研究者の卵
久々の食事をのんびりと済ますこともできず、食堂を出るとちょうど同じタイミングで学校のベルがなった。
それと同時に教室のドアが一斉に開かれ中から生徒たちがドッと飛び出してくる。
津波の様に生徒たちは食堂に押し寄せ、カウンターで注文をしているの見ているとあの波に呑まれなくてよかったと少しマリーナさんに感謝しつつ、そもそも
もっと早く言ってくれればと改めて気がついた。
あとで小言の一つでも言っておこう。
僕の恩師であつクラウド先生の研究室は生徒たちが講義を受ける教棟、つまり研究室がある研究棟は別の建物にあるため本来ならこの生徒の波を押しのけて教棟に入らなければいけないのだが、流石にそれだと僕の貧弱な体はもたないだろうためやや遠回りをしようと思う。
そう思い、校舎の側面側に中庭を歩いていく。
さしもの人の波もここは穏やかなようで人も疎らだ。
青草の生い茂る公園のような中庭を進んでいると、最初にこの国に来たときの驚きを思い出す。
ここブリッジハンク学術研究都市はその名の通り学問に特化し様々な研究が行われている国であり、さらには非常に緑が豊かな国でもある。
街の地下を走る地下水が道路の至る所から湧き出て、側溝を流れている。
そしてその水が街中に広がって、そこに緑が生い茂る。
この自然には小鳥や野兎などの自然動物も住んでおり、僕らの目を潤してくれる。
僕の生まれた国とはまるで対極にある街づくりで初めて見た時は瞠目したものだ。
そんな懐かしい記憶を噛みしめながら、若干の心残りをしつつ中庭を過ぎ教棟の裏側に入るとここにはもう人の影はなかった。
その代わりに重厚で緊迫した空気が張りつめ、まるで来る物を拒むかのような雰囲気すら感じてしまう。
造りは他の階とさして変わらないというのに。
しかし僕もようやく自分に自信が付き始めたのか、この雰囲気にも大分慣れたようで今では特に気負いを起こすこともなく廊下を進んでいく。
通り過ぎゆく廊下のドアには金文字でその部屋の主の名前が彫り込まれており、僕はその中でも一際煌々と輝く文字盤の前で足を止めた。
スーと一息ついて身なりを正す。
慣れたとは言っても、ここに入るのだけはやはりいつも緊張してしまう。
これは僕の中で先生はまだまだ大きい壁のようにそびえ立っているの暗示しているのかもしれない。
息を整えて、気持ちを落ち着かせ僕はようやくドアをノックした。
こんこんと小気味良くなるドアの向こうから間も無くして、皺枯れた荘厳な声が聞こえてくる。
「どうぞ。」
その声で在室している事を確認してドアを開けた。
「クラウド研究室フォード班のトーマス・フォードです。」
「ああトーマス君か、すまないね。急に呼び出してまって。」
「いえ」
「とりあえずそこにかけなさい。」
短く返事をする僕にそう言って席を勧めてくれる御仁は僕の恩師にして高名な研究者の一人であるクラウド・シンク先生。
白くて長い髭を顎の下にたっぷりと蓄え、頭にも髭と同じ色の髪の毛を結っている。
見る限りでは好々爺といった風貌だが、その実は非常に研究熱心で数々の偉業を残す科学者であり、議論をさせたらこの学園で右に出る者はいないほどの達弁家でもある。
かくいう僕も先生との議論で何度も煮え湯を飲まされたことがある。
という理由で生徒の中ではクラウド先生を毛嫌いする人も多いが、僕は大いに尊敬している。
切れのある弁論技術に、精密な実験の手法、そして理詰めのされた思考や合理的な行動理念は僕にとってはまさに理想の研究者であると言える。
「調子はどうかね?」
先生の質問に僕は淀みなく答える。
「はい、今日の午後には実験結果をまとめて提出しようと思います。」
さっき出来たばかりレポートを頭に浮かべて自信ありげでそう言うも、僕の前に座る先生は何故か居心地が悪そうな顔をしていた。
「あの、どうかしましたか?」
恐る恐る問いかける僕に先生はなおも難しい顔をし、腕を組む。
先生がここまで悩む姿を見るのは中々に久しい。前に見たのは半年ほど前にかなり難しい数式を解いていた時以来だ。
一体何で頭を悩ませているのだろう。
先生の読めない思考回路に僕も頭を悩ませていると
「君の先行課程はなんだったかね?」
「えっと、それは四大力学の中では一応は材料力学を専攻しています。」
そんな事は僕の監督をしている先生なら知っているはずだが。
ちなみに四大力学とは『材料力学』,『流体力学』,『熱力学』,『機械力学」の四分野の力学の事だ。
約二百年前の昔にはこの世界でも一般的な知識として流行していたが、今となっては専門に勉強しなくては中々習得できない専門分野である。
ここにきていよいよ先生の質問の意味が分からなくなり、混乱する僕に先生はまたも質問を重ねてきた。
「そうだったな、ところでだが君はここを卒業後はどうするつもりだい?」
この質問でようやく先生の不信感に合点がいった。
学園の講義課程を修了し、研究室に入って一年を終えたここの学生は研究者として学園に残るか、企業に技術者として就職するかの二つの選択が与えられる。
もちろんいずれの選択に優劣などはないが、大半は技術者として街の大手の企業に就職する。
理由は人それぞれだが、最も多いのは貰える給金が多いからだ。
その額は一般の街暮らしの人と比べて二倍とも三倍とも言われ、それだけに特殊な知識や技術なども求められる。
一方で研究室に残る場合は自分のしたい研究を専門で追及でき、そのための予算も下りてくる。
その傍らで学園に在籍する生徒に基礎学を教える義務が任されるが、それを生きがいにしている先生も多い。
給金は普通よりやや高いくらいだが、それでも実績を残せば様々な恩賞と名誉が頂けるある意味で夢のある職業でもある。
どちらも非常に社会に貢献していて、共にやりがいのある仕事だ。
そして僕の決断はと言うと…
「僕は、その、ガーネストに戻ろうかと思っています。」
ガーネストはこのブリッジハンクから一万キロほど離れたところにある工業都市であり僕の生まれ育った街でもある。
産業のほとんどは工業を中心としていて鉱工業や機械工業などが盛んでうす暗い煙が立ち込める少し柄の悪そうな街…とここの人たちは陰ながらに噂されているらしい。
あながち嘘とは言えない。
その話は今は置いておくとして兎に角、この学園を出てブリッジハンク以外の街で職に就くのは極めて稀だ。
そのため、いままで明言することはなかったが卒業が近い今いい機会なのかもしれない。
僕のやや破天荒な選択に先生は一瞬だけ目を見開き、押し黙る。
それはもしかしたら突飛な事を言う僕への軽蔑か、はたまた怒りなのか。
背筋をピンと張って答えを待つ僕に先生は三度質問。
「どこに就職しようかは考えたのかね?」
「いえ、まだです。が出来れば空挺機に関われる仕事をと…」
その瞬間、先生は今までにないほど目を広げ席を立つ。
見たこともない先生の表情に僕は身の危険を感じ、体を丸めた。
…怒られる
直感的にそう思い、身を竦ませている僕はようやく後悔をした。
やはりここで多くのことを学んだというのに、よりによって空挺機はまずかったか。
世間ではあまり褒められるような仕事ではないため、忌避されるが僕にはそれに携わるための理由がある。
だが、流石にぶっ飛び過ぎたろうか…、一応はこんなぺーぺーの学生に研究室一室をまるまる貸し与え、さらに奨学金までもらっているというのに。
しかし、先生は僕のもとへ駆け寄ることは無く、部屋の隅の書棚を漁っていた。
予想もしてなかったその行動にぽかんとする僕を前に先生は棚の奥を熱心に探り、そして一枚の便せんと取り出した。
薄茶色で皺のよった見るからに古そうなものだ。
先生はそれを僕にひょいと渡して、また席に戻る。
もちろん僕が書いたものでないそれは手で簡単に破けてしまいそうなほどに傷んでいる。
「それの裏に住所が載っている。もしあてがないのならそこを訪ねてみなさい。」
腕を組んで真面目な顔で職場の斡旋をしてくれる先生につい僕が質問してしまった。
「先生は…その、いいのですか?僕が空挺機の技術者になっても」
やや居住まいを正し、真っ直ぐ僕の目を見て先生は言った。
「私が自分の理想を持つ人間を引き止める理由がどこにあると言うのかね、少なくとも君はその理想に近づくための
努力と成果をきっちりと出してきた。だとしたら私に言えることはただ一つだ。
しっかりと精進したまえ。現実と理想とは常に表裏一体だがそれだけに存外と近しいものだったりする。それを実地で学んできなさい。」
思いがけない先生の言葉にしばし沈黙する。
「は、はい。ありがとうございます。」
ようやくそれだけを絞り出すと先生は話は終わりとばかりにデスクワークに戻る。
僕はとりあえず、席をたって最後に一例をして部屋を出た。
すると急激に肩に疲れが落ち、足が重くなる。
しかし、どこか胸の内がすっきりともした。
長らく口にできなかった胸中を掃き出せたからかもしれない。
なんにせよクラウド先生が容認してくれたのだから今は喜ぶことにしよう。
そう開き直って、僕はレポートの最後の見直しをするために自分の研究室に戻ることにした。