢も、性別すらも判断出来ない。
ボクは驚いて立ち上がり、恐る恐る後退する。が、ふと鎧人間の手に視線がいった。
旗の他に何か紙を持っている。それは二つの紙。
「その紙……」
夢魔に読んで貰う予定だった二種類の紙のように見える。
慌てて自分のポケットを確認し、始めて中身が無いことに気がつく。このポケットは浅い。必死に走っている間に、落としてしまったのだろう。
「返してくれないか? 大事な手紙なんだ」
返答はない。
鎧で隠れて表情も見えない。
「返してくれ。ケイリーの……息子の手紙かもしれないんだ」
ボクは車内にいるだろうケイリーを想いながら言葉にする。
あの手紙が読めなかったのは、ケイリーの字が汚いからだ。ボクが悪いからではない。もしかしたら彼が賢明に書いた遺書かもしれない。
車で、脳ミソが飛び散る程の自殺なんて幼いケイリーには困難だ。けれど、現実は小説より奇なりとはよくいったもので、もしかしたらの可能性がある。
もしかしたら、成功してしまう。だから、そうだ。あの読めない手紙は、彼なりの遺書だ。そうに違いない。
ケイリーが感情的になって書いたから字が読めないほど乱雑だったんだ。それか、ボクが彼に関心がないから読めないだけであって――…………。
そこまで考え、ボクは冷や汗を覚える。
自分の息子に関心が無い?
その現実に思考が止まる。酷い罪悪感に眩暈がした。
ケイリーについて、ボクは何も知らない。死んだ理由も、原因も。手紙を置いておく理由さえも。
罪悪感に苛まれながら、ボクは血液に染まった車内を見る。もし、彼が生きていたのならば、もしこれが冗談だとしたらなんて面白おかしい話なのだろう。だが、どうしてここまで――……。
「罪は、赦されるべきでしょう」
一言も話さないと思っていた鎧人間が口をきいたため、ボクは驚き振り返った。。
鎧人間は、旗を巻いた槍を立てている。
不可解な文様が書かれた旗生地はそれなりの厚さがあるのに、無風の中バタバタと忙しなくはためいている。鎧のせいで声が反響されているのだろう、男女とも聞き取り難い声音だ。
「何の罪だ?」
尋ねる前に、鈍い色を持つ槍は容赦なくボクの脇腹を突いた。
「この痛みで、この狂う程の熱さで。貴方の心を、貴方の内に秘められた悪を浄化します。貴方が再びこの舞台に戻れたのならば、罪は赦されているでしょう。許されなくとも、次の眠りは貴方を永遠に癒やすでしょう」
アーマーの中で、ボソボソと声がする。
距離が近いから聞き取れたのだ。その声は、明らかに女のものだった。しかし、知れたのはそれまでだ。
想像を絶する激痛に、あまりの衝撃に、ボクは悲鳴をあげたまま意識を飛ばした。