第9章 またね
第9章 またね
全てを話し終えた圭太君は悔しそうに拳を握りしめた。
「ごめん。ごめんな。俺、何もしてやれない。桜は死に向かって進んでいくだけで、俺は見てる事しかできなくて……俺には、桜を助けてやれない」
悲痛に満ちた声を絞り出した。
「でも、圭太君は私のために」
「違う。結局これは俺の自己満足だったんだ。罪滅ぼしだったんだ。桜からしてみれば今の方が何倍も苦しくなってしまうのに、俺は自分の事ばかり考えて桜が苦しい道を選んでしまった。桜に、何もしてやれない。桜を、2回も……2回も死なせてしまうなんて」
この時、私は公園で謝っていたのはこれだったのかと納得した。私に何もできないと、ずっと苦しんでいたんだ。それでも圭太君はずっと辛い想いをしながらも笑顔で接してくれた。私の夢を叶えてくれた。私がやり残す事が無いように。未練を残して逝く事が無いように。
「そんな事言わないで」
私はただ圭太君を抱きしめた。
圭太君はどんな気持だったんだろう。堤防にやってきた私が自分の事を何一つ覚えていないと知った時。私が名字で呼んだ時。ずっと苦しかったはずなのにいつも笑ってくれた。
圭太君は私が真実に近づいて死期が早まるのを何より恐れていた。だから何も語ろうともしなかった。たった独りでずっと抱え込んできた。ただ、私が未練なくこの世を去れるように。夢を一生懸命叶えてくれたのにそれでもまだ自分を責めている。私を救えない、と。
何故か私の頭は冴えきっていて、冷静だった。私は消えて無くなる。もう数時間、いや、もしかしたらもう数十分も無いのかもしれない。それなのに、恐怖はいつの間にか消えていて、ただ満足していた。
「圭太君のおかげで私は夢を叶えられたよ。ありがとう、圭太君」
私は空を見上げた。空全部、赤く染めてしまうほどに美しい夕焼け。川の流れる綺麗な音。今までどうしてこんなに素晴らしいものに気づかなかったのか。
「見て、圭太君。とっても夕焼けが綺麗なの」
涙で濡れた顔をあげた圭太君に私は笑った。
人生最後の夕焼けは、今まで見た中で一番綺麗だった。これ以上無いと言うくらいに美しかった。明日晴れるのかは私には分からない。晴れた空を見る事も、雨の降る街を見る事も、朝日を見る事も無い。あんなに当たり前だったものが本当にかけがえのないものだったと今更になって思う。綺麗な世界に私は確かに生きていたのだと。
圭太君の顔は悔しさで歪んでいたけれど、不思議と涙は出なかった。やり残したことが見つからない。私の人生があまりに満たされていて、これ以上何が必要なのかと思ってしまうほどに。だってやり残したことは全部もう叶えてもらったから。
「ねぇ、圭太君。次会ったら何しようか」
そう笑いかけてみる。何を言っているんだと言いたげな顔をする圭太君に私は笑った。
「だって、せっかく圭太君がくれた時間なんだから湿っぽいのは嫌じゃない? やっぱり笑ってたいじゃない。あのね、女って化粧してる時に泣いたりしたら黒い涙になっちゃうのよ」
私がいつもの調子で言うと、察してくれたのか圭太君は少し笑ってくれた。
「桜ってそういう奴だよな」
「いいでしょ? だから次に会った時何しようか。もう一度動物園とかどう? あのパンダの肉まんとっても美味しかったのよね。あ、でも夏は暑いかぁ」
圭太君は涙を拭いて笑った。
「いいよ。あの肉まんだけじゃなくて、家で一緒にたくさん作るっていうのもいいよな」
「あ、それ良いね!」
2人で顔を見合わせて笑った。圭太君の笑顔を目に焼きつけた。消えてしまっても、絶対にこの笑顔だけは忘れてやらない。絶対に、絶対に、忘れてやるもんか。
急に圭太君の笑顔が消えたのを見て、全てを理解した。自分の体を見てみると、足の先から徐々に消え始めている。
そうか……。もう、時間切れ、なのね……。
「さ、桜。そんな……」
圭太君は顔面蒼白になり、また目が潤み始めている。
「そんな顔しないで」
涙をこぼす圭太君に私は精一杯笑った。涙が今にも溢れてきそうだけれど、必死にこらえる。記憶の中の私が泣いていないように、これからもずっと笑っているように。
「大学で出会ってずっと一緒にいたよね。とても楽しかったよ。幸せだった。本当に、本当に、幸せだったよ」
私の事を一番にしてくれた。大切にしてくれた。からかって、からかわれて、二人で笑い合った日々が昨日の様だった。本当に幸せな日々。いつか結婚するのかなって思ってた。ずっと何年も一緒にいられるのかなって。もうその夢は叶わない。どれだけ願ってももう叶わない。でも圭太君に出会う事ができた。圭太君と楽しい日々を過ごす事ができた。圭太君と一緒に笑う事ができた。私の人生は驚くほど笑顔で一杯だった。ここで終わってしまうのはやっぱり寂しい。でもそれ以上に、これが私の人生と言うなら、この人生はとても楽しかったなって思う。そう思えたのはやっぱり圭太君がいたからなんだって思う。
圭太君が見た事が無いくらいにボロボロと涙を落としているのを見て、釣られてしまいそうになる。口の中を強く噛むと、血の味が広がった。まだ痛みは感じるようで涙を何とか引っ込める。
ダメ。絶対にダメ。絶対に、泣いちゃダメ!
一呼吸置いてから圭太君を励ますように言った。
「ねぇ、圭太君。さよならってさ、もう会えないみたいじゃない。私達いつもまた来週って言ってたでしょう。でも来週、ではないから。だからさよならは言わないわ。少し会えなくなるだけ」
きっと、きっと、また会える。そう信じていたらなんだか救われる気がする。これで全部終わりじゃないって思えるだけで心が楽になる。
だからどうか、どうか圭太君が今日の事を乗り越えて、これから先の人生が幸せに満ちていますように。私との事が圭太君の将来に影を落とすなら、全部忘れてしまったっていい。大好き。大好きだから、圭太君は笑っていて。どうか、どうか幸せでいて。幸せになって。
圭太君が私を抱きしめてくれたけれど、腕の感覚はもう無かった。圭太君が耳元でしゃくりあげながら、必死で言葉を紡いでくれる。
「好きだ。大好き、だよ、桜」
「うん。私も」
圭太君の背中に手を回す。指先の感覚は無い。私は今圭太君を抱きしめられているのかな。それでもいい。まだ微かに伝わる温もりがあればそれでいい。
「なんでだよ。なんで、なんで桜なんだよ。桜が何したって言うんだよ。なんで、なんで……」
視界が暗くなっていく。もう、時間が、ない。
「圭太君に会えて、本当に楽しかった。本当にありがとう」
私はそっと離れて圭太に笑顔を向ける。視界がぼやけそうになる。それでも私は笑う。
圭太君に会えて幸せだった。
圭太君が大好きだった。
圭太君と一緒にいてとても楽しかった。
「大好き」
暗くなっていく。美しい世界が全部。
「宏君と蓮君と、今まで通り仲良くするんだよ」
この気持ちは絶対に全部伝えられない。だからきっとまた巡り巡って会えると、私はその一言に全てを込めた。
「またね、圭太君」
思い切り笑った。
だから、また私を見つけてね、圭太君。
気がつくと、目の前には景色が広がっていた。誰もいない、たった独りの景色。まるで今まで夢を見ていたかのように。そこには何も存在していなかったかの様に。
「桜?」
どうしたの? 圭太君。
今にも聞こえてきそうなその声が、どんなに耳を澄ませても聴こえない。当たり前みたいにあった笑顔がどこにもない。
「桜。桜。桜! 桜!」
後ろを、右を、前を、左を、幻でもいい桜の何かを探して痛いほどに首を回した。何度呼んでも、何度見回しても、姿も、返事も、それどころか何も無い。つい数秒前まではあったはずのものが何一つ存在しないのだ。幻が消えてしまった様な、そんな感覚。
輪郭が曖昧になっていく世界の中で一心不乱に桜の痕跡を探した。見れば見る程視界に移されるのは孤独だった。この世界のどこにも、もう桜はいないのだ。
「嫌だ。嫌だ。嫌だ!」
桜を数瞬でも引きとめられないかと、必死に叫んだ。
「消えないでくれよ! 独りにしないでくれよ!」
声が吸い込まれていくようだった。響きもせず、届きもせず、ただ消えていくだけ。
俺には、俺の人生には桜しかいなかった。桜を失って、俺はどうしたらいい。この世界のどこに希望を持てばいい。
ガクリと膝から地面に崩れた。
俺はただ独り、堤防で声をあげて泣き崩れた。




