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第6章 疑念と信頼

第6章 疑念と信頼


「もう7月かぁ」


仕事からの帰り道、桜と2人で歩いていた私はぽつりとそう言った。


「圭太君と付き合ってもう2カ月も経つなんて時間が過ぎるのは早いよねぇ」


随分と日が長くなって、辺りはまだ明るい。薄いオレンジ色の空を見ながらなんとなく私の声を聞いていた桜を突いた。


「でも桜も行きたい所とかやりたい事とか言っといた方が良いよ。旅行したいとか、あのオシャレな店でディナーしたいとかさ」


桜は斜め上を見ながら少し考えてから答えた。


「でも、圭太君のやりたい事が今の私のやりたい事でもあるし」


「あんたらよく小さな夢で満足するよね。この前なんて散歩したいからって近くを歩き回っただけでしょ?」


「小さいけど幸せだからいいの」


「まぁ、桜は昔っから欲がないもんね」


相変わらず桜と石崎君は「石崎君の夢を叶える」とかいうデートを繰り返しているらしい。それも、1人でも叶えられる小さな夢を一緒に叶えている。私なら不満爆発だろうが、昔から小さな事に満足してきた桜の事だから丁度需要と供給のバランスが取れているのだろう。


「じゃあ、また明日ね」


桜と別れて、私はいつもの公園に向かった。会社は定時帰宅を推奨しており、光輝の相手をしてあげられる分助かっていた。私も弟が欲しかったし、まだ小さい光輝は可愛いから言う事無しだ。


 そんな光輝が、最近家に帰るのが遅いと母さんから相談された。光輝はどうやら公園に通っているらしいが、物騒な世の中だしできる限り私が早く帰って迎えに行ってあげないと、と思う日々だ。


 今日もまた公園を囲む樹の陰に光輝を発見した。心配そうに覗いているのを見ると、怒るのはすぐじゃない方がいいだろう。光輝にも考えがあって今覗いているのだから。


「何覗いてるの?」


と小声で言ってみると、光輝は肩を震わせて振り返った。その視線の先にいたのはベンチに座った男。見覚えのある姿。見覚えのある腕時計をつけた男。


「石崎、君……」


聞こえない程小さな声で私はその名前を口にしていた。


 石崎君は見た事も無い程憔悴しており、苦しげな声で何かを言っていた。


「けいたおにいちゃん、いつもないてるんだ」


その言葉に驚かずにはいられなかった。泣いているとはどういう事なのか。


「ごめんって、いつもあやまってるんだ」


「光輝は先に家に帰りなさい。ちゃんと私も帰るから、真っ直ぐ帰るのよ」


真剣さが伝わった様で、光輝は頷くと家に向かって歩きだした。


 謝っている? 泣いている? 一体どういうことなの。今まで石崎君の裏の顔が分かるかもと思って家が近い事も言わないようにしてたけど、まさかこんな姿を見ることになるなんて。


 そこへ歩いてきたのは1人の女。太ももを強調するミニスカートと、胸元の開いた服を来た女だ。女はにやにやと笑みを浮かべながら話しかけている。


「あら、圭太君、じゃない。今は懺悔の時間だったかしら?」


私は樹の陰に隠れてその様子を見守った。息を殺して会話内容に集中する。


「三上桜とうまくいってるみたいね」


石崎君の隣に慣れ慣れしく座った女は不気味な笑みを浮かべており、鳥肌が立つのが分かる。本能的に、この女はヤバいと思っていた。だからこそ、一体石崎君とその女が何を話すのか、どういう関係なのか探るためにも私は気配を消しながらじっと2人の様子を見ていた。


「桜ちゃんは何も知らないままね。すごいじゃない。まぁ、全てを知るまでもう少しなんだけどね。その時はなんて言うのかしら。見物だわ。泣いて喚くのかしら? それとも強がるのかしら。どっちにしろ泣くとは思うけど。でも、あなたの願いを叶えたいなら続けなさいな」


石崎君の腕時計に指を這わせ、女はにやりと笑う。


 何も、知らない? 桜が、泣く? 一体どういう事なの。石崎君はいい人だって桜は言っていたけど、本当は今も桜は騙されているって事なの? この話を聞く限りじゃ、桜は石崎君の願いを叶えるために騙されてるってことなの?




ごめんって、いつもあやまってるんだ。




けいたおにいちゃん、いつもないてるんだ。




光輝の声が蘇ってくるようだった。


「俺が選んだ事だ。やり遂げるよ」


俯いているため表情は分からないが、女にそう言っているのは聞こえた。


「願いのためにはやり遂げないと」


「ふふ、さすが圭太君、ね。あぁ、でももう圭太君って呼ばない方がいいのかしら? まぁ呼び方なんてどっちでもいいわ。どっちにしろ私の言う通りだったでしょう? 三上桜はあの日あの堤防に来る」


「あぁ。まさか本当に来るとは思わなかったけど」


「私は嘘をつかないわよ」


私はポケットからゆっくりと携帯を取り出すと静かにカメラを向けた。スピーカーの所を指で押さえて画面に親密な2人の姿を捉え、シャッターを切った。


「まぁ、せいぜい頑張って」


女は石崎君の肩を軽く叩いてそのまま去って行った。


「ごめん、ごめんな……桜……」


石崎君が絞り出すように言うのを聞いて、私はその場を立ち去った。


 石崎君は桜に何か大切なことを隠している。罪悪感はあっても止める気は無い。それは桜がこれから泣くことになる程辛い事……。そもそも、堤防で出会ったばかりの女性に自分の願いを叶える手伝いをして欲しいなんて普通言うだろうか。堤防にいたのだってさっきの女が桜の様子を窺って連絡すれば先回りなんて簡単にできる。後は運命だとか奇遇だとかそんな事を言えば簡単に……。


 私は足を止めた。


 桜は、騙されている。








 圭太君の事を咲から聞いたのは私が家に着いた時だった。ごろりと布団に横になった私の耳に、電話の向こうからは焦ったような声が聞こえてきて、それが冗談ではない事は明らかだった。


「圭太君が私を騙してるなんて、本気なの? 見間違えしたんじゃない?」


「大真面目よ。それに、絶対人違いとかじゃないわ。ちゃんと聞いたのよ、願いのためにやり遂げないといけないって言ってたのを! 何をやり遂げるか分からないけど、桜が泣くくらい辛いことだって!」


咲が真剣な事は痛いほど伝わってくるが、どうにも現実味が無くてどこか他人事になる。


「まさか、圭太君に限ってそんなことないよ。考えすぎだって」


圭太君の顔が浮かんでくる。いつも楽しそうで、笑っていて、でもどこか寂しい表情をする人。


「言ったでしょ。公園で全部聞いちゃったの! 堤防で出会ったのだって先回りしてたみたいだし、会って間もない女性に夢を叶えて欲しいって普通言う? 疑い出したらキリがないのよ!」


と、言われてもやはりいまいち実感が湧かない。今まで一緒にいて、多くの時間を過ごしてきて、圭太君の事を知っていると言う事もあるが、とても悪い事をしようとしているようには思えないのだ。あの圭太君が私を騙しているなんて言う事を信じろと言われてもすぐに信じられるわけも無い。


「でも圭太君は本当に優しい人なのよ。そんな悪い事をしてやろうって顔じゃないし」


「詐欺師が、自分詐欺しますって言いながら近づいてくる? 悪い奴程いつもは笑顔なのよ。優しい人間のフリをしてるものなの!」


圭太君が私を騙している? そんなわけがない。あんなに優しい人が私を騙して何になると言うんだろう。そもそも私にはあり余ったお金は無いし、有名な誰かにコネがあるわけでもないし、騙した所で得なものは何一つないじゃないか。


「桜、あんた騙されてるのよ!」


電話が切れても頭の中にはずっと咲の言葉が回っていた。実感は無く、圭太君が私を騙しているなんて正直バカバカしいものだ。咲の話を聞けば普通の人は疑うんだろうけど、私には疑う気が無かった。明日圭太君に聞けばいいのよ。きっと最近見た映画の話とか言うんだろうなと少し笑う。明日聞けば全部はっきりするから。


 携帯の画面を見てみる。


「明日は一緒に散歩しよう」


という圭太君からのメールを見ていると、咲からのメールを受信した。咲からのメールにはやはり騙されているんだと言う内容の文章と写真が一枚添付されていた。俯く圭太君に寄りかかるセクシーな女性の写真。


「でも友達かもしれないじゃない。私だって仲のいい男友達だっているわけだし、圭太君に限ってそんなことしないに決まってる」


と半ば言い聞かせるように笑った。


「そうよ。あの圭太君が、だよ? ちょっと相談があったんだよね」


ゆっくり立ち上がり洗面所へと向かう。なぜ私には相談しなかったのか、と内心自問しながら冷たい水で顔を洗う。


「私には話しづらい事だったんだよきっと。そうよ、そうに決まってる。もう私ったら心配症なんだから」


と鏡の向こうに笑いかける。映っていたのは、口角だけが上がった、引きつった笑顔の自分だった。






 翌日。出勤してからずっと私は仕事に集中できずにいた。気にしないようにしているのに、昨日咲から送られてきた圭太君と見知らぬ女性の写真ばかりが頭の中に浮かんできてどうにも集中できなかった。圭太君に会うのだからと急いで仕事を終わらせようとしたが、結局その日は定時で帰る事はできず、圭太君との集合時間にもギリギリ間に合うくらいだった。それは心のどこかでホッとしているようで、でもどこか残念な事でもあった。突然上司から夜中までかかるような仕事を言いつけられやしないかと微かに期待していた自分にも正直驚くばかりだった。


 会社を出ていつもの堤防へ向かう足取りは非常に重く、近づくほどに頭の中には鮮明に例の写真が浮かんできた。これを問いただしてしまったら、もう2度とあの楽しい日々に戻れないのではないか、突然豹変して捨てられてしまうのではないかと妄想だけが膨らんでいく。それはまるで夏、入道雲が急成長するのに似ていた。


「桜」


その声を合図に、一瞬にして全身に力が入った。声の方を見てみれば、圭太君はいつもと変わらない笑顔で手を振って歩いてくる。


「残業大変だったんじゃない? 大丈夫?」


連絡を入れていたのもあって、圭太君は心配そうに顔を覗きこんでくる。


「だ、大丈夫」


顔の横で慌てて手を振る。私の笑顔は引きつってはいないだろうか。この疑いがバレてはいないだろうか、そんな不安が押し寄せる中、圭太君は頭を優しく撫でてくれた。


「遠慮しなくていいんだから、疲れた時は疲れたって言ってくれたらいいんだよ」


「あ、うん。ありがとう」


言葉の節々からにじみ出る優しさが胸の奥に沁み渡って行くようだった。


「じゃあ、今日は向こうの橋まで行こうか」


当たり前みたいに私の手を取って歩きだす圭太君は特に私の不安に気づいていないようでのんびり景色を見ながら今日あった事なんかを話してくれた。その様子を見ていると、やっぱりこの人は優しくて、いい人で、私が好きな人なんだと実感する。


「事務の田中さん、最近猫を飼い始めたんだって。毎晩足元にやってきて重いからそーっと足を引いて寝返り打とうとしたら足を噛んでくるらしいよ。猫ってそういうとこあるよな」


「友達も言ってたよ。動こうとしたら割と本気で噛んでくるから痛いって」


「毎晩猫を飼ってる人達が寝返り打つのに苦労してると思うと面白いな」


圭太君はクスクスと笑っている。それにつられて私も自然と笑ってしまう。


「その考え方は無かったなぁ。面白いねそれ」


と、言うと圭太君はにっこりと笑って立ち止った。


「どうしたの?」


「元気出た?」


「え?」


予想外の問いに気の抜けた声が出る。圭太君は私のすぐ前まで顔を近づけた。


「今日、元気ないみたいだったから」


「心配、してくれてたの?」


「当たり前じゃないか」


その言葉に、私はどうしようもない気持ちで圭太君を抱きしめた。心が満たされていく。先ほどまでの鬱々とした気持ちは跡形も無く吹き飛んで、ただ胸に溢れるほどの幸福感で満たされていく。


「大丈夫? 辛い事でもあったのか?」


優しい腕が背中に回され、そっと、でもどこか力強く私を包み込んでくれる。こみ上げてくる罪悪感に、私は心の中で謝罪する。


「大丈夫。ちょっと私がバカだっただけだから」


「え? 桜って前からおバカだったじゃん」


身を離すなりきょとんとした顔で言われ、私は目を細めた。


「ちょっと、聞き捨てならないわよ今の言葉」


「あはは、冗談だって」


「もう! またそうやって」


圭太君の肩を軽く叩きながら笑う。


 こんなに優しい人が私を騙しているって? 私は何を考えてたんだろう。


「そうだ、圭太君ってどうして私と夢を叶えようと思ったの?」


今日訊いておこうと思いつつ、どうにも言い出せなかった問いが流れるように出てくる。圭太君はその問いに特に迷う事も無く答えた。


「俺の夢を楽しみながら一緒に叶えてくれそうだったからかな」


「他には?」


「この人可愛いなぁって思ったからかな」


そんな事を言われると嬉しくなってしまう。私だってこの人かっこいいなぁと思ったなんて恥ずかしくて言えない。


「あ、そうそう、昨日公園で女の人と会ってたりした?」




友達と久しぶりに会ったんだよ。何? 桜ヤキモチ焼いてんの?




そんな返答を想像しながらにやにやしていた私に、圭太君は何ら変わらぬ表情で言った。


「会ってない」


その言葉を一瞬理解できなかった。


「え?」


時間が止まり、体が凍りつく。聞き違いに思えて、圭太君の返答を繰り返すように確認する。


「会って、ないの?」


「会ってない」


足元に目線を移した。頭の中に蘇ってくるのは昨日送られてきた写真。写っていたのは明らかに圭太君で、見知らぬ女性は圭太君の腕に自分の腕を重ねて密着していた。写真が合成なんてわけが無い。咲がそんな事をするとは思えないし、そんな事をする理由も、技術だって咲には無いのだから。何かが壊れそうな気がした。私を支えていた大切な何かが。


 私はもう一度圭太君の顔を見上げた。いつも通り、なんら変わらない圭太君の姿。安心感のあったその姿に微かな恐怖を感じた。


「だって咲が見かけたって――」


「見間違いだ」


断定的で強い口調に、私はそれ以上何も言えなくなった。これ以上訊いたら怒りだしてしまうようなそんな感覚にただ口をつぐむ事しかできなかった。


「それよりさ、明日は桜が行きたい所に行こうか。行きたい所ある?」


さっきまでの空気など全て勘違いだったのではないかと思うほどに圭太君はいつも通りに問いかけてきた。


「え? あ、そうね。最近ジェラートのお店ができたって咲が言ってたんだけど」


そう言っている間も頭の中はさっきの出来事がグルグルとしていた。


 違うよね。違うよ。大丈夫。さっきのは勘違いよ。私が色々考え過ぎて怒ったみたいに聞こえただけ。大丈夫。考えすぎなのよ。大丈夫。大丈夫。ほら、圭太君はいつも通りじゃない。


 必死で自分に言い聞かせながら気づかれないように深呼吸しながら気を落ちつかせる。


「そっか、じゃあそこに行こう!」


「楽しみ。じゃあ、私明日に備えて早めに寝るね」


無理矢理笑顔を作って、圭太君に手を振った。圭太君もまた手を振り返してくれた。圭太君の姿が見えなくなると、私の中には不安だけが残された。


 家に帰ると、私は布団の上に倒れ込んだ。動く気になれない。枕に顔をうずめるなり先ほどの光景が鮮明に思い出される。女性と会っていたのかという問いに対する圭太君の答え。これ以上の詮索を許さない様ないつもより低いトーンの声。


 私を心配させないようにそう言ったの? でもそんな風には聞こえなかった。それに、あんなに堂々と嘘をつくなんて。


 5分も無いほんの少しのやりとりの間に、圭太君に対して持ちあわせていた絶対の信頼が一気に崩れていく気がした。


 咲があんなに必死に言ってきたのも、それが真実で私の事を想ってとなればその方が自然だし、堤防で先回りしていたというのも写真の女性とうまく連絡を取り合えばできない事も無い。運命的な出会いを装って私と話すきっかけを無理矢理作った……? だって、見ず知らずの女性に夜の堤防で出会って、また次の機会を持とうとする? 圭太君が過去の事を覚えていないっていうのも、私に都合の悪い事は覚えていないで通すためじゃないの? 謝っていたのだって、私に情が湧いて罪悪感に苛まれていたからじゃないの?


 信じたくなかった。でも考えれば考える程辻褄は合っていく。恐ろしい程自然で、反論できるようなものが無くて恐ろしくなる。




桜、あんた騙されてるのよ!




咲の言葉が急に思い出され、枕に顔を押し付ける。


 私、騙されてるの?


 思い出される圭太君との日々。優しく笑う圭太君。からかって笑う圭太君。心配してくれる圭太君。いつも私に元気をくれた。いつも私を想ってくれた。幸せな日々を思い出す。幸せな日々が全部壊れてしまいそうで、全部嘘になりそうで怖くなる。


 それでも本当の事は本人から訊かなければきっと分からない。楽しかったから、信じているから、だから真実を聞こう。


 私は顔を上げた。明日必ず、真実を訊こうと。それがどれだけ圭太君を怒らせる事になっても、絶対に訊くんだと。固く、固く心に誓った。






 朝寝坊も無く、慌てて化粧をする事も無く、私は妙に頭の冴えた朝を迎えた。無言のまま淡々と用意をし、無表情のまま家を出る。一人で悩んで不安になっていては何も変わらない。圭太君が本当に私を好きでいてくれるのなら、何を訊いても結局は分かり合えるはずだから。大丈夫。圭太君にぶつかればいい。その時の反応こそが、真実だ。


「桜。おはよう」


堤防にはいつも通り笑顔で待っていてくれる圭太君がいた。その笑顔を歪めてしまうかもしれない。それでも圭太君に嘘はつきたくない。ずっともやもやした気持ちのままで接したくない。だから本当の事を訊くんだ。


 そう心の中で思っていても、このまま何も訊かずにいればいいのではないかという気持ちもまたこみ上げた。わざわざ訊かれたくない様な事を追究しなくてもいいではないかと。それも一理ある。私にだって訊かれたくない事はあるし、訊かれたくない事が無い人なんていないに違いない。


「おはよう圭太君」


そう笑顔で返しながら、心の中は2つの想いがせめぎ合っていた。


 もしここで問い詰めたらもうこうやって会えなくなるんじゃないかな。でもこのままでいいはずがない。でも訊かなくていい事を訊くのはどうかと思うし。それじゃあ私はこれからずっと圭太君にもやもやした気持ちを抱いたまま笑顔を作り続けるの? ずっと圭太君に嘘をつき続けるの? そんなの、そんなの圭太君にも失礼じゃない。


 歩きだして数歩、私は足を止めて拳を握りしめた。


 昨日決意をしたじゃない。絶対に訊こうって。正直にぶつかれば圭太君もしっかり返してくれる。ぶつかってみなければ何も分からない。


 圭太君が私に気づいて、足を止めて振り返る。


「どうした? 桜」


心配そうな圭太君に、私は決意を固めた。


「圭太君」


圭太君を真っ直ぐに見つめた。


「急に真剣な顔してどうした?」


笑顔で訊いてくる圭太君に、私は一度深呼吸してから尋ねた。


「公園で会っていた女の人は誰なの?」


その瞬間、圭太君の顔から笑顔が消えた。


「だから、会ってないって――」


私は携帯を取り出すと、咲が撮った証拠を圭太君に突きつける。


「これは、圭太君でしょう?」


その写真を見るなり圭太君は目を見開いた。


「どうして、こんなものを」


「ねぇ、この人は誰?」


圭太君は急に口を閉じて目を逸らした。その姿を目にした途端、心の奥底にあった勘違いという期待が崩れていく。楽しかった日々が、少しずつ壊れていく。


 嘘、でしょう。まさか、そんな……。


 否応なしに膨らみ続けた妄想が確信へと変わっていってしまう。私はただその確信への変貌を止めたくて圭太君に訊いた。


「私に隠してる事があるの?」


返事は無い。


「私に言えない事?」


無言のままだ。


「公園でどうして私に謝っていたの? それと隠している事は関係してるの?」


圭太君はただじっとその時が過ぎるのを待っているようにも思えた。


「ねぇ、圭太君、本当の事を聞かせてよ」


 嘘だ。嘘だ。嘘よ。だって、こんな、こんなことって。


「どうして何も言ってくれないの? 私の勘違いだったら謝るよ。もう二度とこんなことしない。だから、本当の事を聞かせて」


なぜか涙が溢れてきた。それが何の涙なのかよく分からないが、次々と溢れて止められない。頭の中に蘇ってくる。初めて堤防で出会った日の事も、服装を褒めてくれた事も、また来週って手を振ってくれた事も、からかう度に見せてくれた大好きな笑顔も、全部頭の中に鮮明に思い出されて、あの日々が偽りだなんて思いたくなくて。私はただ圭太君からこの疑いを否定する何かを期待していた。絶対の信頼が揺らいで今はほとんどが疑惑でしかないけれど、たった1パーセント残った期待。そうせざるを得なかったと思わずにはいられない何か、想像を超える何かがあるのではと。


 そんな私と目を合わせる事も無く、圭太君は私の手を掴んだ。


「そんな事今はいいじゃないか」


何かが折れるような音がした気がした。


 信じていたの。やっぱり何か事情があるんじゃないかって。ずっと一緒に過ごしてきたから、大切だったから、大好きだったから、たった一枚の写真で崩れてしまうほど簡単な絆じゃないってことを。絶対に私は圭太君を信じるんだって。でもそう思っていたのは私だけだった。圭太君を信じてた。絶対なんて無いけれど、でも絶対に圭太君は私を騙したりしないんだって。信じて、いたの。


 ふと、私の手を掴む腕に壊れた腕時計を見つけた。今まで訊けなかったこの時計。どうして、彼はこの時計をつけるのか。


「その腕時計も、公園で会ってた女の人からもらったの?」


「違う!」


初めて圭太君が声を張り上げた。圭太君の表情は見えなかったけれど、その顔が怒っているということくらいは簡単に想像できた。


 ずっと期待していた。私が真正面からしっかりと向き合えば圭太君もしっかり向き合ってくれると。本当の事を聞かせてくれると。そうして、またいつもと変わらない楽しい時間を過ごせるのだと。圭太君は何も答えない。何も教えてはくれない。どれだけ私がぶつかっても何も返してくれない。それは、私に言えない事だから。




私は……本当に騙されていたんだ……。




「ごめん。でも、違うんだ。今は言えないんだよ。だからほら、行こう」


穏やかに戻った圭太君の声を聞いても、もはや私の心は動かなかった。胸の中で急激に広がっていく虚しさは、期待、信頼、その全てを飲み込んで行く。呆然としたその数秒の間に、心の中を失望が埋め尽していた。カラー写真が数秒でモノクロへと変わっていくように、楽しかった日々が輝きを失っていく。


 手が引かれる。それでも私は決して前に進まなかった。温かかった胸の奥が、急に冷たくなっていく。繋いでいた手を見ても何も感じなくなっていた。これも全て偽りの行為でしかないと思ってしまうから。


「行かない」


「え?」


 やっぱりそんな素敵な事が起こるわけが無い。私、ずっと浮かれてた。この幸せが続くんだって。嬉しかった。本当に、毎日幸せだったから。人生が別の誰かのものに変わったって思うくらいに一気に変わったから。楽しくて、ドキドキして、幸せで……。バカみたい。バカみたい。本当に、私って、バカ……。


「もう、行かない!」


全ての気持ちをその言葉に込めて、喉が壊れてしまうほどに強く大きく声をぶつけてから、私は手を振り払った。目を見開く圭太君の顔が見えたが構わずに走り出した。追いかける足音も、呼びとめる声もない事に再び涙がこみ上げた。


 嘘だったんだ。私に笑顔を向けてくれた事も、私の事を好きと言ってくれた気持ちも、全部嘘だったんだ。


 その日を境に私は圭太君との連絡を断った。

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