プロローグ
頑張って上げていこうと思います。
コーヒーの匂いとペンのインクの匂いで充満する書庫の中で僕は梯子に上って本棚から一冊の分厚い本を取り出す。
本のタイトルは『機械物理学のすすめ』。
今から二百年程前にこの世界で出版された学書のうちの一つだ。
学本はかなり古いもののためページの端々は折れ曲がったり、破れたりしているが手入れが行き届いているためか文字はちゃんと読み取ることが出来る。
そこに記された文字を読み解いて思わず声が出てしまった。
「よしっ」
自分の頭の中にあった数式と書に載っていた数式が一致したのだ。
頭の中にはそこはかとない充満感と満足感で満たされる。
ゆうに千を超える実験から算出した式はかつてこの世界で最も人間の技術が栄えていた時代の数式と寸分の誤差もなく合致し、
これまでの苦労がようやく成就したのが嬉しくて感無量の感慨が身を包む。
これで過去の賢人たちに少しで近づけた、そう思うと胸がつい踊っても仕方がない。
僕は大きく梯子の上で伸びをして、肩をならす。
ここ数日はほとんど机に噛り付いて作業をしていたためロクにベットにすら行ってない。
一度、興味を持ってしまうとことん没頭してしまうのは僕の長所でもあり短所でもあると先生も言ってたっけ。
とりあえずはこれでようやく深い眠りに付けると梯子から降りてデスクの上のコーヒーを一気に飲み干す。
それで口の中を潤し、お腹に液体を流し込むとぐ~と情けない音が鳴った。
そういえば、最近まともな食事を摂った記憶がない。
何度か、事務勤めのマリーナさんが差し入れをしてくれた以外にはコーヒー以外に口にしていない。
それまで食欲も忘れて作業に没頭してのだろう。
我ながらに自分の好奇心に恐れを覚え、僕はとりあえず部屋を出ることにした。
食堂に向かうためだ。
時間は既に昼になっているためか廊下の窓には燦々と日の光が差し込み、遠くでは黒板をパチパチと指示棒でさす音が聞こえる。
どうやらまだ授業が行われているらしい。
ここ一年は、研究室で実験三昧だった僕にとっては教室での講義が何だか懐かしく思える。
とまあ、そんな感傷に浸っていると学園の隅にある食堂にたどり着いた。
建物全面がガラス張りの開放的な造りになっていて、建てられて長い年月が経った学園の建造物の中でも一際新しく、目を引く建物だ。
そのガラス戸を開け、今日の献立が載っている掲示板に向かう。
ここにはAからCまでの今日のランチのメニューが載っていて、ここの学園の生徒であればだれでも好きなのを選べる。
そう言うわけでお昼に食べる昼食を僕は選ぶ。
「えーと、今日はAランチがハンバーグでBランチがオムライス、そしてCランチが…」
「今日のお勧めはBかな。」
「うわああ」
と急に背後から声をかけられ思わず僕は声を上げてしまう。
「そんな驚くことないでしょう、やっと顔を出したから声をかけたのに。」
「あ、す、すいません。マリーナさん、つい…」
「もー、ほんとだよ。こっちは研究室に何度も差し入れをしたっていうのに。ねっ、トーマス・フォード君。」
「な、なんでフルネーム何ですか?」
「だってこうしてたまに呼んでおかないと名前、忘れてしまいそうだから。ね、研究室に籠りがちのトーマス・フォード君」
「す、すいません。」
平謝りする僕にマリーナさんは笑顔でよしっと答えた。
マリーナ・ジルバさんはこの『ブリッジハンク研究学園』で事務の仕事をしているうら若きお姉さんだ。
僕がこの学園に入学するのと同時に着任したある意味で同期の人と言える。
そしてかくいう僕はこの学園の研究院に所属する、トーマス・フォード。今年で十八になるいわば学者の卵のような立場の人間だ。
物理や工学と言ったいわば理系の学問に熱い興味を持ち、その熱意のおかげで恐れながらも研究室を一つ任されている。
しかしその反面、活動の拠点がほとんど室内のため体と気概の方はちょっと自信がない。
と言うのを見かねたマリーンさんがそれで僕の背中を押し、僕がそれにいやいや付き合う。
そんな関係にあったためか良くマリーナさんは僕の面倒を見てくれたし、僕もよくマリーナさんにお使いや事務の手伝いを頼まれたりする。
「それにしても早いねー、もう 君が入学して三年も経つんだね。」
「それはマリーナさんがこの学園に来たのと同じ年月ですよ。」
冷静に答える僕にマリーナさんはぷくっと頬を膨らませる。
「相変わらずつれない答えだなー、君は。」
「すいません、でもこれでもマシになった方ですよ。」
「そうだったね、入学したばかりの君の私だけじゃなくて同じ年の子にも無口だったからね。」
「は、はい」
あの頃はまだ過去の事に大して負い目が拭えず、自分の殻にふさぎ込んでいたからだ。
今となっては恥ずかしい話だが…
「そんな君がまさかたった二年でここの授業カリキュラムを終えて、自分の研究室を持っちゃうなんてね。」
「いえいえ、あれは僕が先生と同じ国の出身だったので。」
マリーナさんの言う通り、僕は入学してからそこそこの成績を保っていたためそれを買われ本来は四年かかる授業スケジュールを飛び級という扱いで
半分の二年で終えることが出来た、またその後に配属される研究室も当時贔屓にしてくれた先生が開いていた研究室を一年限定で貸し与えてくれたため独自に使うことが許されていた。
「それってかなりの優遇なんだけどねぇ、まあ本人がそう思うならいいか。」
そう言ってどこか諦めるように席を立つマリーナさんはいつの間にか食事を終えていた。
「はあ、これから午後の仕事が一杯溜まってるんだった。なんせ卒業シーズンだからねえ。」
学生が羨ましいよと嘆くように呟きながら空になったトレーを下げてマリーナさんは仕事に戻ろうとする。
相変わらず忙しのない人だ。それでも流石に三年も同じ空気を吸っているとそれにも慣れてしまったが。
のんびりと食事を品がらパタパタと受け口にトレーを返し、僕の横を横切ってそのまま出口まで向かおうとしたのを見送っていたその時、
「あ、そういえばだけどさっきクラウド先生が呼んでいたよ。」
「なんでそれを先に言わないですか!」
去り際のマリーナさんの一言に僕は急いで残りの食事をかきこんだ。