第2章 小さな夢を叶えに(2)
目の前に広がるのは巨大な湖。透き通る透明な水の中を横切って行くのは小魚。手を伸ばせば一瞬の間に手元から逃げて、もう見えないほどに小さくなっていく。そっと水に触れてみる。氷を触ったような痛みに近い感覚。周囲で声が聞こえている。子供も大人も、皆が楽しそうに。
「……ん。か……さん……三上さん」
石崎君が心配そうに私の肩を揺すっているのに気づくと、目の前には人の列。周囲にはパンが台の上にズラリと並んでいて、誰もがトレイとトングを持って吟味している。右手には焼きたてと言いながら防止とマスクをつけた店員がパンの並んだトレイを持って奥から現れ、左手には親の服を引っ張りながらねだる子供の姿がある。そこまで見てようやく今石崎君が来たかったパン屋に来ていた事を思い出した。
レジでは店員が客に持ち帰るかを訊き、傍では何を買うかトングを開けたり閉めたりしながら話したり、物音や声で満ちている。そんな店の中で私は夢を見ていたのだろうか。
「大丈夫? 今日体調悪かった?」
不意に石崎君の顔が視界に入ってきた。石崎君の表情には今彼の頭の中を満たしている考えがそのまま表れていた。
「大丈夫。心配しないで。体調はいいんだけど、なんか夢を見てたみたいで」
って、こんな事言ったらつまらないと思われちゃうじゃない! 何言ってんのよ私は。
斜め上を見ていたかと思えば、合点が言ったように石崎君が私を見た。
「三上さん最近ちゃんと寝てないでしょ。だってクマができてるし」
「うそっ!」
思わず目元を手で隠す。
そんなに睡眠不足でもないのにクマができるとは、これからはもっと寝ないと不健康な女って思われちゃう。あぁ、でも別にそんなに寝不足でもないのになぁ。
ふと前を見てみれば、石崎君の肩が揺れている。
「ま、まさか」
目を細めてみると、石崎君は目に涙を浮かべながら笑っている。
「嘘だよ嘘。クマなんてできてないって」
「何よ、そんなに笑わなくてもいいでしょ」
「あまりにも三上さんが真剣に目元を隠すもんだから面白くて」
この男、どうやら事あるごとに私をからかってくるようだ。案外腹黒かも。笑われて悔しい気持ちはあるけど怒る気になれない。むしろ、こうやって楽しく話ができるのが嬉しいと言うか……。
「それより、パンは1個でいいの? 足りる?」
石崎君がそう言ってトレイを見せてくるが、私の意思は変わらない。メロンパン1個。今日の昼食メロンパン1個。もちろん個人的にはメロンパンくらい五つは通常営業と言っても過言ではない。メロンパン1個なんておやつにもならない。昼食に、なんて100パーセント足りるはずもないが石崎君に大食いと思われるくらいなら空腹ぐらい我慢しようと思う。あぁ、食べたかったな、メロンパン5個。
石崎君は3個、パンを選んでいる。メロンパンと、クリームパンと、あんパンだ。クリームパンももちろん食べたかったが今日は諦めるしかない。後日もう一度ここに来てクリームパンもメロンパンも買いこんでやろうと1人で誓う。
「足りるよ。大丈夫大丈夫」
もちろん全然大丈夫じゃない。お腹が鳴らないようにとご飯を3合程朝ごはんに食べてきたというのに、もうお腹が空いているなんて自分でも悲しくなる。お腹は今にも鳴りそうで、常に腹筋に力を入れ続けたせいか、早くもプルプルと震えてきている危機的状況。頭の中は石崎君との会話を楽しむ以上にお腹鳴るなという暗示に似た声で一杯である。
「分かった。じゃあ、これでお会計だね」
さよならクリームパン。また今度買いに来るからね。
会計を済ませて店を出た私達は合流した堤防に帰ってきた。昼間だけど誰1人いない。タンポポが揺れる草地に伸びたコンクリートのなだらかな階段は、私達が初めて会話した思い出の場所だ。草が揺れ、花が遅れて揺れる。まるで合唱している子供達の様に、一斉に、でもどこか不規則に。蝶が1匹、風にあおられて身を翻すように飛んでいる。体勢を立て直してから近くにあったタンポポにそっと留まって羽を休めた。
「つくしも生えてるね」
石崎君と並んで座る。隣を見てみれば、草の間から身長のバラバラなつくしが気をつけをしているように真っ直ぐに生えていた。
「今日は天気もいいし、気持ちいいね」
石崎君に倣って私も空を見上げてみる。
「そうね」
綿菓子に似た雲が1つ、2つ、3つ……。
そういえば、雲は小さい時綿菓子だと思ってたっけ。綿菓子じゃないと知った時の衝撃と言ったらもうこの世の終わりを知った時みたいだったな。だって、結局あれただの水なわけだし。綿菓子食べ放題の夢が消え失せたわけだもんなぁ。あんなに小さな雲だって、目の前にしたら結構大きな綿菓子なんだろうな。あんなに食べられたらいいよなぁ。お祭りで買うのは量が少ないし、そんなにたくさん持って歩けないし。
「美味しそうだね」
「そうね。でもあれ水蒸気だから」
隣を見ると、レジ袋の中に収まった4つのパンを覗いた状態の石崎君と目が合った。
ちっがぁぁぁう! なんで今綿菓子の話の続きを石崎君とするの! 違うでしょ私! なんでここでまた食欲出していくのよ。こんなの、なんて言ったらいいのか。
「水蒸気?」
「パ、パンって蒸してるのかなぁ、なんて……あはは……」
「パンって焼くんじゃなかったっけ? 確か、イースト菌を入れて発酵させて、オーブンで」
「あ、そっかぁぁ! そうだよね。パンって焼くものだよね。蒸すのは肉まんとかだよね!」
危ない危ない。もう少しで雲が綿菓子に見えてる食欲の塊とか思われるところだった。
「はい、これ」
石崎君から手渡されたメロンパンを受け取って、唾液を呑み込んだ。
昼食はメロンパン1個。昼食はメロンパン1個。
「俺さ、こうやってあの店でパンを買って誰かと食べるのが夢だったんだ。天気のいい日に、外でのんびりと。小さな夢だろ? でも、俺はこういう小さな夢っていいと思うんだよなぁ」
頭上に浮かぶ雲を眺めながらそう言う石崎君は、どこか寂しそうにも見えた。記憶を失って、友達の事も両親の事も分からなくなって、誰かと一緒にこうやってパンを食べる事でさえ石崎君にとっては特別な事なのだ。それ以上に、
「私も素敵だと思う」
と、思うままに言うと、石崎君は驚いたような顔をした。
「私もね、そういう小さな夢いいと思うから。だからまた何か夢があったら遠慮なく言ってよ。私にできる事ならやるよ!」
石崎君が固まったまま見合う事数秒、急に勢いのまま言ってしまったことに恥ずかしさがこみ上げてきた。会って間もないのにがっつく女と思われたのではないかという思いに後悔が膨らむ。今さら言ってしまった事は消せないと慌てていた私をよそに、石崎君は突然笑い始めた。
「やっぱりそういう人だよね、三上さんは」
そういう人? それはプラス表現かそれともマイナス表現か?
「いやいや、それってどういう人なの?」
「何でもかんでも楽しめそうってこと!」
非常に反応に困るのだが、石崎君は一人目に涙を溜めてヒイヒイ言っている。
「大丈夫、いい意味だから」
いい意味と言う割にはよく笑うじゃないか。ご丁寧に目に涙まで溜めちゃってさ。
「何よ。とか言って本当はまた私の事からかってるんでしょ? 知ってますよーだ。いいのよ、私は小さな夢で満足する女なの」
このパンを食べるという流れも全て私をからかう布石に違いない。小さい夢っていうのも素敵だと心から思っていただけに、ちょっと悲しくなるけど。
「違う」
急に声のトーンが変わったと思えば、石崎君の表情は先ほどとは打って変わって、真剣なものになっていた。
「え?」
軽い雰囲気など消し飛んで、真剣で真面目な雰囲気に戸惑ってしまう。石崎君はじっと私を見てくる。ただ一度も目を逸らすことなく。
「え、え? あの、その」
「三上さん」
徐々に寄ってくる石崎君を前に私は固まってしまっていた。
「俺、ずっと思ってたんだけど」
ごくり、と喉が鳴る。手が震える。もしや、まさか、もしかして。
「食べるのすごく早いよね」
「え……」
沈黙する事数秒、そっと手元を見ると、もう手元にはメロンパンが無くなっていた。
た、食べ終わってる! 1個しかないから一口で百回は噛んでやろうと心に決めてたのに、いつもの癖で、大口で食べちゃったなんて。そんな、そんな。
そんな私の隣からまた笑い声が聞こえてくる。
「そんなにびっくりしなくても! 今モアイみたいな顔になってたよ!」
モアイなの? そこ、例えるのがモアイなの? 今の空気は完全に告白的な空気だったじゃん。何よ私だけ一喜一憂しちゃって。会ったばっかりなのに私ばっかり振り回されちゃって。モアイとか言われちゃうし、恥ずかしいし。
自分の女子力の無さに肩を落としていると、
「はい」
と言って目の前に差し出されたのは石崎君が買ったクリームパンである。石崎君の顔を見てみれば、からかうのではない優しい笑顔を浮かべていた。
「1個じゃ足りないっしょ?」
「え、いや、私は」
「クリームパン、嫌い?」
「好きだけど」
「なら、一緒に食べよ。そっちの方が俺も嬉しいし」
「あ、ありがとう」
石崎君がくれたクリームパンはとても優しい味がした。もしかして、1個じゃ足りないと思ってわざわざ私が好きそうなクリームパンを選んだんだろうかと思ってもみるが、そう考えてしまうと嬉しいよりも大食いがばれていたのではと、恥ずかしさが勝ってしまいそうで止めた。1つ分かるのは、石崎君はいたずら好きだけど、それ以上に優しさがあるという事だ。
昼食を食べ終えると、石崎君は笑顔を向けてくれた。
「ありがとう。これで俺の夢1つ叶ったよ」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
クリームパンももらっちゃったし。
「俺さ、小学校から高校まで野球をやってたらしいんだ」
足を投げ出すようにして空を仰ぎながら唐突にそう言った。石崎君は空に顔を向けて目を閉じ、数秒してからゆっくりと瞼を開けた。
「俺の母親がそう言ってた。野球一筋で、甲子園に行くんだーって言って毎日毎日練習してて、ポジションはピッチャーだったらしいよ」
「すごいねそれ」
「自分の事だけどさ、俺もそう思う。結構うまかったらしくて、高校も野球で行ったようなものらしい。母親がさ、俺が載ってた記事を切り取って残してたみたいで、見た時はびっくりしたなぁ。甲子園まで行ったとかって」
石崎君がそこまで一生懸命に野球をしていたのはなんだか意外だった。野球部には元々丸刈りみたいなイメージが勝手に定着していたからかもしれないけど、それ以上にマイペースで自由奔放な石崎君が野球に熱中して一直線に甲子園を目指していた、というのはどうしても想像できなかった。
「なんか不思議な感覚なんだ。親から過去のこと聞かされて、写真も見せてもらっても、俺にはそんな日々を過ごした記憶が1つもない。ただ写真に俺が映ってて、試合の動画には俺が映ってるのに自分の事とはどうしても思えなくて、どこか他人を見てるみたいなんだ」
石崎君に記憶がない。記憶が消えてしまった感覚は私にはわからないけど、やっぱり違和感を常に抱いているのかもしれない。
「野球一筋だったくせに、甲子園まで行ったら飽きたのか、野球に関係ない大学に入学してるし。自分の事だけど変わった奴だなとは思う」
自分が何を思って、考えて選択したのか石崎君には分からない。どこを探しても見つかる事がない。そう話す石崎君の横顔は、どこか寂しそうに見えた。いつも笑っているけれど、どこか不安で、寂しいのかもしれない。野球の強豪でも無かった大学に入学していたのだから、野球が目的で受験したわけでもない。それでもきっと、過去の石崎君には彼なりの考えが合ったに違いない。
「もしかしたら、学びたい事があったのかもしれないよ? 野球よりももっとやりたい事が見つかったんじゃないかな」
石崎君は納得したように何度か頷いた。
「なるほどね。人生をほとんど捧げてきた野球よりやりたかった事、か。じゃあ、過去から見ても、俺は今が一番なのかもしれないな」
と、笑ってくれた。もっと気の利いた事を言えたらよかったのにと言う気持ちは心の奥にしまっておく。
「でも、どうして無くなっちゃったんだろう。それが分かったら、もしかしたら忘れちゃったことも思い出せたりするかもしれないのに」
野球を通じてたくさんの仲間ができていた。けれど大学に行った時点で石崎君のそれまでの記憶は跡形もなく消え、友達だったらしい人とは連絡を取り合う勇気も無かった。何を話せばいいのか、今さらどう接すればいいのか分からなくなり、疎遠になってしまったのだと言う。その事を聞いているだけで私の方が泣いてしまいそうだった。優しい人なのに、素敵な人なのに、大切な記憶が消えてしまった。もしかしたら今仲間に囲まれて笑っていたかもしれないのに。
「まぁ、無くして良かったものもあったかもしれないけどね。医者からはストレスが大きすぎてポーンって消えちゃったのかもとも言われてるしさ」
「ストレスで? そんな……」
まるで楽しい話でもするように話していたけれど、私にとっては衝撃的だった。
ストレス、なんて一言で片付く問題じゃないし、ストレスはどこにだってあるもの。石崎君がこれからどうすればいいかも、どうしたら思い出せるかも、ヒントすらない。そんなあまりにも曖昧な原因を理由にするの? あまりにも強引じゃない。
こんなに明るくて素敵な人からこれ以上大切な記憶を失わないで欲しいという気持ちでいっぱいだった。体を石崎君に向けて、こみ上げる気持ちをしっかりと伝える。
「私にできる事があったら何でも言ってね。愚痴とか気にしないし、いつでも言ってくれていいし」
「お、それは頼もしいなぁ」
石崎君はまるで私を慰めるような、そんな優しい笑みを浮かべた。悲しいのは自分のはずなのに、私に悲しまないでと言っているようなそんな表情を見て心が苦しくなる。
「じゃあ、早速セミのモノマネしてもらおうかな」
え? その顔で突然それ言うの? ストレス軽減方法ってお笑い系なの? いきなりセミのモノマネはレベル高くない? いや、でもこれは石崎君のためで、石崎君のためにやることでっ! そうだ、ここで恥ずかしがってちゃだめだよね。ここは石崎君のために一肌脱いで……。
「それは、ミンミンゼミでしょうか、アブラゼミでしょうか、それともツクツクホウシでしょうか」
石崎君の肩が揺れだしたかと思うと、また吹きだした。
「いや、今のは明らかに冗談でしょ!」
「ちょっと! またからかったのね! 本気で覚悟決めたのに!」
「いや、さすがにセミのモノマネ女の人にさせようとは思わないって! 本当に面白いよね、三上さんって」
お腹を抱えながら涙を拭くのを見ていると、鼻にワサビでも突っ込んでやろうかという気持ちになる。なんだったらワサビだけじゃなく唐辛子も突っ込んでやろうか。
「真剣に話してるのに!」
「知ってるよ」
またトーンが変わった。真剣に、真っ直ぐに私を見てからふっと優しい笑顔を向ける。
「三上さんには、もう夢を叶えるの手伝ってもらってるから。そんなに気負わなくていいんだよ。ありがとう」
石崎君はまた空を見上げた。
「三上さん、本当に優しいよね。涙出そうなくらいに」
無言で空を見つめている様子を見て、私は真剣に言った。
「泣いてもいいのよ。泣くのは、恥ずかしい事じゃないと思うから」
「優しいなぁ。本当に」
震えるような声が聞こえて隣を見ると、涙が頬を伝い落ちていくのが見えた。
「なんで、こうなっちゃったんだろうなぁ」
と、石崎君は悲しみに震えた声でそう言ってから俯いた。頬を転がるように伝い、零れ落ちていく涙を見てそっと石崎君の背中をさすった。ほんの少しでもいい、彼の苦しみが和らぎますようにと祈りを込めて。
影が随分長くなった頃、私達は堤防で別れることになった。すっかり笑顔を取り戻した石崎君は来た時と同じように明るかった。
「なんか湿っぽくなっちゃってごめん。でも楽しかったよ、ありがとう」
「そんなことないよ! 本当に、私にできる事があったら何でも言って!」
また会いたいという気持ち以上に彼にできる事をしたかった。もちろん、もう一度会いたいという下心も会ったかもしれないけれど。
驚いた顔の石崎君を見て、必死すぎるよねと俯いて自省する。
「じゃあ、次の夢も一緒に叶えてもらいたいな」
はっと見上げると、そこには石崎君の笑顔があった。
「また、三上さんに付き合ってもらおうと思う。また来週、俺の夢に付き合ってもらうことになるから覚悟しといて」
そう言って笑う石崎君を見ているだけで胸が温かくなる。もう一度会えると思うだけで嬉しくなる。笑顔でいて欲しい。幸せでいて欲しい。できる事ならその苦しみを和らげたい。それ以上に、彼を支えたいという気持ちで溢れていた。
あぁ、ダメだ。やっぱりどうしようもない。私はどうやら石崎君の事を好きになってしまったらしい。明るくて、優しくて、いたずら好きで、それでいてどこか寂しいこの人に。
「うん!」
「じゃあ、また来週!」
笑顔で手を振る姿に、私も大きく振り返した。また会える。また次の週末に会えるんだ。そう思うと大きく振れた。これは別れではないから。次があるのだから。
遠くに大きな山が見える。青い、大きな山。山頂に積もった白色は雪。車窓ではない。視線の先に大きく構える山。太陽が眩しい。雲ひとつない快晴の空の下、富士山がそこにはあった。
はっとすると、茜色に染まった堤防に石崎君の姿は既に無い。
「やっぱり、寝不足なのかな」
そっと目元に手をやる。
「クマができちゃう前に何とかしないと! よし、今日は早く寝るぞ!」
と、気合いを入れて帰ろうとして、もう一度石崎君が帰って行った方向を見る。
「に、してもなんで壊れた腕時計つけてるんだろ。次に会った時に訊いてみよっと」
私もまた堤防を後にした。
ふらり、と今にも倒れてしまいそうな様子で石崎圭太は公園を訪れた。辺りは夕暮れ、誰もいない公園で力なくベンチに腰を下ろす。萎れた花の様にうなだれ、目線は地面に落ちた。蟻が1匹、砂の粒を忙しなく上り下りしているのをぼんやりと眺める。孤独に一心に進み続ける。あてなど無いだろうに、まるでゴールが分かっているかのように。
そんな圭太の視界に、薄黒い煙が漂い始めた時、
「あら、圭太君、じゃない」
と、わざとらしく名前を強調しながら現れたのはスリットの入ったタイトなミニスカートに胸元の開いたスーツを着た女だった。高いヒールは五センチを優に超えており、ただでさえ高い身長が更に高く見える。
「随分疲れてるみたいね」
「まぁ、覚悟はしてたけどここまでとは思わなかった」
と力なく笑う。女は圭太の隣に座るなり引きしまった脚を回すように華麗に足を組んだ。
「でも三上桜は何も気づいていない。私が言ったこと気をつけてるんでしょう」
「あぁそうだ。何も、何も知らない」
女は険しい表情になる圭太の肩にもたれかかると、圭太の腕に自身の手を這わせた。
「何も知らない今の彼女を見ていると苦しくなるのかしら? でも仕方ないわね。あなたの願いのためだもの」
「そうだ。俺の願いのためには今気づかれるわけにはいかない。どれだけ辛かろうがこれだけはやり通す」
少しずつ下りていく手に反応する事も無くただ圭太は足元を歩く蟻を見つめていた。視界に侵入してくる黒い煙に、圭太は眉間にしわを寄せる。
「あんた、タバコでも吸ってるのか?」
「見えるんでしょう? この煙」
女が圭太の目の前に漂う煙に指を添わせると、煙はまるでその手を避けるかのように形を変えた。
「誰にも見えず、臭う事も無いこの真っ黒な煙は私と関わりを持った人間にしか見えない。とはいっても、今は薄くなっているけれど」
そうして圭太の頬に手を当てると、唇に親指を添わせた。
「とにかく、あなたはただ自分がすべきことをすればいい。どれだけ傷つこうが、後悔しようが、願いのために続けるがいいわ。そうすればあなたの願いは叶うから」
煙は少しずつその黒を失って女の周囲は靄がかかったようになる。
「この調子で頑張って。圭太君」
不気味な笑みを浮かべてわざとらしくそう呼んでから去ろうとした女に圭太は問うた。
「あんた、何者なんだ?」
女は足を止めると、目を伏せた。
「さぁ。私は一体何なのかしらね」
沈黙すること数秒。女は言った。
「あぁ、でも、関わった人間は私を悪魔とも、魔女とも呼んでいたわね」
女が去った後、圭太は1人ベンチで両手を握りしめていた。じっと一点を見つめていた圭太の手には徐々に力がこもり始めていた。爪の痕がつくほどに強く。
涙が一筋、続いてもう一筋、頬に痕を残していく。地面に落ち、やがて染み込んで消えていく。
「ごめん。ごめん。ごめんな……」
絞り出すように圭太はそう繰り返した。
公園を囲むように立ち並ぶとある一本から圭太を見る人影が1つ。5歳程の少年が顔を半分覗かせて、どこか心配そうに見守っている。ただじっと、声を殺しながら涙を落とす圭太を見ていた。