第三節 ハサミ
1
再び目を開けると、そこは彼……息子の部屋だった。
物は錯乱したまま。あの夢の中でボクが探索した形を保たれている。
ボクは、二回深呼吸をする。
現実だと思った場所でも不思議な事が起きていた。そこで目を閉じてこちらに来てみたら不可解な事はまだ続いている。
夢を現実だと誤認し、遅刻する。なんてことは度々あった。今の状況がその延長上だと考える。だが、それ以上考えるのはやめた。今は、そんな悠長なことを考える暇はない。
正直、息子を探すという大きな目的がなければ気が狂ってしまうところだった。
机の上を見ると、『死んだ』と赤いクレヨンで描かれた画用紙が置かれている。それを拾い上げて、二枚の紙が重なっていた事に初めて気が付いた。
「いや、でも……。あの時は一枚だった気がする……」
あの時どうであったか思い出そうとして止める。どうせ今も混乱しているのだ。こんな記憶は当てにならない。
『死んでいない』
その文字は一枚目とは違い、お手本のように綺麗に書かれていた。
一枚目の紙は見易さなどおかまいなしに画用紙いっぱいに書かれていた。
今回見た二枚目の紙には、文字は右上の隅にどこか自信が無さそうに書かれており、一枚目と違い余白は多い。
まるで違う人間が書いたように……。
そこまで考えてゾッとした。そして、すぐに《自称夢魔》を思い出す。
一度、彼に聞いてみなければならない。この世界は現実なのか、今起きている事をは一体何なのか。
「彼は、今どこに……?」
咄嗟に窓の外を見る。
黒い傘を持った夢魔は、こちらに見向きもせず歩き出している。そこから察するに夢魔はずっと窓が開かれるのを待っていたのだろう。それか、ボクがこの部屋に入ってから時間が経過していないかのどちらかだ。
「おい!」
窓を開け、声をかけても夢魔は反応をしない。
先程よりも大きな声で「おい」と繰り返したが、彼は振り向きもせず先へと進み、角を曲がって行った。
――……相応に私の名前も教えてあげようか?
――……結構。夢魔に助けを求める事はない
そう答えた自分が憎い。
ボクは慌てて彼の部屋を飛び出し、外に向かおうとした。が、階段を駆け下りる最中に女の啜り泣きが聞こえ、つい足を止めた。
声はリビングから聞こえてくる。
出来るだけ足音を立てない様にしながら声が聞こえる方へ進む。そこには、両手で顔を覆い泣いている女がいた。
「あの……」
ボクが声をかけるよりも前に、その女は幽霊のように音も無く消失した。
恐ろしい現象にボクは悲鳴をあげたが、心の片隅では異常なまでに冷静だった。
「多分、こっちが夢だ」
悲鳴を上げなが、らそんな確信を持った。
確信を持ったにもかかわらず、ボクは恐る恐るその女がいた場所に向かう。幽霊か、幻覚か。だとしても、情報を得たいという気持ちは変わらない。
女が座っていた椅子には、小さな紙切れが一枚落ちていた。
それを拾い上げ読んでみる。しかし、見知らぬ単語ばかりが並んでいる。どこか読める箇所はないか、文字の羅列に集中したが、それでも読む事は出来なかった。
夢魔なら読んでくれるだろうか。この世界には、自分と夢魔以外存在しないはずだ。淡く期待し、それを丁寧に畳んでポケットに突っ込む。
玄関を開けると、道路と庭を隔てるガーデンフェンスが開いていた。
誰かが通ったのか? もしかしたら、息子なのかもしれない。
偶然、ボクと息子は入れ違う形になってしまった。そして、好奇心旺盛な息子は夢魔を見つけて後を追った……。ボクがこっそり出掛けようとする度、物に隠れながらついてくる彼だ。そうだ、彼ならそうする。
最初はそう思った。が、ガーデンフェンスの扉には『立ち入り禁止』と書かれたポリスラインが幾重にも張り巡らされていた。
扉こそ開いているが、これでは通れない。
このテープは先程、おそらく現実で見た光景が反映されているのだろう。
数枚あるテープを一気に握りちぎって先に進もうとする。しかし。テープは思った以上に硬く破けない。仕方なく一枚ずつ切ろうとするが、それもなかなか難しい。
柵の隙間から手を伸ばし、板に貼られた箇所を剥がそうとするが、テープはしっかりと固定されており爪を立てても破けない。
テープを切ろうとした手はジンジンと痛み、赤くなっている。
目の間に幾重にも貼られているテープは、普段使用される物より大きいらしい。ボクの手は、小さく頼りなく見えた。
2
「ハサミが必要か」
夢特有のご都合主義のせいで、いくら奮闘してもテープはびくともしない。おかげで、手は赤くなりジンジンと痛みを放つ。
「これでは、二度手間だ」
と、呟き落胆する。早く探さなければいけないのに、どうも手間がかかる。
再度、玄関を開けたところで、今度は怒鳴り声がリビングの方から上がった。
それは男女の声だ。
夢は現実を整理する。あの夢魔もそう言っていた。だから、これはきっと何か口論した時の再現だ。ゆえに、怒鳴り散らした記憶こそ無いが、この男の怒鳴り声はボクだろう。
何かを怒鳴っているようだが、内容までは聞こえない。ついには女の声が震えだし、次第に声は弱々しい啜り泣きに変わった。
気まずい雰囲気の中、怒鳴り合いは有耶無耶に終わったようだった。
ハサミは、声が聞こえるリビングにある。
声の主たちに気がつかれぬよう、静かにリビングに向かう。泣き声の主だろう女がこちらに背を向けて立っていた。
先程、椅子に座り、泣いていた背中と同一だ。しかし、今回と前回とで違ったのは、その女は振り返り、ボクをしっかりと認識し近寄ってきたことだ。
『驚かせちゃったかしら? 気にしないでね』
涙を拭う化粧崩れした女は、そう取り繕いぎこちなく微笑んでみせる。
泣いていることを隠そうとしたいのか、女はゆっくりとしゃがみボクの額にキスを落とそうとした。しかし、女は煙のように消え去る。
理解しかねる女の動作は、ただただボクに不快感と恐怖を与えてくれた。行動の意味が理解できない上、行方不明の息子の手がかりにもならない。消失した恐怖もあるが、それこそ夢のご都合主義だ。
「分からない。なんなんだ、これは……」
ボクは舌打ちをし、ハサミが入っているであろう小さな棚へ近寄った。
3
引き出しには、目当てのハサミの他に封筒が入っていた。
興味本位でその封筒の中身を見る。が、手紙の内容は椅子の上にあった紙切れと同様に読めない。数字が並んでいることを確認し、紙切れを拾ったときと同様にポケットに突っ込んだ。
ハサミを回収しつつ、周囲を警戒する。口論する男も女もいない。
ボクは、今度こそ家を出た。
忌々しいテープをハサミで一つ一つ確実に切りながら、ボクは道の先を見る。
ふと、霧の中で何かが動いた気がした。
それは確かに人の形をし、こちらに近寄ってくる。
「あのっ……」
この世界には、黒い傘を持つ夢魔とボクしかいないのは知っている。
ようやくあの夢魔は、ボクを助けてくれる気になったのだろう。
そう思い、人影に声をかけようとした。が、霧の中から見える姿に恐怖し、ボクは慌てて柵に身を隠した。
ボクに近寄るあれは、確かに人だ。しかし、それが近寄る度にガチャガチャと不可解な音を鳴らす。聞き慣れない音に困惑する。
正体不明の存在は、必要もなくボクの恐怖を煽る。一刻も早く通り過ぎてくれるよう祈りながら恐る恐る柵の隙間から覗く。
音がさらに近くなり、陰だったその姿はしっかりと見える。
「鎧?」
ウソだろ。という言葉は、相手に聞かれるのが恐ろしく、飲みこんだ。
柵の合間から見えた姿。それは中世の騎士だった。光沢を消された銀色のプレートアーマーは、まるで映画から抜け出してきたようだ。
その騎士が持つのは、剣ではなく旗のように思える。しかし、その旗はまだ掲げられていない。泥や埃で汚れた白い布は、まだ大人しく槍に巻かれてある。
騎士は歩くたびに騒音を出しながら、ボクの視界外へと消えていく。おそらく角を曲がったのだろう。
なんて夢を見ているのだろう。
ボクは柵に寄りかかり、両手で顔を覆う。
早く目を覚ましたい。そうして、こんな恐ろしい夢から出ていきたい。
もし、これが夢で、これが脳の整理だというのならば、ボクは現実で一体何を見たのだろう。
ボクは、悪魔を信仰しているのか?
ボクは、騎士に憧れているのか?
ボクは、息子に居なくなって欲しいと願っているのか?
分からないことだらけだ。
ボクは息を吐く。
「これはボクの夢だ。ボクに都合の良い方向に進むんだ」
そう言い聞かせ、夢魔が居るだろう場所へ走り出した。