第3章 彼の好きな人
第3章 彼の好きな人
雪が深い。白銀の世界。自身の背丈ほども積もった雪。まだ不十分とでも言うように降り続く粉雪。息が白く、消えていく。目の前にゆっくりと落ちてきた雪に手を伸ばす。降り立った雪の粒は手の平の上でその芸術的な形を失って、いつの間にかつるりとした表面に変わっている。
―何?
一滴、手の平に透明な線を描きながら零れ落ちていく。
―これは、何?
後ろを振り返る。自身の背丈程もある雪だるま。真夏の海辺が似合う場違いなサングラスを掛けて、鼻はブタの鼻が雪玉で作ってあった。雪だるまと言ってもよいのか迷ってしまうような面白い顔だ。枝で作られた両手。手を伸ばす。
―私は、何を見ているの?
その手をそっと握った。
「桜ぁぁぁぁぁぁ!」
突然耳元で発された爆音と言っても過言ではない怒鳴り声で、私はたちまち現実に引き戻された。スピーカーが最大音量で怒鳴り声を再生した様な爆音で耳が痛い。
「びっくりした! ちょっと咲、急に大きな声出さないでよ!」
思わず耳元から離していた携帯に文句をぶつけた。
「あのね、それじゃあ早く時計見たらどう?」
ふと時計を見てみれば、もう出発予定時刻を30分も過ぎている。早めに到着するように時間を早めに設定しておいたが、30分は予定外である。
「嘘! ちょっと早く言ってよ!」
「言ったじゃない何回も何回も! 無視してたの桜でしょーが」
電話越しに咲の不満げな声が聞こえてくる。
「とりあえず行ってくるから切るよ!」
携帯を耳と肩に挟み、鞄を豪快に開けて入れ忘れがないかを確認しながら部屋のドアを目指す。
「さっきも言ったけど、絶対に石崎君に好きな人がいるのか訊いてきなさいよ!」
「分かった分かった! もう行ってくるから!」
と言いながら携帯の画面を連打して通話を切る。携帯を鞄の中に押し込みながら玄関へ猛ダッシュ。あまり履いて行く事がなかったパンプスに足をねじ込むと体当たりするようにドアを開けて家を飛び出した。
現在9時30分。今日は待ち遠しかった休日。石崎君の夢を叶える日である。昨夜咲に連絡をいれておいたのだが、どうしても直接話したかったようで朝に電話がかかって来たのだ。その途中でどうやら私はまた夢を見ていたようだ。最近起きているのに気がつくと夢を見ている事が多い。それもめちゃくちゃなものでもなく、ただ目の前に景色が広がっているという単純なもの。何を見ているんだろう。それもあって早めに寝たりもするのだが効果を成さずに今に至る。
そもそも電話をしている間に夢を見ると言う事があり得るのだろうか。怪物の様な食欲に睡眠欲もプラスされたとしたら……。これ以上に怖いものがあるだろうか。今でさえ無意識に電話中に夢を見ているなら、その内食べながら寝ている、なんてことも起こりうるかもしれない。気がついたら食後でしたなんて、せっかくのご飯の時間が台無しだ。そんなことは許されない。ご飯は美味しく食べている時間が幸せなのに、食べたという結果だけが残るなど断じて許される事ではない。このままでは私の平和な食事時間が意味不明な睡眠欲に侵害されてしまう。とにかく早急に手を打たねばならない。今日だってこの睡眠欲のせいで結果的に出発時間の5分遅れ。せっかく石崎君と会う事ができると言うのに勘弁してほしい。
春の陽気な気候に影響されてか、自然と歩みが遅くなっている人々の傍を私は3倍速で駆け抜けていく。春の陽気さなんて正直浸っている暇など無い。止まらない秒針。加速する私。
急げ。待ち合わせの時間は刻一刻と迫っているんだ! 社会人たるもの、時間は厳守せねば! 時間を守る事。これは信頼関係を築く上で最も重要なんだとおばあちゃんが言ってたし、絶対に時間だけは、あ、今なんか美味しそうな匂いしたな。違う! とにかく、今は全力で待ち合わせ場所まで行かないと!
ふわふわのスカートにパンプスを履いた女性とは思えないほどに全力疾走していた私は、ようやく坂道を登りきって真っ直ぐに伸びる道へ出た。左に見える穏やかな川。視界の先で枝分かれし、下へと続くなだらかな階段。そして飛び込んでくる1人の男性の姿。
「石崎君!」
乱れ切った呼吸を繰り返しながらも、まるで咳をする時みたいに肺の中の空気を一気に吐き出して声を出した。思ったよりも大きいその声に、石崎君の顔がこちらを向いた。白い歯を見せて目を細めている石崎君の傍までなんとか走りきる。
「走ってきたの? 別にそんなに頑張らなくてもよかったのに」
「いや、お待たせ、させる、わけには」
息が続かない。あれ、おっかしいなぁ。全然喋れない。全然喋れないよ私。
石崎君を目の前にして、想像以上に息苦しい事に気づく。正直落ちついて話すより体が酸素を求めていて呼吸に集中せざるを得ない。両膝に手を当ててゼェゼェと息をする私を見て、石崎君は吹きだした。
「あはははは。息が続かなくなるくらい全力で来てくれたんだ」
チラリと腕時計を見てみると待ち合わせ時間ピッタリ。遅刻は免れた。みっともないけど遅刻するより何倍もましだ。
必死で息を整えようとする私を、石崎君は目元を押さえながら笑っている。
「そんなに、笑わ、ないで、よ」
それもこれも電話の最中に夢なんか見るからいけないのだ。今日は帰りに書店にでも寄ってやろうか。睡眠についての本でも買ってやろうか。おのれ睡眠欲。
「でも、ここまで一生懸命来てくれると嬉しいな」
呼吸が落ち着くまでの間、石崎君はマイペースに伸びなんかしながら、そこまで時間に厳しくなくていいのにとか、今日は暖かいねとか、特に返答を求める事も無く呟いている。
待ち合わせの時間に遅れていたとしても私を責める事は無かったんだろうな。たとえ私が毎回遅れたとしてものんびり川でも見ながら過ごして、特に責めることなく合流して、何事も無かったかのように今日のスケジュールを開始するに違いない。優しい人だ。だからこそ、その優しさに甘えたくないし、私も優しくしたいなと思う。
5分くらい経って、何をするのかと訊くなり石崎君はとびきりの笑顔で言った。
「今日は動物園に行きます! じゃあ、行こうか」
と、手を差し伸べてきたのを見て私も自然に手を伸ばすと、重なる瞬間にすっと石崎君が手を引いた。何が起こったのかよく分からずに石崎君を見てみると、特に変わった様子もなく笑顔を浮かべているばかり。よく分からないまま再び手を伸ばすと、また同じタイミングで手が引かれる。石崎君の手が小さく揺れているのを見て、顔を上げてみれば石崎君は笑いを全力でこらえていた。
「はははは。面白過ぎでしょ三上さん」
またやりやがったなこの男。忘れていた。この男はこういう時ほどここぞとばかりにからかってくるということを。そうして私が恥ずかしい目に遭うということを。手を差し伸べられたら重ねるもんだと思うじゃないか。そんな乙女心を踏みにじるとは。
「ごめんごめん。あまりにも三上さんが可愛くてつい」
石崎君がもう一度手を差し伸べてくる。
「な、何よ。もう引っ掛かりませんよー」
ナチュラルに可愛いとか挟んでくるあたりがもう罪深い。それを聞くだけで私がどれほど胸中穏やかでいられないことか! おのれプレイボーイ。
「もうからかわないから、ほら」
と腕を曲げてからもう一度私の目の前に手を出してくるが私は腕を組んで動かない。
私が手を出さなかったらどういう反応するんだろ。まぁ、この人の事だから私が手を出すまで粘ってくるんだろうな。
石崎君から顔を背けたまま断固として腕組みを緩めない。すると、石崎君は私の目の前にやってくると、両手を広げた。
「ほーら、おいで」
たちまち顔が熱くなっていく。
おいでなんて言われたの初めてなんですけど! 顔が、顔がにやけそう!
石崎君がそっと私の腕を引っ張ると、蝶々結びがするりとほどけるように組んでいた腕が解かれてしまった。私が動揺している瞬間を狙った確信犯である。
「イエーイ、捕まえた。ほら行こう」
そう言って笑顔で手を引いていく。好きな人に手を引かれて私は歩く。
あぁ、私今本当に幸せだ。
チケット売り場では長蛇の列ができていたが、待ってみればあっという間だった。チケットを買って家族の元に戻って行く父親や、今すぐ動物園の中に駆け込みたいと言わんばかりに足踏みする子供。ただのんびりと話をするカップルや、数人で集まって笑い合っている人達もチケットを買って入口へと向かって行く。私達の番もすぐに訪れた。
いざチケットカウンターに着くと、石崎君が当たり前の様な顔をしてチケットを2枚分の代金を出そうとしたのを察してすかさず自分の分を先に出す。
「いいよ。俺が付き合わせてるわけだし」
「いいえ、自分の分くらいは払います」
と、言い切ってやる。
男性の中には女性にはおごらないといけないみたいな考えがあったり、女性の中にもそれを当たり前のようにしている人がいるけど、正直私は反対だ。私の勝手な考えでしかないが、男女だの性差をお金に投影するのは間違っていると思う。私は男と一緒にいるんじゃない。私は今、「石崎君」と一緒にいる。人が2人一緒に楽しい時間を過ごそうとしているのに、片方にお金を払わせるのは何か違う気がする。楽しい時間を共有するのだから、その時にかかる費用も出し合うべきだと思うのだ。それが私の当たり前だ。
「やっぱり三上さんだなぁ」
多すぎた分を財布に直しながらそう言って笑う。
「どういうこと」
「他の人とはちょっと違うよなぁって。皆がそうとは言わないけどさ」
反応に困っている間に、石崎君はチケットを受け取りながら言った。
「それ、新しいの買わないの?」
石崎君の目線を辿るようにして手元を見ると、手の中にはいつものボロボロの財布。恥ずかしさがこみ上げてくるものの、私は当然と言う顔を必死で作り上げる。
「い、いいでしょ。お気に入りなの。大学1年の時から使ってるからボロボロになっちゃったけど」
「へぇ、そうなんだ。その財布が大好きなんだね」
私の名前と同じ花の柄を持つこの財布に勝るものは今の所見かけていない。新しいものにそろそろ買い直そうかとも思うが、やっぱりこれが好きだし、これを使っていたい気持ちも大きいのだ。
「そんなに長い間大切に使ってもらって、その財布も本望だろうな」
そう言う石崎君は鼻を擦りながら嬉しそうに笑っている。
ライオンと繰り返しながら、親の手を引っ張って男の子が隣を歩いていく。それに対して幸せそうに引っ張られていく両親。周囲にはそういった家族連れが多く、中には1人走って行って両親を大声で呼んでいる子供もいた。
「あ、真っ直ぐ行くとライオンいるっぽいよ」
チケットと一緒にもらった園内マップを片手に石崎君は手を差し伸べてきた。
「ほら、行こう!」
と、言われてもその手に飛びつかずまず様子を窺ってみる。
「どうしたの?」
「また、手を引く気じゃないかと思って。でも、2回目なわけだしそんなことないよね」
「あははは。バレた?」
いつも通りの笑顔で言うものだから一瞬我が目ならぬ我が耳を疑った。
「はい?」
「やっぱり2回目は通用しないか」
この男、しれっと私を騙す算段をしていたのか。
「3回目も4回目も通用しなさそうにないね」
呆然とする私をよそに、石崎君は私の手を取って歩きだす。
「ほらほら、行こう」
3回目も、4回目も、何度も何度もこれから石崎君に会える。そう期待しても良いのだろうか。繋いだというより包み込まれた私の手。温かくてそれだけで幸せになる。石崎君は私の事をどう思っているんだろう。
絶対に石崎君に好きな人がいるのか訊いてきなさいよ!
不意に電話を切る直前に言われた咲の言葉が頭の中に蘇ってきた。
もし、仮に今石崎君に好きな人がいたとしたら、私は一体どういう反応をすればいいんだろう。咲はとにかく訊いてこいと言っているが、もし訊いたとしてアイドルの名前が出てきたり、知りもしない女の子の名前が出てきたりした時私はどうしたらいいんだろう。アイドルの名前なら、あぁあの子かわいいよね、で対処は可能だろうが知りもしない女の子パターンで来られると非常に困る。非常に困るというか、困る以前に私失恋しちゃっているわけで。動物園楽しめなくなるよね。
でも正直石崎君が好きでも無い女に対して手を繋いだりするだろうか。え? それって石崎君私の事好き説が浮上ってことになるのでは? 待て待て。好きな人いますかって訊いたら「俺、三上さんのこと好きだよ」とか言われちゃうのでは? うそ! 今日告白されちゃったりして! どうしよ、なんか緊張してきた!
「三上さん」
「はいぃぃ!」
思わず全力で姿勢を正した私に、石崎君が真剣な顔をする。
「俺、好きなんだ」
「え?」
今? 今告白するの? 何の前置きもなくこんなにいきなりなの? でも、こういうのはこういうので悪くは無いと言うか……。
「いやぁ、あの、私も、実は」
耳に髪をかけ直す。
「え? 三上さんも?」
「え?」
「だから、俺ライオン好きなんだ」
「ライオン?」
ふと気が付くと、目の前にはライオンの檻。隣にはきょとんとした石崎君。
「他に何かある?」
「いえいえいえいえいえいえいえありませんありませんありませんよあははは大好きだよライオンかっこいいよねライオンわーこっち向いてるーあははははは」
なんという勘違い。そしてなんというタイミング。恐るべしタイミングの悪さ。いや、良すぎというべきか。もはや完全に棒読みだが、とにかくごまかすしかない。石崎君に告白されるかもしれないなんて妄想していて目の前にライオンがいた事も気づきませんでしたなんて言えるわけがない。隣で子供の様にライオンを見ている石崎君を見ていると自分の心が汚れている気がしてくる。
「あ、そろそろ小動物との触れ合い広場でおやつあげる時間だね。ウサギとか、モルモットとか、絶対かわいいよ」
携帯で時間を確認する石崎君を見て、ふと右腕に視線を移してみる。
思った通り今日も右腕に壊れた黒い腕時計が巻かれていた。そもそもあの腕時計をどうしてはめているんだろう。訊きたくて、でも何故か訊くのが怖かった。なぜ怖いのかも分からないけど、訊いてはいけない様な気がするのだ。訊いてしまったら今の楽しい時間に戻れなくなるような気がする。そんな直感が。
「三上さん?」
はっとすると、石崎君が心配そうに覗きこんでいた。
「大丈夫?」
「え? あ、うん。大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけだから。ほら、行こう触れ合い広場」
今度は私が石崎君の手を引いた。恐怖から逃げるように、気を紛らわせるように、今はこんな直感なんかじゃなくて現実に目を向けていたいから。
触れ合い広場にはウサギやモルモットが柵の中で放され、野菜を手からあげて良いことになっていた。子供達が想い想いに野菜をあげている中、1羽のウサギが足元に寄ってきてくれた。雪のように白く、赤くクリっとした目を持っている。ウサギと言えばと訊かれたら真っ先に頭に浮かぶ子だった。都会に越してからウサギに触れる機会なんてあまりにも無いものだから、触れるのに緊張してしまう。丸まった背中にそっと手を伸ばす。足元でじっとしたままのウサギに手が触れると、その毛はまるで綿毛を触ったようにふわふわとしていた。
「うわぁ、ふわふわ。それにあったかいね」
「生きてるからね。でも触らないと案外実感って湧かないよね」
心地いい温かさ。頭を撫でてやるとどこか気持ちよさそうにするこのウサギはきっと人が大好きなのだろう。触れ合い広場はストレスを感じる子にとってはきっと苦しい場所だけど、こんなに人と触れ合うのが好きな動物達ばかりだったらきっとその子たちにはストレス発散になるのかな。
やがてウサギはおやつに釣られて走って行った。子供達の手から人参をもらい、口をモゴモゴさせて美味しそうに頬張っている姿を見ていると自然と頬が緩む。
「かわいいね。ずっと見ていられそう」
「あぁ、俺もそう思うよ」
鼻をヒクヒクさせているのもまたかわいらしいし、たまらない。ウサギを飼いたくなるが中途半端な気持ちで生物を飼うのは良くないし、そもそも私の家はペット不可だ。いや、ウサギはいけるのかな。どっちにしても、自分の事で手一杯な私にはペットを飼うのは早そうだ。
「あぁ、かわいいなぁ」
真面目な声に振り向いてみれば、石崎君の目は完全に私を見ていた。
「あ、あはは、またまたぁ! そうやってからかってるの分かってるんだから! 引っ掛かると思ったでしょ! 引っ掛かりませんよーだ!」
心臓はバクバクだが、まぁ引っ掛かってやりませんよと心の中で胸を張る。知っている。この男はなんだかんだ私をからかっては面白がっていると言う事が多々あるのだ。騙されて恥ずかしい想いを繰り返してたまるものか。
「本当だよ」
「え?」
予想外の返答に、思わずもう一度見てみれば、石崎君は真っ直ぐ私を見ていた。穏やかで優しくてどこか真剣さを含んだ微笑みに目が離せなくなる。まるで体が石になってしまったみたいに動かないのだ。
「三上さんは、本当に可愛いね」
顔が熱くなって、真っ赤になって、胸が苦しくて、咄嗟に俯いた。
絶対に石崎君に好きな人がいるのか訊いてきなさいよ!
咲の言葉がまた聞こえてくる。茶化されずに、訊けるのはもう今しかない気がした。心臓が爆発しそうになりながらも、俯いたまま震える声で石崎君に問う。
「い、石崎君って、その、す、好きな人、いるのかな」
「いるよ。とっても、可愛い子」
ざわつく中で、石崎君の声だけが妙に鮮明に聞こえる。まるで他の音がその時だけ遠慮してくれたみたいに。
「次はどこに行く? 爬虫類館はまだ行ってなかったよね」
いつの間にか触れ合い広場が新たにやってきた家族連れで込み合ってきたこともあって、私達は次の場所へ移動することにした。石崎君が自然に私の手を取って引っ張って行ってくれる。
私、期待して良いのかな。石崎君が私の事好きだって自惚れちゃっていいのかな。
爬虫類館に行ってからも、石崎君はこまめに時間を確認しながら段取りよく園内を回らせてくれた。ヒグマ、ゾウ、カバ、ウマ、オウムなど、動物園の中にいる動物達を見ていくだけではなく、動物のごはんタイムや、飼育員の方による動物の説明から、昼食をとるオススメの場所など、来る前に下調べをしておいてくれていたおかげで見逃すと言う事も無く充実した時間を送る事ができた。
気がつけば夕焼けが鮮やかに辺りを染め上げていて、周囲には出口へ向かって行く家族が多くなっていた。中には親におんぶされながら眠っている子供もいた。一通り見終わった私達もまた出口を通って大通りに出る。
ネギの刺さった買い物袋を持つ女性や、仕事の鞄を持ったスーツ姿の男性。誰もが足早に大通りを歩いていく。石崎君は大きく伸びをしながら呟くように言った。
「なんか、1日あっという間だったなぁ」
「本当に、一瞬だったね」
長く伸びた影が2つ、視線の先で並んで歩いている。1つは高くて、もう1つは少し低い影が近すぎず遠すぎることもなく。
「そう言ってもらえたら俺も嬉しいな」
石崎君はそう言ってにかっと白い歯を見せて笑った。
「本当に石崎君には何から何までやってもらって……。私も下調べしておけばよかったかな」
「いいよいいよ。俺がつき合わせてるし、何より先に分かってちゃ楽しさ半減でしょ」
満足そうに言う石崎君を横目で見てみる。私より身長が高い事もあって私は少し見上げることになるが、できるだけ見つからないように、盗み見るように石崎君を見た。横顔であってもその笑顔は素敵で、明るくて、幸せを噛みしめる。この笑顔をずっと見ていられたらと思ってしまう。
「いつも、何から何までありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。俺の夢がどんどん叶っていくよ」
石崎君の声が隣から聞こえてくる、それだけで幸せな気持ちになりながら空を見上げてみる。鳥が大きく羽ばたきながら帰って行く。皆、帰って行く。
森の中。木が吊るされている。アスレチックだ。吊り橋が揺れる。悲鳴に似た声で笑っている。地上までは恐らく五メートルはありそうだ。木が鎖で繋がれた吊り橋を左右の鎖を掴みながら一歩、また一歩と歩いていく。そうして辿り着いた最終地点。木の塔みたいな所で、「木の葉自然公園アスレチック頂上」と書かれていた。周囲を一望できた。落ち葉が積もっていて、時折風に乗って目の前を飛んでいく。
「三上さん」
すぐ傍で聞こえた声と強く揺すられた感覚に引き戻される。目の前には石崎君がいて、大通りを車が走っていた。
「大丈夫? ぼーっとして、呼びかけても全然反応しないから」
心配そうに覗きこんでくる石崎君に、とにかく笑顔を向ける。
「あ、大丈夫大丈夫。私最近こういうの多くて。夢、見ちゃうのかな。なんでか分かんないんだけど。でも楽しくないとかそういうんじゃなくて、急に起こっちゃって、この前なんて咲と電話してる時に夢を見てたみたいで怒られちゃって。本当に平気なのよ。全然大丈夫なの」
「本当に?」
「大丈夫だから! 本当に! ほら、見てこの通り!」
と、力こぶを作るフリをしてみる。
石崎君がいる時に夢を見るなんてバカなの私! あぁ、なんてことを!
「そっか、大丈夫ならいいんだけど、無理だけはしないで。調子悪かったらドタキャンになってもいいから絶対に俺に言うこと」
真剣な顔で見つめられて、頷くしかなくなる。
「わ、かりました」
そう言うと、石崎君はにこっと笑った。
いつもの堤防まで来ると、私達は大きく手を振った。
「またね、石崎君!」
「うん、また来週!」
また来週があるんだと別れ際に思う。また来週石崎君に会えるのだと。
いるよ。とっても、可愛い子。
好きな人がいるのかという問いにそう答えた石崎君。その好きな人が私だったらいいなと思いながら、私もまた帰路につくのだった。
夕暮れの人気のない公園のベンチに、石崎圭太は座っていた。いつものようにうなだれたように、眉間にしわを寄せながら。
「なんで、俺は……。こんな……。こんな……。ごめん、ごめんな」
絞り出すような声でそう言いながら圭太はただ涙を落とした。手の上に留まった涙の粒は圭太の手が震えると輪郭に沿って流れ落ちていく。
そんな圭太の元にそっと少年が近付いた。
「おにいちゃん、また、ないてるの?」
圭太ははっとして涙を拭くと、目の前にいる自分の腰程の背丈の少年に無理矢理笑顔を向けた。
「なんだ、いたのかぁ。見られてるとは思わなかったよ。格好悪いところ見せちゃったなぁ」
そう笑っているものの、頬に濡れた筋がもう1つできた。
「かなしいの?」
少年は圭太の隣に座って見上げる。
「あぁ、泣いちゃうくらいね。でも俺は大人だから大丈夫だよ」
「おとなでも、かなしいときはないてもいいんだよ」
圭太は少年に微笑むと、その小さな頭を撫でてやった。
「優しいなぁ。心配してくれてありがとうな」
「ううん。もう、だいじょうぶなの?」
「大丈夫。元気出てきたよ」
そう言うと、少年はにかっと笑った。
「よかった」
「じゃあ、俺帰るから、君も暗くならないうちに帰りな」
「うん!」
少年が帰って行くのを見送ってから、圭太は目を伏せた。