第7章 真実を求めて(2)
景色が流れていく。水田が広がる田舎の景色。点々と存在する一軒家。景色は枠の中で動いていて、それは車窓だ。しばらく景色は続いて、やがて現れたのは巨大な山。山頂はまだ雪が積もっているのか、白く、麓には樹海が広がっていた。車窓いっぱいに見えたのは、大きな富士山だった。揺れの少ない車内。シートが並んでいて、それは新幹線。飛ぶように過ぎていく景色の中、富士山から目線はそれて、隣の席に座っていた圭太君が向けるカメラと目が合った。
「あ、また勝手に写真撮ってる。撮る時は言ってって何回も言ってるのに」
「桜の変な顔でも撮れないかなと思って」
と、言いながら圭太君が偶然撮れた写りの悪い写真を見せてきて、素早くカメラを奪い取ろうとするが指先がかすめただけだった。
「ちょっと! 白目むいてるじゃない。消して!」
「はいはい、電車の中では静かにしてくださーい」
そう言いながら圭太君がいたずらっぽく笑っていた。そう、あの日私達は富士山を間近で見ようと言って旅行をしていた。新幹線の中、都会から田舎へ、少しずつ変わっていく景色の中で隣同士の席に座って。
遠くに大きな山が見える。青い、大きな山。山頂に積もった白色は雪。車窓ではない。視線の先に大きく構える山。太陽が眩しい。雲ひとつない快晴の空の下、富士山がそこにはあった。
「やっと着いたね! 富士山!」
私が大きく伸びをして、隣で圭太君が笑う。
「富士山が見えるところ、だけどね」
「いーの! 細かい事は気にしないで!」
そう言って、私達は笑い合った。
目の前に広がるのは巨大な湖。透き通る透明な水の中を横切って行くのは小魚。手を伸ばせば一瞬の間に手元から逃げて、もう見えないほどに小さくなっていく。
「あ、もう行っちゃった。触れそうで触れないよね、魚って」
そっと水に触れてみる。氷を触ったような痛みに近い感覚。勢いよく湖に飛び込んでいく子供達の姿を見て感心してしまう。
「うわ、冷たい! よく泳げるよね、こんなに冷たいのに」
隣で圭太君が同じように触れて声を上げる。
「本当だ。俺は泳げないけど、桜なら泳げるんじゃない? 試してみる?」
「いやいや、なんでそんな芸人みたいな流れ作ってんのよ。絶対押さないでよね」
「え? それってフリ?」
「フリじゃない!」
自分の本気を込めて圭太君を睨みつけた。圭太君と言えば、いつでも背中を押せるよと言わんばかりの悪い笑みを浮かべている。周囲では冷たい水に楽しそうな悲鳴を上げる声が聞こえている。子供も大人も、皆が楽しそうに。
雪が深い。白銀の世界。自身の背丈ほども積もった雪。まだ不十分とでも言うように降り続く粉雪。息が白く、消えていく。目の前にゆっくりと落ちてきた雪に手を伸ばす。降り立った雪の粒は手の平の上でその芸術的な形を失って、いつの間にかつるりとした表面に変わっている。一滴、手の平に透明な線を描きながら零れ落ちていく。
「桜!」
楽しげな声に後ろを振り返ると、そこには自身の背丈程もある雪だるまが立っていた。真夏の海辺が似合う場違いなサングラスを掛けて、鼻はブタの鼻が雪玉で作ってあった。雪だるまと言ってもよいのか迷ってしまうような面白い顔だ。
「何これ」
「え? 俺の中の桜のイメージを表現したんだけど」
なんでそんな事訊くのと言わんばかりの顔で言われて、思わず雪だるまを二度見する。
「圭太君の中の私ってこんな感じなの?」
それを聞くなり圭太君は吹き出した。
「冗談に決まってるじゃん!」
「まーたーかー! もう、真顔で冗談言わないでよ!」
顔が熱くなるのを感じながら抗議する私に、圭太君は目に涙を溜めながら笑っている。
「ほんっとに桜は素直だなぁ。からかい甲斐があるよ。ほらほら、そのまま握手してみて」
言われるがままに私は枝で作られた両手に手を伸ばす。そしてそっと握った。
「桜、こっち見て。はい、チーズ」
紅葉が目の前を左右に揺れながら落ちていく。色づいた木々が立ち並ぶ山の中に伸びる自然の道。風に乗ってくる銀杏の匂い。踏みしめる度に靴を通じて感じる柔らかい土の感触。道を歩く。そうして開けた所には展望台がある。遠く、一面が深い青に染まった場所があった。海だ。展望台にはクジラを模したキャラクターの銅像が建っており、それは2メートル以上もある巨大なもの。ただ何かに気づいたように景色が後ろへと回ろうとする。左へと進んでいく視界に、クジラのキャラクターが右へと消えていく。否応なしに視界は真後ろを捉えた、その時、目の前に突然落ち葉が大量に飛んできて、私は全身を震わせて悲鳴を上げた。
「ぬおっ!」
私に当たる前に落ち葉は地面へと左右へ揺れながら落ちていく。その向こうには既にお腹を抱えながら笑いが止まらないとヒイヒイ言っている圭太君がいた。
「桜のびっくりした時の声面白すぎ!」
「ちょっと、笑いすぎじゃないそれ! 笑いすぎだって!」
そう非難しながらも私は自分の声を思い出しておかしくなり、2人で笑った。
森の中。木が吊るされている。アスレチックだ。吊り橋が揺れる。私は悲鳴に似た声を出しながら笑っている。地上までは恐らく5メートルはありそうだ。木が鎖で繋がれた吊り橋を左右の鎖を掴みながら一歩、また一歩と歩いていく。足元が揺れて、その度に足がすくんで悲鳴を上げた。
「無理! 絶対無理!」
「行けるって。もうちょっとだから。なんなら俺が後ろから応援するから。頑張れ頑張れ頑張れ」
応援と一緒に足元を揺らしてきて、私は咆哮の様な声を上げた。その声に圭太君の笑い声が後ろから聞こえてきたが言い返す余裕は無い。そうして辿り着いた最終地点。そこは木の塔みたいな所で、「木の葉自然公園アスレチック頂上」と書かれていた。周囲を一望できた。落ち葉が積もっていて、時折風に乗って目の前を飛んでいく。
「やっと着いたね桜」
とわざとらしくにっこりとしてくる圭太君に目を細める。
「吊り橋が揺れなければもっと早く着けたけどね」
「だって、怖がってる桜見たらやらずにはいられなくてさ」
圭太君はまた笑いだした。その姿を見ているとなんだか私も面白くなってきて笑いがうつる。
頬を伝う何かに、私は現実に引き戻された。
「どうして忘れてたの……? 私が圭太君と出会ったのは大学の図書館で、付き合い始めたのも大学の頃で、もう何年も圭太君と一緒にいたのに」
頭の中に急激に蘇ってくる記憶はどれも笑顔で溢れていた。圭太君がからかってきて、私が怒って、圭太君は笑っている。からかって、からかわれて、笑っていた。
順を追って思い出していく。ただ思い出されるがままに。
3月。デートの帰り。真っ直ぐに伸びる大通りを並んで歩いていた。圭太君が突然鞄を開いて手帳のメモ用紙を千切って、何かを書いていた。そしてそのメモを自分のポケットに突っ込んだ。かと思えば突然ポケットのメモに初めて気がついたように取り出すのだ。何をしているのか私には分からなくて、どうしたのって言いながら圭太君を見ていた。
そうして私は全てを思い出した。
急に圭太君が顔を上げて叫んでた。聞いた事がない程の大きなブレーキの音。後ろを振り返ったら、私の目の前にトラックが来てて……。
「そうだ。私、事故に遭ったんだ」
まさか、と思った私はアルバムを持っていた手を見た。そして、自分の体を見て絶叫しかけた。そうできなかったのは、息が詰まって声を上げることすら叶わなかったからだ。
アルバムは手の間からすり抜けて落ちていった。床で小さく跳ねたアルバムは、まるで現実を見ろと言わんばかりに楽しそうに笑い合っているページを開いたまま動かなくなる。私は数歩、震える足で後ろに下がる。腕も、足も、胸も、腹も、その全てが薄く透けて、体の向こうが見えている。
「そんな、私、私……。死んで、いたの……?」
このアルバムを手に取る時の恐怖の意味を、私はようやく理解した。それは怖いに決まっている。このアルバムを見たら私は事故の事を思い出してしまうのだから。
魔女が言っていた、私が失う大切なもの。それは、私自身の命だった。
圭太君の家を飛び出して、一心不乱に走った。行くあても無く、ただ無我夢中で。頭の中は真っ白で、足は震えて今にもこけそうになる。笑い合っている人々を見るほどに膨らんでいく言いようのない孤独感は今まで経験してきたものとは比べ物にならないほどに大きく、突然独りぼっちになってしまったかのような感覚だった。家族を始め、私を取り巻く人達に恵まれ、第一志望の会社に入る事も出来た。働く事は好きで楽しくて、恋愛だってうまくいっていて公私共に充実していた。あっという間に感じるほどに楽しくて、幸せで、とにかく順風満帆な人生だった。人生これから。そう、これからもっと楽しい事が待っていて、私の人生は輝いていた、はずだった。それなのに私の人生は突然終わったのだ。いや、終わっていたのだ。既に。
「嫌!」
急停止して、人目も憚らずに私は叫んだ。肩を上下させながら息をした。
ふと空を見上げると、鮮やかなオレンジ色をした、雲一つない美しい夕焼けがそこにはあった。
あぁ、明日も晴れるんだ。
そんな心の中の呟きに目が熱く痛くなる。視界がぼやけ、周囲の景色はたちまち輪郭が曖昧になりうまく見えなくなった。こらえきれない苦しみが目から溢れ出るように、次から次へ頬を伝っていく。私は膝から崩れ落ちた。
「どう、して……。どうして……」
拳を握り締める。握りしめているのに、地面が見えている。悔しさも、悲しさも、絶望も、混ざり合いながら私に押し寄せて、耐えられない苦しみを吐きだすように涙は溢れて止まらない。
思い出される事故の光景と、体にトラックがぶつかった衝撃。体がひしゃげて、全身に走る激痛。蘇る生々しい感覚に、それがただの妄想ではないと否応なしに理解してしまう。
「やだ……。嫌だよ……。死にたくない。どうして? どうして私なの? どうして、私なの!」
体は恐怖に震え、両腕で自分を抱きしめる。
夢だって言ってよ。こんなの冗談だって言ってよ。信じたくない。だって私の人生これからでしょう。終わりなの? もうお終いなの?
お父さん。お母さん。私がやりたい事は全力で応援してくれた。相談に乗ってくれた。いつだって私の味方でいてくれた。私の事なのに、自分の事みたいに喜んでくれた。優しくて、心強い自慢の両親だった。
咲。私の一番の理解者で、一番の友達だった。思いやりがあって面白くて、私の幸せを願ってくれていた。重要な話をしたよりも、何を話したか覚えていない程他愛もない話ばかりをした気がする。
一人一人、まるでスライドショーを見ているように頭の中に思い返されていく。私が出会った人達。私の大切な人達。私の大好きな人達。働き出してから全然会えてなかった友達だって多かった。また今度ご飯行こうって言ってもう何日、いや何カ月経っただろうか。
こんなことなら、もっと前に親孝行しておけば良かった。もっと実家に帰っていれば良かった。もっと友達に会いに行けば良かった。もっと話せば良かった。もっと一緒にいる時間を作れば良かった。恥ずかしくて言えなかったけれど、いつもありがとうって、大好きだよって皆に伝えれば良かった。
そうして最後に頭に浮かんだのは――。
圭太君。
浮かんでくるのはいつも笑顔だった。楽しい事が大好きで、優しさで満ちていて、本当に大好きだった。
「だって、まだやりたい事たくさんあるのに」
したい事はたくさんあった。ブランドのバッグを買い集めたいとか、高価な宝石を身につけたいとか、豪邸が欲しいとか、そんな事じゃない。私がしたかったのは、誰でも叶えられる小さな小さな夢だったから。
圭太君と一緒に、
晴れた日に外でのんびりパンが食べたかった。
1日動物園で子供みたいにはしゃぎたかった。
話題になっていた行列のできるラーメン屋に行ってみたかった。
悔しかった。私の人生はこれから、だった。これからたくさん楽しい事が待っているはずだった。これから、もっと幸せが増えていくはずだった。たくさん話して、たくさん笑って、たくさん食べて……。これから、これから。これからだったのだ。
「私の人生、これまでなの? ここまでなの?」
答える人は誰もいない。ただ自分の物とは思えない、今にも消えそうな震えた声が虚しく消えていくだけ。
「なんで……?」
あまりにも突然で、あまりにも呆気ない。そして、あまりにも理不尽だった。
「どうしてよ……。だって、私、まだ何もできてない……」
力いっぱい地面を叩こうとして手を止めた。
「何、も……?」
頭をよぎったのは、圭太君だった。
「ち、がう……。私、もう行ってるじゃない」
毎週一緒にたくさんの場所を訪れた。2人でたくさんの時間を過ごした。
圭太君と一緒に、
晴れた日に外でのんびりパンを食べた。
一日動物園で子供みたいにはしゃいだ。
話題になっていた行列のできるラーメン屋に行った。
よく考えてみれば、毎週訪れた場所は私が行きたいと言っていた場所ばかりだった。そこまで理解して、私はようやく彼の全てに気がついた。
「圭太君は、私の夢を、叶えてくれていたの……?」
俺の夢を一緒に叶えてくれないか?
不意に遠い記憶の中から聞こえてきたその声に、更に涙が溢れだした。
違う。違う。それは、圭太君の夢なんかじゃ無かった。だってそれは私の夢だもの。
ふと気がつくと、私の左側にはいつも待ち合わせしていた堤防の階段があった。いるはずの無い大学生時代の圭太君と私の姿が見えた。待っている圭太君に私が声を掛けて手を振る。圭太君もまた笑って手を振り返してくれる。デートの度に。何度も、何度も。
ここには、よく来る?
圭太君ともう一度出会ったあの夜、圭太君は私にそう訊いた。バカな私はあの時初めてだって答えた。その時、圭太君は悲しそうな、苦しそうな顔をしていた。あの時は何が起こったか分からなかったけど今なら分かる。だって、私達はいつもここで待ち合わせをしていたんだから。あの一言は、私が圭太君の事を覚えているかの確認だった。初めてって言ったその瞬間に、圭太君は私の記憶の中に自分がいない事を知った。
私がたくさん食べるって事ももう既に知ってた。それでも知らないフリをして合わせてくれていた。動物園に行った時、私がボロボロの財布を使っているのを見て嬉しそうにしていたのだって納得が行く。だってあの財布は、圭太君からの誕生日プレゼントだったから。
でも、圭太君が私に大学入学までの記憶が無いって言っていたのは嘘だ。圭太君には蓮君と宏君っていう幼稚園からの親友がいたし、野球を通じてたくさんの友達ができてたし、家族の話だってよく私にしてくれていたから。圭太君が私に嘘をついたのは、突然泣きだしても不自然じゃないようにするためだったのかもしれない。現に私は圭太君が急に泣いた時、記憶が無い事に泣いていると勘違いしていたから。
そうしてまた一つ、記憶が蘇ってきた。
公園のベンチ。並んで座る私と圭太君。
「何? 話って」
どこか心配そうにそう言う圭太君に、私は包装された細長い箱を素早く差し出した。何事か分からず瞬きをするばかりの圭太君の姿に、してやったりという気持ちがこみ上げる。
「いっつも私がご飯の事ばっかり考えてると思ってるでしょ」
圭太君は声も出ないようで、目線が何度も箱と私を行き来する。
「ほら、開けてみて」
圭太君はおずおずと箱を手に取り、丁寧に包装紙を取ると、まるで壊れそうな物でも扱うように音も立てずにそっと箱を開けた。中に入っていたのは大きな文字盤の黒い腕時計。いつも優しい圭太君。いつも私を驚かせたり、からかったりする圭太君を今度は私が驚かせてやろうと思った仕返しにも似たプレゼント。圭太君に似合うと強く思った品だった。
「びっくりしたでしょ。私からのサプライズプレゼント」
圭太君は腕時計を見るなり言葉を失ったようで、腕時計を箱から取り出して手の上に乗せた。
「つけても、いい?」
圭太君の反応に私もまた幸せを感じて思わずにやにやとしてしまう。
「いいよ。どうぞ」
声に促されるまま黙って腕に巻くと、様々な角度から嬉しそうに頬を緩ませながら腕時計を見た。ここまで喜んでくれると思わなかったから、私の方が驚いてしまう。そうして無言だったかと思えば、突然輝くような目で私を見た。
「ありがとう桜! 本当に嬉しい! 俺、これ毎日つけるよ! いや、もう外さない! くつろいでる時も、風呂に入ってる時も、寝る時も。いや、壊れたって絶対外さない!」
「いや、壊れたら新しいの買っていいから」
そうして、嬉しそうに満面の笑みを私に向けるのだった。
「ありがとう、桜」
その言葉通り、圭太君は壊れてもつけ続けてくれていたのだ。いつも疑問だった。どうして壊れた腕時計をつけているのかって。
ようやく、私は圭太君の深い愛情を知った。いつも笑っていた。いつも楽しそうだった。私をいつだって笑わせてくれた。それなのに私は圭太君の事を疑って、言葉をぶつけて、深く傷つけてしまった。
私はなんて事を言ってしまったんだろう。なんてバカな態度を取ってしまったんだろう。そんな後悔ばかりがこみ上げて苦しくなる。その時、
「桜!」
一番聞きたかった声が遠くで聞こえた。堤防の向こうから走ってくる人が見えた。壊れた腕時計をつけた、私の一番大切な人が。その姿を捉えた瞬間、私は考えるより先に駆け出していた。そのまま圭太君の胸に抱きついた。触れた所から伝わってくる温かさは安心感に満ちていた。包まれているだけで、幸せで嬉しくて、そして辛かった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
圭太君の服を強く掴んだ。
「圭太君は私の夢を叶えてくれてたのに、それなのに私、こんなに大切な事を忘れて……」
「違うんだ、桜」
私を抱きしめる腕に力が入ったかと思うと、耳元で絞り出すような悲痛に満ちた声が聞こえた。圭太君はそっと身を離すと真剣に私を見た。そして全てを話し始めた。圭太君が隠していた真実を。