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第10章 怖い夢の中で

第10章 怖い夢の中で


 商店街は賑わっていた。進行方向によって自然と別れる人の流れに乗りながら歩いていた俺は、隣に見えてきたペットショップを見た。仔犬や仔猫がガラスケースの中で何も知らずにもつれ合いながらはしゃいでいる。中にはケースの中で1匹、近づく人に反応しては眺める人を喜ばせていた。できれば無事全員が素敵な飼い主に巡り合って欲しいものだと思いながら歩いていた俺は隣を歩く背の低い彼女にそっと目線を移した。じっとペットショップの一点を見つめており、その方向には動物用のケーキが並んでいる。食べ物に目が無い桜は今頃頭の中で美味しそうだなとか、動物もケーキ食べる時代なんだとか考えているに違いないと勝手に妄想を膨らませて笑いだしそうになるが、今笑ったらバレてしまうと必死に笑いをこらえた。


「可愛いね」


と話しかけると、ようやく仔犬や仔猫の存在に気がついたらしくすぐに笑顔を向けてくれた。目が泳いで引きつった笑顔を。


「そ、そうだね」


犬も猫も見ていなかったってバレバレなのにも関わらず一生懸命ごまかそうとする姿が可愛くて、ついつい吹き出してしまった。


「な、何よ」


「いや、別に隠さなくても、ケーキ食べたいって言えばいいのになって思って」


「し、知ってたの?」


「いや、もうバレバレ」


「引っかけたわね!」


と顔を真っ赤にしながら俺の腕を叩いてくる。なんて可愛いんだろう。もう少しで社会人になる。卒業して働いて、収入が安定したらプロポーズをしよう。この人以外に結婚相手にしたい人なんてありえないのだから。


「すぐそうやって人の事からかって」


可愛く不満を表現する桜の先に湯気の立ち昇る店が見えた。肉まんを売っているのが見えて、すかさず指をさしてみる。


「あ、桜、前に肉まん売ってる所あるよ」


「え? どこどこ?」


先ほどの不満など忘れてしまったようで桜は商店街の先を背伸びしたり縮んだりしながら探している。そうして人の間から見えた肉まんの店を見つけると、途端に目を輝かせた。


「あった! 行こ! 早く行こう!」


そう言いながら両手で俺の手を引っ張った。小さな手。細い指。その手はいつも俺を色んな所へ引っ張って行ってくれた。その手をいつか俺が引っ張りたいと思う。いつもいつも俺に幸せをくれる桜を色んな所に連れて行きたいって思うんだ。


「見て! 超激辛唐辛子肉まんっていうのあるよ!」


店の前まで来ると、桜はそう言ってポスターに載せてある具が真っ赤な肉まんを指さした。


「これ、買って帰らない?」


「やめといた方が良いと思うけど」


食欲旺盛だからって激辛まで受け付けるとは思えない。桜はすぐににんまりと悪そうな笑顔を浮かべた。

「ふふ、私達は普通のを食べるのよ。その代わり、……君と……君に食べてもらうの」


「お、いいね。面白くなりそう」


「でしょ? 元々……君も……君もノリがいいから絶対面白いよきっと!」


「主も悪のう」


「圭太君程では」


俺と桜は2人して悪そうに笑う。


「ほら、並ぶよ圭太君!」


桜がまた俺の手を掴むと、強く引っ張った。そうして俺の名前を呼ぶのだ。




圭太君!




圭太君!




……太……。




圭……太……。






「圭太?」


はっとして目の前の景色に注意を向けてみる。木製の机、並べられた料理、零れ落ちた米粒。そして左手には茶碗、右手には箸。そこまで来てようやく今実家に帰って来ていたのだと言う事に気づいた。あまりに鮮明な記憶に、まるでその場にいるような感覚だった。あれはまだ大学生だった頃一緒に有名な商店街に出かけた時の記憶。桜は食べ物に目が無くて、元気いっぱいだった。あの時はまだ桜が俺の手を引いていたものだった。


「大丈夫?」


顔をあげてみると、そこには両親らしい人達が心配そうに俺を見ていた。確証も思い出も無い、家族らしい人。大学時代から一緒にいるが俺にとっては家族とはどうしても思えなかった。突然目の前にいた人が両親と言われた所で何をどうしたらいいのか分からない。互いに変に気を遣う空気が嫌でたまらず、俺はバイトをして、お金が貯まってすぐに家を出たのだ。桜の一件もあり、どうしても一度家に帰ってきて欲しいと言われ、仕方なく実家に行ったのだが両親と話す気には到底ならなかった。


「大丈夫」


生返事をしながら出された夕飯を無理矢理押し込んでいく。味は無い。


「ごちそうさま」


早々に夕食を切りあげ、俺は散歩してくると言って家を出た。


 辺りは暗く、蒸し暑かった。人のいない夜の道をただ孤独に歩く。


 俺は、今何をしてるんだろう。


 悲しむでもなく、楽しむでもなく、ただ時間を浪費する日々。特別な日であろうと、それは甘みのないケーキを食べ、炭酸の抜けた炭酸ジュースを飲んでいる様な感覚だ。刺激のないただの時間の流れ。桜を失ってから俺は驚くほどに空っぽだった。


 桜のためにデートの場所を考えた。桜のために料理を勉強した。桜のために、桜のために。あまりにもそれが俺の人生を満たしていて、休日が来ても何をどうしていいか全く分からない。桜が俺の行動理由そのものだった。


 記憶を失って、君が全てだったこの人生に、これ以上苦しい事など無い。全て夢であって欲しい。時間が遅い。まるで自分だけ永遠の様な時間の中にいるようで、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだった。


 潰してくれ。潰れてくれ。桜がいない世界に何がある。桜のいない世界に価値などない。この世界に未練なんて無い。俺の全てを受け入れてくれた桜がいない世界なんて。


 目の前を黒い煙がかすめた。見覚えのあるその煙は徐々に薄くなっていく。まるでモーセが海を割った様に、その煙を割りながらその女は現れた。いつもと違う、浮かない顔で魔女は目の前までやってきた。


「一番こういうところが落ち着くのかしらね」


ふと気がつくと、そこは公園だった。何度も通った所ではなく、実家の近所にある小さな公園であるのはブランコ、ジャングルジム、鉄棒くらいなものだ。


「石崎圭太、あなたの願いは叶ったでしょう? 三上桜の夢を叶えると言う願いは」


「あぁ、叶ったよ。あんたのおかげで桜は笑って逝った」


それでも俺は自分自身を許す事ができなかった。


「俺は自分の身勝手のせいで桜が本当は知らなくて良かった死の恐怖を与えて、もう1度死なせてしまった」


桜に知らなくていい苦痛を与えたのは俺自身だ。何もできないくせに浅はかな考えに流された。


「あんたは悪くない。悪いのは俺なんだ。俺だけが生きて、俺が桜に苦痛を与えてしまった」


魔女はぼんやりと空を見上げた。


「私に何か言いたい事があるかしら?」


先ほどより薄く漂う煙が形を変える様子を見ながら魔女は問う。


「桜の所に、連れて行ってくれないか?」


この世界に用は無い。桜がいない場所で、どう幸せになれと言うんだろう。桜に会えればそれでいい。俺の人生には桜がいた、それだけで満足だ。


「断る」


魔女はブランコに腰を下ろすと興味を失ったかのような目で見た。


「なんでだよ」


「私ね、投げやりな奴嫌いなの。自分の可能性に目を向けず、どこにでも転がっているチャンス、希望も見て見ぬふり。そうして自分の悲しみだけを見て全てを投げ出す。自分が一番辛くて悲しいと思ってる。そんな自分に酔って何も見ようとしないし考えようともしない」


不満を露わに非難され、怒りがこみ上げてくる。


「あんたに何が分かるって言うんだよ」


「分かるわ」


魔女はバカにするでもなくただ真剣に俺を見た。


「でなければ私はここにはいないから」


ここには、いない?


「それって一体どういうことだよ」


「さぁ、もう時間ね。選択の時が来た」


突然視界がぐにゃり、と歪んだ。


 はっと気がつくと、目の前には地面があり、どうやら両手をついているらしかった。何故か頬は涙で濡れ、地面にも染み込んだ跡がある。一瞬飛んだ意識をかき集めて何とか状況を飲み込もうとする。


「何で、俺、手をついて……」


頭がぼーっとするわけでもなく、体調が急に悪くなったわけでもない。


「一体、何が」


「それには答えられないわ。その代わり過去のあなたから、今のあなたと事故の日のあなたの中身を数分間入れ替えてくれって頼まれた。もちろん、必要なものもしっかりともらってる。まぁ、過去の自分と入れ替わってどうするかはあなた次第だけどね」


魔女が指を鳴らすと、急に目眩の様な感覚が襲ってきた。魔女に事情を訊く前に、目の前に立っている俺自身に目が向いた。自分の体が目の前にある。まるで幽体離脱をしているかのように。そんな不思議な状況の中、魔女は俺を見て笑う。


「入れ替わる前に、過去のあなたからの伝言よ。手は引くな。メモを逆にしろ、だそうよ。それじゃあ行ってらっしゃい。正しい選択をね」


後方に吸い込まれていく感覚があり、振り返ってみると目を開けていられない様な光の塊が存在していた。足を踏ん張ろうが否応なしに体は引きこまれていく。


「一体、どういう意味だ! 説明しろ!」


魔女は笑顔で手を振るばかりで、耐えられない力で引きずり込まれる。突如光に包まれ、眩しさのあまり腕で顔を隠し、目を強く瞑った。


 目を開けられない程の強い光の中、俺は思考を巡らしていた。


 俺は魔女と桜の命を延長させることしか取引していない。それなのにもう取引している? 必要なものをもう渡している? 中身を入れ替える? 桜の遺した言葉?


 理解が追いつかない。何が起こっているのか、過去に俺が何をしたのか順を追って思い出す中で、桜の声がふと蘇った。




「宏君と蓮君と、今まで通り仲良くするんだよ」




俺がこの名前を聞いたのは記憶を失ってからの事で、両親と名乗った人達から聞かされたものだ。この2人は俺の親友だったらしいがどう連絡をしたらいいのか分からず結局疎遠になった。大学に入学した時点で俺には記憶が無かった。つまり、桜はこの2人を知るはずがない。それなのに、何故桜は知っているんだ? 俺はこの2人と大学で仲良くした覚えは無い。桜と俺には決定的な記憶の差がある。何かが、何かがおかしい。


 急に視界が戻ってきて、俺は周囲を見回した。隣にはきょとんとした桜がいた。隣には大通り。あの事故の日に俺は来ていた。遠くに猛スピードで走ってくるトラックを見つけ、俺ははっとした。ここから急いで逃げれば桜を救う事ができるんじゃないかと。すぐさま桜の手を取ろうとして、魔女の声が頭の中でこだました。





「入れ替わる前に、過去のあなたからの伝言よ。手は引くな。メモを逆にしろ、だそうよ。それじゃあ行ってらっしゃい。正しい選択をね」





過去の自分が俺に残した言葉。手は引くなと言う事はつまり、今桜の手を引いて逃げても意味が無いと言う事。魔女が正しい選択をと言っている以上これは信じた方が良いだろう。でもメモは? 俺は何も持ってないし、メモ帳も会社に置いているだけで肌身離さず持ち歩くような事は無かった。


 トラックが徐々に迫ってくる。今にも逃げ出したい気持ちを抑えながら頭をフル回転させるが何も浮かばない。デートの最中にメモしたと言う事も無い。メモが何を意味するのかが全く分からなかったが、メモという案は悪くは無い。俺が入れ替われるのは数分間だけなら、過去の自分に何か伝言を残せば桜を助ける事ができるんじゃないか?


 俺はすぐに鞄の中から手帳を取り出した。手帳のメモのページを勢いよく広げ、そうして俺は目を見開いた。






 魔女は目の前でキョロキョロと周囲を見回す圭太を見た。


「あれ? 桜、は?」


「信じられないでしょうけど、今あなたがいるのは未来。私の力であなたと未来のあなたの中身を入れ替えてるの」


「一体、どういう意味ですか?」


状況が飲み込めずにいる圭太を魔女は興味なさげに見た。


「未来のあなたとの取引でどうせ今の記憶だって頂くから意味無いでしょうけど、暇つぶし程度に話してあげるわ。未来のあなたが今一体何を望み、何をしているのか」


圭太はどことなく真剣な魔女の雰囲気を察して口を閉じた。


「大通りを歩いていたあの後、三上桜は落ちてきた鉄骨によって死んだ」


目を限界まで見開いて圭太は絶句した。


「あなたはトラックが猛スピードで迫っている事に気がついて三上桜の手を引いて助けようとしたの。けれど逃げた先で工事現場の鉄骨が落下してきて死んだ。そうして未来の石崎圭太は三上桜の夢を叶えるために一時的に彼女の命を延長させることで未練なく死ぬ事ができるようにした。


 その願いは果たされたけれど、三上桜のいない世界にどうしても納得できず、私にもう一度願ったの。あの事故の日の自分と入れ替えてくれって。そうそう、あなたは初めて聞くんでしょうけど、私は魔女なの。相手の中にある大切なものを頂く代わりに力をあげている。物々交換と言えば分かりやすいかしらね」


過去の圭太は、目の前にいるのが本当の魔女なのだと無理矢理理解した。本来なら信じるにも値しないおとぎ話程度に考えていただろうが、目の前にある光景が何よりの証拠であり、疑いようが無かった。


「あの時手を引っ張るのではなく、運転手を起こせていれば良かったんじゃないかって後悔した石崎圭太は、事故の日の自分自身と今の自分自身を体ごと入れ替えて欲しいと言ったけれど、そうするには石崎圭太の中にあるものでは足りなかった。だから事故が起こる前数分間だけ中身を入れ替えるならできると言ったの。入れ替わっている間の過去と未来の二人の石崎圭太の記憶と、生まれてから中学校に入学するまでの大切な人との記憶を犠牲にできるなら、してあげてもいいって提案してあげたのよ。そうしたら少し迷って、それでも私にやって欲しいと頼んだ。その際、私に手を引っ張るなという伝言を一緒に頼んだ。そして、石崎圭太はもう一度事故の日に戻った。


 伝言の意味を理解して、石崎圭太は三上桜の手を引こうとはしなかった。代わりに野球部で培ったコントロール力を生かして、足元に落ちていた石をトラックのフロントガラスに投げて運転手を起こそうとした。けれど、私が入れ替えたのは事故が起こる数分前の話。当然トラックは遠すぎて石は当たらない。だから石崎圭太は過去の自分に伝言を残すことにしたの。手帳のメモのページを千切って、ペンでメッセージを残すことで過去の自分がそれに気づき、三上桜を救ってくれる事に賭けた。メモが飛んでいかないようにポケットに入れて、ね。でも過去の石崎圭太、つまりあなたはポケットに入っているメモの裏面しか見ていなかった。何も書いてない紙に気を取られてもたもたしている間に、三上桜はトラックに轢かれて死んだ。


 未来に戻ってきて、石崎圭太は過去を思い返してみて、何も状況が好転していない事に嘆いて泣いていたの。そうして、あの時どうしてメモの裏を見なかったのかとひどく後悔していたわ。だから今度は入れ替わっている間の過去と未来の二人の石崎圭太の記憶と、中学校から大学に入学するまでの記憶と引き換えに過去の自分と中身を入れ替えてあげても構わないと言ってあげた。そうしたらまた頼んだの。そしてまた、私に伝言を頼んだ。手は引くな。メモを逆にしろという伝言をね。そうしてまた、過去のあなたと入れ替わって、今まさに三上桜を助けようとしている最中」


魔女は一息つくと、圭太から目を逸らし、悲しげに先ほどまで圭太が泣いていた場所を見た。


「未来のあなたは言うのよ。過去の記憶が無いと。だから大学で出会った三上桜が全てだと。でも、記憶が無いのは当たり前なのよ。石崎圭太は私に記憶を渡してしまった。いくら私でも過去の記憶を過去のあなたからも頂くのは大変だから、事故の日を境にして私は記憶を奪った。だから事故が起きる前のあなたには友達の事も、家族の事も分かるでしょう?」


圭太は頷いた。


「事故の後、石崎圭太は大学入学までの記憶を失う事になる。それはつまり、未来のあなたはその友達の名前を知るはずがないの。本当は一緒に過ごした、という事実があっても、記憶を私に渡した影響で頭の中から友達や家族の姿も消去されてしまう。そう、知るはずがないから。


 だから思い出せる記憶の中に友達の名前も家族の名前も一切残らない。でも、事故前の記憶を取り戻した三上桜は友達や家族を知っている。記憶が無いのは石崎圭太だけ。そう、彼はあの事故の日から2回記憶を消した人生を歩んできた。


 両親がストレスのせいで記憶が消えたと思うのも無理無いわね。魔女の存在なんて考えもしなかったでしょうし、何せ事故の後に記憶が消えたんだから。事故の後の石崎圭太の人生には両親の事も、友達の事も覚えが無い人生しかあり得ない。だから三上桜が人生そのものだと思うようになり、結果的に2度も私に記憶を渡して過去の自分と入れ替わった。だって、今のあなたには過去の記憶があるでしょう? 両親、友達、そしてずっと頑張ってきた野球と、それを止める理由についても。ずっと頑張ってきたし高校までで十分やり抜いてきたから、大学では野球のない新しい世界を見たいと、そう思っていたのでしょう」


圭太は頷く。魔女は目を伏せた。


「事故に遭うまでのあなたは両親の事も友達の事も大好きで本当に大切にしていた。その中で三上桜と出会った。過去の自分と入れ替わることで犠牲にしたその記憶はかけがえのない、手放したくない大切なものだったでしょうに」


「そんな回りくどい事しなくても、工事していない安全な所に逃げられなかったんでしょうか」


圭太の率直な質問に、魔女は真っ直ぐと彼を見て断言した。


「あの時三上桜を動かして生き残る道は、一つも無い。三上桜はあの時に死ぬと言う強い運命に縛られていた。強い運命を変えるには根本を変えなければ意味が無い。受験で落ちるはずだった運命の人間が最難関の大学に受かろうと思えば習慣や気持ち、思考回路まで変えなければならないように、根本が変わらなければどうにもならないのと同じようにね。三上桜の場合は事故の根源になる物を断つ必要がある。そこまで教えるのは私の割にあわないから教えていないだけ」


「本当に、魔女なんですね」


「あら、こんなファンタジーな話信じるの?」


と、面白そうに笑う魔女に圭太は真剣な目を向け続ける。


「信じられないけど、信じるしかない。俺もまた今こんな不思議な場所に来ているのが事実ですから。でも、あなたは一体何者なんですか? あなたの様に力を使える人を俺は見た事がありません。それに、未来の俺から過去の記憶を取って、あなたにメリットがあるようにも思えません。一体、あなたは何のために人に力を与え、その人の大切な何かをもらっているんですか?」


魔女は困った様に笑うと、自身を取り巻く煙にそっと指を添わせた。


「私はね、人間の感情そのものなのよ。人間の強い感情の波が私を生み出している。あなたにはこの煙が見えるでしょう。でもね、この煙は普通の人間には見えない。私と取引をしたり、取引に関係する者にしか見えないの。


 この黒い煙は私を少しずつ闇へ飲み込んでいく。放っておけば私は飲まれて死ぬのでしょうね。この闇を払い存在し続ける為には人間の強い感情が必要なの。幸せなんてものは簡単に慣れて消えてしまうものだから、私は強く残る悲しみ、憎しみ、苦しみを糧に存在してきた。だから私は誰の幸せも願いすぎてはいけない。私は感情に左右されてはならない。それは自滅の道を辿るのと同じだから。感情を優先させれば間違いなく私はハッピーエンドを望むでしょう。それではだめ。それでは私は消えてしまう。


 私は私が存在し続ける為に感情の波が強い人間に近づく。そうして一度存在を維持させる。そして願いを叶える代わりに大切なものを奪う事でまた感情の波を生み出してもう一度存在を維持させている。その人間が私の存在を保つ程苦しむまで待って、そうして救いの手を差し伸べる。本当に、嫌な奴ね」


眉間にしわを寄せながら、魔女は楽しげに話していた頃の圭太を思い出した。友達の話をし、両親の話をし、その隣で三上桜が笑っていた事を。強い悲しみの感情に釣られてその感情の主を見に行った日、あの幸せそうな青年だと知った時は衝撃的だった。そんな、バカな、と。


「私は誰かを幸せにはできない。私が存在するには、誰かの不幸がどうしても必要なのよ」


どこか悲しげな魔女に、圭太は一歩前に出た。


「でも、あなたは未来の俺を助けた。それはなぜです。放っておけば悲しみの感情でもっと存在できていたでしょうに」


その言葉に、魔女は視線を落とす。


「今回だけは、私も願っているの。運命が変わる事を。幸せを求める想いが、今私を存在させる程に強いから。ただ、それだけよ」


魔女はブランコから立ちあがった。


「さぁ、もうすぐ入れ替わりもおしまいね。あなたからも未来の石崎圭太からも、入れ替わっている間の記憶を頂くから結局何も覚えて無い。だからこんな事を話したって結局意味が無いけれど、それでも暇つぶしには丁度よかったわ」


魔女は強いまなざしで圭太を見た。


「あなたが欲しかったものを取り戻すチャンスはあげた。さぁ、後はあなた次第よ、石崎圭太」


圭太は自身の体から自分が抜け出ていくのを感じ、魔女に向け声を張った。


「俺は絶対に助けてみせます。あなたに記憶を消されて、結果的に俺自身に起きた事が何も分からなくても、絶対に桜を救って見せます。それから――」


圭太は一層声を張った。絶対に聞き逃す事が無いように、その言葉を腹から出した。圭太から発されたその最後の言葉は、冷酷非道な魔女に衝撃をもたらした。胸を刺されたような初めての感覚に、魔女はただ立ち尽くすしかできなかった。







 隣で桜が不思議そうに見ている中、圭太は自分の鞄から手帳を取り出し、メモのページを広げた。そうして、そのページを目にするなり驚きのあまり絶句した。1ページだけ不自然に、見慣れた形に破かれている。ポケットに入っていた白い紙。気を取られたことで桜を失う事になったと思っていたあの紙と同じ形の。そうして、圭太はようやくポケットに入っていた紙がただの紙ではなく過去の自分からのメモだったのだと気がついた。


 俺は過去に魔女と取引をしたのか? そして同じ事をしたんだ。過去の俺はそのメモに気づけずに結局死なせてしまった。なんで、俺は気づけなかった!


 その時、圭太の頭の中で全てが繋がり始めた。俺の記憶が何故か消えている事。俺が知るはずのない友達の事を桜が知っていた事。そして、ポケットに入っていた紙。


 そうか、俺は過去の記憶と引き換えに入れ替わって救おうとしていたのか。魔女と一緒にいた時に一瞬記憶が途切れたあの時に、俺は恐らく取引をしていた。だから、俺の予想が正しければ。


 圭太はポケットに手を入れた。すぐに指先に当たる紙に心臓が大きく跳ねる。取り出してみればそれはあの日と同じように白紙だった。忘れるはずもない。後悔しか残らなかったあの紙。恐る恐る裏返してみると、そこには殴り書きが書かれていた。




手は引くな。トラックの運転手に石を投げて起こせ。




 俺は何度も桜を助けようとしたんだ。だから手を引っ張っても恐らく桜は死んでしまったのだろう。そしてメモを裏返せという過去の俺からの伝言はまさにこの事だったんだ。あの事故の日、俺は裏を見ていたら良かった。そしたら未来は変わったかも知れなかった。だから今俺がすべきことは1つ。


 圭太はメモをそっと裏返し、ポケットに戻した。


 俺はメモの存在には気づいていた。あと少しの所まで来てたんだ。だからこれで気づく、必ず。

 圭太はただ過去の自分に全てを託し、やがてまた後方に吸い込まれていった。







 はっと気がつくと、隣には桜がいた。


「大丈夫? 圭太君」


「あ、うん。あれ?」


ポケットに何か入っている事に気がついて、入れた覚えのない紙を引っ張りだす。そこには紛れもなく自分の字で殴り書きがされていた。メモした覚えなど全くないその言葉の意味は、視線の先に徐々に迫ってくるトラックを見てすぐに理解した。




手は引くな。トラックの運転手に石を投げて起こせ。




 迫るトラック。頭が横に傾いた運転手。足元に転がっている石。逃げた方がいいのではと思う。それ以上に、この文字を信用しなくてはいけないと思う。圭太は足元に転がっていた石を拾い上げて思い切り振りかぶった。向かってくるトラックに向けて石を投げつけた。今まで青春のほとんどを費やしてきた野球、その全てを乗せて。







 周囲がぐにゃぐにゃと歪み、元の景色を取り戻していく。目が回った時と同じようにデタラメになった平衡感覚に、体が意図せずに揺れる。視界は二重になり、重なったかと思えば今度は三重になる。視界が回り、自分の体が地面と垂直にあるのかも分からない。少しずつ元に戻っていく視界の中で懸命に情報をかき集める。


 暗い。鉄棒。ジャングルジム。ブランコは無かった。


 俺は、過去から戻ってきたのか。それも、俺の家の近くの公園に。


 未だ感覚がはっきりしないまま必死で過去の記憶をさかのぼり、やがて俺は走り出した。蒸し暑い夜の道をただ一度も止まる事も無く、ただ一心不乱に走る。角を曲がれば人にぶつかりそうになった。震える足で走れば石に躓いて転びかけた。それでもただ走る。自分の体力が続く限り。


 俺はアパートの階段を駆け上がり、あるドアの前で足を止めた。インターホンに手を伸ばして、押す寸前で一度目を閉じて深呼吸をする。ゆっくりと瞼を開け、恐る恐るボタンを押した。ピンポーンとありきたりな音がしてから数秒もしないうちに中から走ってくる音がする。少しずつ足音は近づき、そうして開いた扉の前にいたのは――。


「さ、くら……」


エプロンをつけた桜は、肩で息をしている俺を見て笑った。


「そんなに息切らして、どうしたの?」


体が動かなかった。まるで今まで当たり前みたいにそこにいたとでも言う様に。


 桜が、立って、いる……?


「あ、分かった。忘れ物したんでしょ」


これは、幻だろうか。まさか本当に桜がここにいるなんて。


「お、その沈黙は図星だな? ふふ、私ほどになれば圭太君が考えてる事なんて――」


桜が最後まで言うよりも先に、俺は思い切り桜を抱きしめた。


 温かい。温かい。


「温かい」


そう言葉に出してみると何故か涙がこみ上げた。声が出ない代わりに強く、強く抱きしめる。


 桜がいる。桜がここにいる。桜が、桜が今生きている。


俺の様子を察してか、桜は俺の背中に手を回し、優しく声を掛けてくれる。


「本当にどうしたの? 何か怖い夢でも見たの?」


もう二度と会う事も、聴く事も、見る事も、触れる事も、笑い合う事もできないと思っていた。話したい事がたくさんある。それでも今はただ桜が生きている事を実感したかった。今までのが全て夢だったとしたら、それはもうこれ以上に無い悪夢に違いない。俺は桜の肩に顔をうずめて言った。


「あぁ、とても、とても怖い夢だったよ」

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