第二節 オンナ
頬の痛みでボクは目を開ける。
あの悪夢から抜け出せたのだろうか。目を開ける前からなんだか周囲が騒がしかった。
「酷い話ね」
「一体、何をして……しら」
複数人が何か話をしているようだ。しかし、その人たち小声で話す上、距離があるので明確に聞き取れない。
目を擦り、辺りを見る。
当然の事だが、夢とは違いここは無人の世界ではない。音もあれば、人もいる。ただ、不思議な事に、あの夢が始まった時と同じ場所にボクは突っ立っていた。
ガーデンフェンスの向こう側に横にも縦にも大きな男が立っている。勿論、あの夢魔ではない。しかし、そこに立っているのは一人ではない。
複数の人間が集まり、一点を見てボソボソ言い合っている。
「どうしてこんな事に?」
ボクが歩き出そうとした時、そんな小さな声が聞こえた。
噂話にしては、どれも暗い表情をしている。誰もが声を低くし、これ以上聞かれないようにと押し殺しているようにも思える。
話をしているのは、ハンカチで口元を抑える女達だけではない。
「可哀想に」
一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。
振り返って、誰が言ったのかを確認しようとした。が、誰もボクと目を合わせてくれない。数人がボクと目があったことに驚き、慌てて違う方向を見るのがどこか滑稽だった。そして、しばらくするとすぐ小声で話し合うのだ。
ボクと目を合わせてくれないが、ほとんどの人間が同じ方向を見て囁き合っている。ボクも自然にその集団が見ている方へ顔を向けた。
2
ガーデンフェンスには、幾重にもポリスラインが貼られている。
『立ち入り禁止』
黄色いテープには、黒い文字の警告が書かれている。ボクの家を囲うように貼られたテープに強い目眩を覚える。
あまりのショックにしゃがみそうになる。それを気力で耐え、深呼吸をする。きっと強い日差しに体が疲れてしまったんだ。余計なことを考えすぎだ。そう、自分に言い聞かせる。
首を横に振って、冷静になろうと努力する。
そうしていると、テープとは別方向に目がいった。ちょうど道路側に黒い小さな板と道路に書かれた白い模様が見える。
あまりに興奮しているので、それらが何か判別がつかない。
ボクの家の前には、相変わらずポリスラインが貼られている。
あんな厭な夢を見た後にこの現実。
それらが繋がって、思う事は一つだ。
本当は息子の名前を呼びながら駆け寄りたかった。けれど、あまりの恐怖に言葉が喉でつかえた。
転びそうになりながら、問題の場所へと近寄ろうとした。が、誰かに強く手を引かれてそれは叶わなかった。
「?」
あまりの力に驚いてボクは振り返る。
手の主は、女だ。
女は泣いているばかりでそれ以上、何も言わない。涙のせいで化粧が酷く崩れていて尚驚く。
「近寄っては、駄目よ」
泣きじゃくりながら、それでも女はきつい口調でボクに忠告した。
「なぜ? ボクたちの家なんだぞ?」
ボクの言葉に女は目を見開く。
瞳に映る感情は単なる驚きだけではない。それは、明らかな動揺と恐怖だ。
「奥さん」
ボク達は声がした方へ顔を向ける。
声をかけてきたのは、横にも縦にも大きな男だ。その服装からどうやら警官なのだろう。彼は酷く深刻そうな顔をしてボクを見ている。
「彼は見てしまったんです。混乱していても仕方がありません」
「混乱? 何バカな事を言っているんだ!」
ボクは噛み付く勢いで警官に反論する。ボクの声は、二人だけではない周囲の人間の視線を奪った。
「ボクは、誰が死んだか確認したいんだ!」
興奮に視界が赤く染まる。上手に呼吸が出来なくて目に涙が溢れそうになる。
不意に、女の顔が近くなった。何かを言っているようだが、興奮状態のボクにその言葉は届かない。
そして、世界は闇に包まれた。