第8章 彼の秘密
第8章 彼の秘密
新社会人2年目を目前にした3月、圭太と桜は休日を利用してデートを楽しんだ。その帰り道。真っ直ぐに伸びた大通り沿いを歩いていた。左右をビルに挟まれ、工事が盛んに行われていた。
ふと気がつくと、圭太はいつの間にかポケットに突っ込まれた手が何かに触れている事に気がついた。何気なく取り出してみると、それは何も書いていない、ちぎり取った様な紙切れ。ポケットにこんなもの入れたかと考えていた時、視界に入ってきたのは猛スピードで迫ってくる大型トラック。運転手は居眠りをしており、圭太は動き出す寸前、目の前から桜の姿がトラックにさらわれたのを見た。轟くブレーキ音。何かが強くぶつかる音。一瞬止まる思考回路。何が起こったのかも理解できないまま、ただ目の前にあるはずの彼女の姿を本能的に探す。
右へ左へ視界は動き、やがて視界の隅に刺激の強い赤を見つける。左へと目線を動かすと、そこには肌色の細長いもの。辿っていくと、見慣れた衣服が見えた。赤色に染まり、まるでイバラの中でも通ってきた様にあちこち切り裂かれている。圭太はただそれが何なのか理解できなかった。脳が理解を拒否しているように、ただ呆然と地面に転がっているものを見る。滑らかで、所々赤黒くべとついた髪。つい数十秒前とはあまりにも違うその姿に、圭太は何と声を掛けていいか分からなかった。
「さ、くら……?」
それが先ほどまで一緒にいた桜だと未だ信じられず、自然と語尾が上がる。そろそろと近づいて、傍にしゃがみ、通常ではありえない方向に曲がった手にそっと触れる。その温もりだけは確かに先ほどまでと変わらなかった。
「桜?」
その時、光を失って開いたままの瞳と目が合い、ようやくそれが桜である事に気がついた。まるで麻痺していた五感が急に息を吹き返したように周囲の刺激を同時に脳へと伝える。今まで気づきもしなかった周囲の悲鳴、地面についていた手のぬめり、視界のほとんどを埋める赤、むせ返る様な鉄臭さ。
「桜! 桜!」
助けるためにどうしたらいいのか、何をすべきなのか、圭太には分からなかった。ただ目の前に横たわる動かない体に呼びかけることしかできなかった。体のどこを見てもピクリともしない。その姿は圭太の目に鮮明に、そして脳に深く刻み込まれた。
幸いとでも言うのか、桜は即死だった。死の苦痛に苛まれる事も無く、ただ一瞬でその人生は終わったのだ。自分の死さえ理解できていなかったのかもしれない。医師からの死の宣告は桜の両親、そして圭太自身に深い衝撃を与えた。できる限り生前に近い状態で、形だけでも綺麗に整えられた桜の目は閉じられており、それを見るなり桜の両親は泣き崩れた。
病院を出て呆然と歩いていた圭太は、少しずつ桜の死が浸透していくのを感じていた。隣を見てもそこには誰もいない。つい数時間前まで隣にあった笑顔はもう二度と見る事もできない。圭太はふとポケットに入っていた紙を取り出した。
こんな紙に気を取られなければ、もっと早くトラックに気づけていたかもしれないのに。
一度そう思うと、次から次へと感情が押し寄せた。
生きてきて、こんなに素敵な人に出会えるなんて事はもう無いと思えるほどに大好きな人だった。からかえば怒る。それでもいつも許してくれた。たくさん食べてその度に幸せそうで、いつも明るくて、花で例えるならひまわりのような人だった。生活が落ち着いたらプロポーズだってしようと思っていたのに。
怒りがピークを超えると、ようやく圭太の中に悲しみがこみ上げた。バラバラになってしまいそうなほどの胸の痛みと苦しみ。それ以上に桜ともう二度と会えない辛さに涙が止まらなかった。涙が枯れて無くなるまで泣き続け、圭太は翌日やつれた顔で通夜に出た。桜のいない日々。ただ、地獄の様な日々。あの時あんな紙切れに気を取られなければ。あの日あの道を通らなければ。あの時咄嗟に手を引いていたら。そんな事ばかりが頭の中を埋め尽していた。
太陽が姿を隠して光だけが余韻の様に残る頃、圭太は人気の無い公園に辿り着いた。家から割と近い公園で、利用などした事も無ければ遊んでいる人を見かけた事も無い、場所の無駄とも言える公園。公園にあるベンチに座ろうと歩いていた圭太がブランコの前に差し掛かると、明るい鼻歌が聞こえてきた。
「やっぱりいたのね。予感的中だわ」
圭太は自分の前で足を止めたその女に目線を移す。ブランコの前で向き合う圭太と女。一方は濁り、虚ろな瞳で、かつ全てに無関心であり、この世の全てに絶望した、そんな顔をしていた。それに対して女は30代半ばである。身長は男と並ぶほどに高く、誰もが羨ましがるほどに抜群のスタイルを存分に生かした露出の多い服を着て妖艶な笑みを浮かべている。街を歩けば、老若男女問わず見惚れてしまうほどの美女ではあるが、その歪んだ笑みを向けられれば誰もが逃げ出すだろう。それほどに美しく、綺麗で、そして不気味。
女を取り巻く黒煙は舞い上がることも、風で流されることもなくただ女の周りをふわふわと漂っていた。女はその煙を目で追った。
「もうこんなに黒くなって……。この煙、あなたには見えるかしら? まぁ、どうせ今のあなたには見えるはずも無いけれど」
圭太は理解する気力すらなく返事もしないが、女は腰まである黒髪をなびかせながら余裕たっぷりに歩み寄る。
「まだつけてるの?」
と、笑いながら指をさす。圭太はいつの間にか文字盤が砕け、時針がぶら下がった状態の腕時計に気がついた。
びっくりしたでしょ。私からのサプライズプレゼント
嬉しそうにそう言った桜の笑顔が一緒に思い出される。幸せだったあの時間はもはや戻らない。そう思うだけで悲しみに潰れてしまいそうになる。
「そうよね。悲しいわよね。そうだと思うわ。だってあなたがあの紙に気を取られなければもしかしたら助かっていたかもしれないものね」
圭太は黙ったままだった。自分の失態が桜を死なせる原因になった。それは事実であり正しい。女が何故自分の事を知っているのかと言う事への好奇心すら無かった。ただ突きつけられる現実に打ちひしがれていることしかできずにいた。
「可哀そうに。まだやりたい事があったのよね。たくさんあったのよね」
女にそう言われ、圭太の頭の中には楽しそうに話していた桜の姿が思い起こされる。
それは堤防の階段に腰掛けてのんびり話していた時の事だった。
「そんなにやりたい事あるの?」
「もちろん!」
桜は楽しそうにそう言った。
「そうね、まずは最近見つけたパン屋さん。メロンパンが絶品らしくって、この堤防でのんびり食べたいな。後、動物園にも行きたい。もちろんライオンは最初に見に行くの!」
「なんでライオン?」
圭太がそう尋ねると、桜は何故そんな事を訊くのかとでも言いたげな顔をした。
「そりゃあもう、動物園と言えばライオンでしょ」
桜らしいなと思いながら圭太は内心笑いながら次を促した。
「なるほどね。他には?」
「そうそう、山の頂上にあるラーメン屋に行きたい!」
「山の頂上に?」
「そう! 山の頂上にあるのに、毎日行列なんだって! 絶対美味しいと思うのよね」
「桜なら頂上のラーメン全部食べ尽くすんじゃない?」
「あのね、いくら食欲が化け物だからって限定品を買い占めるみたいな事しませんよーだ。限定とか、そう言うものは絶対最低限いる分だけって決めてるから。で、他にはね」
「まだあるんだ」
「あるある! いっぱいあるのよ」
「じゃあ、リストでも作っておかないとな」
「バカにしてるでしょ。小さな夢だって」
「ううん。いいと思う。それに俺も好きだよ、小さな夢。だから一緒に叶えていこうか」
「やったぁ! じゃあ、まずはメロンパンからね! 美味しいものから始めなくちゃ!」
桜のやりたい事リストを作ったあの日の事を思い出して、圭太は眉間にしわを寄せた。もう一緒に叶える事はできない。リストを作ったその日の帰りに桜は事故に遭ってしまったから。
「そんなもの捨てちゃえばいいのに」
耳元でそう言われ、圭太は沸々とこみ上げる怒りを自覚した。女が触れているのは右腕に巻かれた、壊れた腕時計だった。
この女に一体何が分かる? 大切な、大好きな桜がくれた最後のプレゼントを捨てろだと?
圭太は歯を食いしばり、拳を強く握りしめる。そうして自制しなければこの女を今にも殴ってしまいそうだった。
「どうせ、もう壊れてしまったのに」
「黙れ!」
拳を抑える代わりに、圭太は言葉で女を殴りつけた。怒りに震える圭太を前にしても、女の余裕は消えない。圭太の凶暴な獣の様な目も簡単に受け流し、それどころか、圭太が取り乱す姿に喜びすら感じているようだった。
「私が何故ここに来たのか、何故こんなにあなた達について知ってるのか教えてあげましょうか」
ただ睨みつける圭太などそっちのけで、女は歪んだ笑みを浮かべたまま言う。
「私はね、その人間の持っているものを頂く代わりにその人間に力を授けているの。そう、見合った何かをね。例えば、この前なら陰湿ないじめに遭っていた男の子ね。いじめっ子に復讐したいって言うものだから、ただ願うだけで願った通りに相手を不幸にする力を与えたわね。その代わり、優秀だった成績を頂いた。厳密に言えば知識。テストで良い点を取るには知識が必要。その知識を頂いたから、もう一度小学一年生の最初から勉強し直さなければテストで良い点を取るどころか高校にも行けずに人生は真っ暗ね。まぁ、仮に入れても中退でしょう。でも、素晴らしい取引だと思わない? その知識を私にくれれば憎しみを晴らせるのだから。何かが欲しい、環境を変えたい。そんな感情を辿って私はその人間の元にやってくる。そうして契約を持ちかける。その人間にできる範囲の事を」
あまりにも現実離れした話で、圭太の目は無関心なままだった。
「あら、信じてないって顔ね。まぁ、私がこの話をするとどんな人間でも疑うものよ。自分が見てきた世界が全てで、自分が知っている法則や節理が正しいと信じて疑わない。そうやって自分に受け入れられないものから目を背けて貴重な機会を失う。いつの時代も人間は傲慢よね。まぁ今はいいわ。折角の機会ですもの。こんな素敵なものを見逃すなんて、ね」
女は隣にあったブランコを見た。
「そうね、これなんていいんじゃない?」
女が笑うと、ブランコはひとりでに揺れ始めた。その光景は圭太の目を釘づけにした。
「人間の知っているものなんてほんの一握りに過ぎない。それはね、つまりこういうこと」
ブランコが一層勢いよく空に駆けあがり、やがて失速して左右の鎖がたるむ。地面に吸い込まれるように落ちていく。女が指を鳴らしたその瞬間、ブランコはその一瞬で砂に変貌した。砂になった状態でほんの数瞬の間宙に留められ、一斉に崩れ落ちる。目が飛び出す程に圭太は目を見開いた。一瞬の間にブランコを砂に変化させる事ができる人間などいるだろうか。
「ねぇ、びっくりしたでしょう? つまりね、私が言っている力ってこういう事」
普通では理解できない力を目の前の女が持っている事を信じるしかなかった。
「本当、なのか」
怒りも無関心もその一瞬の間に振り払われ、圭太の目に次に浮かんでいたのは驚きだった。ふらりとよろめきながら、ただ一つの光にすがるように数歩前へと進む。その目にはもう女の姿しか映ってはいなかった。桜の笑顔をもう一度見る事ができる方法があるかもしれないのだ。
「えぇ、本当よ。あなたがそれだけのものを持っていれば、ね」
圭太はただ率直に今の願いを口にした。
「桜を、生き返らせて欲しい」
直後、女は黙ってベンチに腰を下ろして脚を組んだ。
「却下」
女はつまらなそうな顔をしながら圭太に言う。
「なんでだよ。あんた、願いを叶えてくれるんじゃ」
「あなたが持っているもので人一人生き返らせるのに等しいものは存在しない。つまり私が赤字になるってわけ。あぁ、でも」
急に女は思いついたように声を上げ、にんまりと不気味な笑顔を浮かべて圭太を見た。
「命を延長させる事ならしてあげてもいいわ」
「命を、延長?」
「そう。三上桜が死んだはずのあの時間を一時的に無かった事にしてあげる。三上桜は何事も無く限られた時間を生きる事ができる。もちろんそのままじゃ矛盾が生じてしまうから、周囲の記憶も物理的な変化も一時的に私が歪めて辻褄を合わせてあげる」
現実とは思えない様な話ではあるが、それでも圭太はそれにすがるしか方法は無かった。
「その代わり」
女は立ちあがった。
「三上桜の中にあるあなたの記憶を一時的に私が頂くわ。もちろん、その時が来たら返してあげる。まぁ、一時的に時間をあげるのだから頂く記憶も一時的で十分。あぁでも、期限までに三上桜が何らかの形で思い出してしまえば死期は早まる。記憶は強く封じるけれど本来記憶はその人間を構成する物でもあるから記憶はその人間に戻ろうとするものだから。三上桜の記憶と引き換えに命を延長させてあげるのだから、記憶を取り戻したその時が延長終了。数時間もしないうちに消えてなくなる。三上桜の記憶と命は常にコインの裏表。決して同時に手にすることはできない」
「つまり、桜は」
「つまりね、私が持ちかける取引はこういう事よ」
女は圭太の目前まで迫った。
「三上桜の中のあなたの記憶と引き換えに、七月までの間命を延長させてあげる。三上桜は少しずつ記憶を取り戻し、7月が終わるその日に全てを思い出す。そして記憶を取り戻したその時三上桜は消えてなくなる」
女は圭太の顎に手を添え、強引に顔を近づけた。
「さぁ、あなたはどうしたい?」
「俺は……」
圭太は右腕にある黒い壊れた腕時計に目をやった。桜に圭太の記憶は無い。それでも突然奪われた人生の中で見つけた小さな夢を叶える機会は今しかない。
「俺はそれでも、桜に未練なく逝って欲しい」
目の前でにやりと笑ったその顔を見た圭太は全身が震えるのを感じた。とんでもない、取り返しのつかない事をしてしまったような感覚。
「取引、成立ね」
体を何かが突き抜けたような感覚がしたかと思うと視界が歪んだ。まるで今まで見てきたものが全て粘土でできていたのかと思うほど簡単にねじ曲がる。
その時だった、今まで気がつかなかった黒い煙が目の前に漂っているのが見えた。煙に気を取られたその数秒の間に、ぐにゃぐにゃに曲がっていた景色はいつの間にか元に戻っていた。
戸惑っていた圭太から徐々に薄まっていくその煙へと視線を移してから女は満足そうに笑う。
「あんたは、桜の記憶が欲しかったのか?」
想像を超えるこの女が欲しい物が何なのか未だ分からず圭太は問う。
「私はね欲しい物を直接もらうんじゃないのよ。相手が持っているものを私がもらう事によって私には別に得る物があるって事。まぁ理解はできないだろうし分からなくてもいいわ。なんたってもうあなたにはこの煙が見えるのだから」
謎を残したまま、女が立ち去ろうとしたその時圭太はその背中に質問を投げた。
「あんたは一体何者だ」
「何者、ねぇ」
女は顎に手を添えて遠い目をする。
「さぁ、あなたは何だと思う? ある時は悪魔、ある時は魔女。人間は私をそう呼んできたわね」
女は圭太に視線を送る。
「魔女、が1番しっくりくるのかしらね。好きに呼びなさい。あぁそれと、この後待ち合わせしていた堤防に行きなさい。きっかけは私からプレゼントしてあげる。後、この取引はもう消せない。あなたは助ける為とは言いながらも結局三上桜を2度殺す決断をしたのよ。ふふ、見物ね。真実を知って死を間近に感じた時、三上桜がなんて言うのか。せいぜい苦しみなさい、圭太君」
魔女に言われるがまま堤防へと向かった圭太はその後揚げ物を買い込んだ桜と出会った。死んだはずの桜と。そうして知るのだった。桜の中にただの一片も自分が存在していないと言う事に。




