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 *


 細やかな文字の並びによる幻想的芸術も、聖羅からしてみれば、退屈なものでしかないらしい。苦心しながらも、辛抱強く本を開き続けている聖羅の横で、櫻子は小さく欠伸を洩らす。聖羅に聞こえてしまったらしく、睨まれてしまい、ばつが悪そうに視線を逸らした。ぼうっと無数の本棚が立ち並ぶ荘厳な風景を眺めながら、聖羅の視線から逃避するように、櫻子は取り留めのないイメージの欠片に思いを馳せる。

 満月。桜。滴る雫。吸血鬼。赤い色。死。 ふと思い返す、遠い日々の遠い記憶。

 櫻子の父はそれなりに有名な民俗学の権威であった。然し民俗学一筋だったかと言えば、そうではない。哲学書を書いたこともあれば、数学の論文において一定の成果を上げたこともある。 端的に言えば、真実を発見することにおいてとても長けた人物であった。未知を発見することを何より得意としていた。然し、それを発展させようとは、一切しなかったため、『穴掘り男』と蔑まれることもあった。

 櫻子には、客観的に過去を俯瞰して、父との楽しい記憶など思い浮かばなかった。然しそれでも、知的で、少々怠惰で、それでも優秀な父が櫻子は好きであったし、父の葬式には涙を流し慟哭した。

 吸血鬼。そう、櫻子は思い返す。父が病理学について研究していた時に、それとなく、吸血鬼の話題になったことがあった。勿論、相手は幼い頃の櫻子であるので、別に吸血鬼の科学的側面をつらつらと語った、というわけではない。日々研究の毎日で、関わりが希薄になりがちな娘の気を引こうという、涙ぐましい努力を理由に、櫻子を怖がらせようとしたに過ぎない。

 ――吸血鬼に血を吸われたものは、やがては、同じ魔物になり果てるだろう。

 そんな陳腐な文言を、揚々と読み上げる父に、櫻子は今となっては呆れんばかりであったが、幼い当時の櫻子にはそんな陳腐な言葉でさえ、耐え難い恐怖であった。というのも櫻子は、夜というものを甚く恐れていた。暗闇が掻き立てる生理的拒絶感を人一倍感じていたが故に、えらく臆病であった。闇に潜んで生きる者に対する恐怖と、それ以上に、自らが闇に落とされるという恐怖が身体を貫いて、櫻子は、みっともなく父に泣きしがみついた。

 ――父は自らの目論みが果たされたことをほくそ笑みながら、白々しくも、「父さんが守るから安心しなさい」と口にしたのだ。そんな考えが思考を過ぎりささやかな憤りが胸に飛来する。

 とそこで、櫻子は、聖羅が本から視線を外して自らを見詰めていることに気付いた。とても寂しそうな目であった。聖羅は櫻子に見詰めかえされると、逃げるように視線を本に戻したが、やがて、躊躇いがちに、櫻子を見た。


「櫻子は、時々、遠い場所に意識をやる」


 そう言われて、櫻子は自らの悪癖を素直に認めた。考え事や回顧をする時、櫻子はどうしても辺りが見えなくなる。虚空を見詰め、現実という鎖から乖離する櫻子の姿は、聖羅には限りなく遠く見えるのだろう。拗ねたような表情で俯き気味な聖羅の頭を撫でて、


「ごめんなさい。二人で居るのに失礼よね。ごめんなさい、聖羅」


 櫻子は謝罪を口にする。然し聖羅はゆるゆると首を振った。


「いい。櫻子は私の傍に居るのだもの」


 聖羅の言葉が、どこか自分に言い聞かせるような語感であることを感じた櫻子は、寂しげな彼女の肩を抱いて自らに引き寄せる。聖羅は手折られる花のように、それに逆らわず、ことりと倒れ、櫻子にもたれ掛かった。



 ――血とは命であり、存在の本質であり、魂の物質的側面である。

 机の上に開かれた本の一文が、櫻子の視界に映り込む。ふと聖羅の透き通るように白い肌が、甚く気になった。


「吸血鬼、なんて。恐ろしいわ。聖羅なんて直ぐに食べられてしまうわね」


「あら。櫻子が勇敢に助けてくれるのではなくて?」


 聖羅が悪戯っ子のように、ふふふ、と笑った。吐息が首筋を掠めてくすぐったい。


「無理を言うわ。でも、そうね。きっと助けてあげましょう」


 そんなことを言いながらも、櫻子は、聖羅が吸血鬼に襲われる姿を夢想していた。白い肌に突き立てられる鋭い犬歯。滴る赤色。宵闇。満月。なんて、美しいことだろう。なんて儚いことだろう。


 *


 檻のような校舎に、年頃で不安定な人間を集めてしまえば、人が死ぬのも、当然のことのように思える。義務教育というものにおける、厳しい規則というものは、然し、教育のためにあるのではない。ようは、効率の問題である。御為ごかしを無垢な子供に対して口にするために、生活指導の教師は存在しているのだ。


「櫻子は、どう思う?」


 野次馬に溢れる廊下の最後尾、聖羅がうんざりしたといった顔で言った。耳障りな喧騒には櫻子も辟易していたが、聖羅の憤りはそれとは関係ないらしい。恐らく、彼女の苛立ちは、儚く自らを散らした乙女に向けられている。

 如何なる理由が彼女を殺したのかは、今はまだ不明であるが、彼女は、穢れない純白のシーツの上で、首から大量の鮮血を流し、死んでいたという。そして彼女の右手にはカッターナイフが強く握られていたらしい。彼女が、もしも、逃避がために自らの死を望むような、気弱な、脆弱な乙女だとすると、何処か、らしからぬ死に方だと櫻子は漠然と感じた。苦痛からの逃避に苦痛を望むのは矛盾している。

 然し、聖羅が尋ねているのは、そんなどうでもいいことではない。彼女の死因など。いや殺害動機など、彼女自身にしか分からないのであるが故に。


「さぁ。自殺なんて。考えたこともなかったから。ただ――」


 砂糖菓子に集る虫がごとく、乙女の死に群がっては教師達に押し返されている、『幼気』な少女達を眺めながら、櫻子は、至極平坦に言葉を口にする。


「死ぬのは恐ろしいわよね」


 櫻子はそう言うと、会話を断ち切るように口元に手を当てて、可愛らしく欠伸をした。何か誤魔化されたように感じて、聖羅は不満げであったが、櫻子が聖羅の手を握って歩き出すと、その不満は何処へやら、少しだけ機嫌が良くなる。


「花見をしましょうよ。やがて散ってしまうのだから。今の内に楽しまないと」


「どうせ直ぐに寝ちゃう癖に」


「暖かい静かな場所で、眠気に襲われるのは、人として仕方のないことだわ」


 とはいえ、公園で無防備に眠りにつくのは乙女として如何なものかと、聖羅が抗議するように睨んだ。はしたないなどと聖羅に言えたものではない。


「櫻子はなんだかんだ無防備よね。私なんかより、よほど心配だわ。……吸血鬼ってね。家主に招かれないと家に入れないそうよ。櫻子なんか、もしも外から私の声がしたら部屋に入れてしまうでしょ」


「それは、勿論。だって貴女を疑うなんて出来ないわ」


 *


 駒鳥はいち早く羽ばたいた。今ならまだ追い付ける。放たれた矢のように迷いなく、私の翼で飛んで行け。何を迷っている。急がなければ、もう二度と行かれない。

 剣は間に置くだけでいい。但し鞘からは抜き放て。両手の内、利き手を後ろに、そうでなければ剣を持って前に出せ。

 流れ出でる不安に従い、愛しい駒鳥を追い掛けろ。闇が迫っている。剣を握れ。振るわなければお前は勝てる。


 *


 舞い散る花弁の嵐に巻き込まれる美少女。そんな風に、陳腐な言い回しをしても遜色のないほどには玲瓏な風景であった。花散らしの強風の中で、古臭い革張りの、然し荘厳な哲学書などを手にして、虚空を刹那げに眺めている異国情緒溢れる金髪の目麗しい少女などを、男性に免疫のない女学生などが目にした日には、未だ訪れぬ恋慕の先触れとして幼気で純粋な憧憬を抱いてしまうに違いない。

 然し、風景とは大凡にしてその内実を知らないからこそ、美しいと感じるのだ。

 少しでも彼女に近付くことが出来る、勇気か自信を持つ乙女が居たならば、その美しさの異常に気付いた筈だ。

 彼女の周りには、桜の花弁が散っていないのだ。文字通りの桜吹雪の中。彼女の周囲にだけ桜が積もっていなかった。まるで桜の花弁が彼女を避けているかのように。いや桜の花弁だけではない。吹き荒れる風さえも。ああ何故少女達は気付かないのか。彼女の美しい金糸の髪は、先程から重力に従い真下に落ちている。吹き荒れる強風の内に立っているというのに。或るいは少女達が彼女に近付けないというのも、金髪の乙女を取り囲む奇っ怪な力のせいか。

 彼女は、太陽の力を拒絶するかのように白い、陶器人形のような肌を晒しながら立ち止まっている。まるで何かを待ちわびているかのように。

 ふと。彼女は手にしていた本を、バタンと閉じた。虚空を向いていた視線を下に下ろしてじっと、道の彼方を見詰めると、そのままゆっくりとした緩慢な動作で、歩き出した。周りにいた何人かの女学生が、半ば黄色い悲鳴を上げながら道を空ける。


「……君」


 不意に金髪の乙女が女学生に声を掛けた。微妙な訛りがあったが至って流暢な日本語であった。可哀想なほど狼狽える女学生を窘めるように腕を伸ばして髪に付いた花弁を取り払う。


「あんまり。自らの血を無駄にするようなことは止めたほうがいい。ああ。然し、もしも要らないというのなら――」


 *


 自然公園には、この時期になると花見をしに沢山の人間が訪れる。立ち並ぶ無数の桜の木々は見る者を圧倒させるが、酒と日々の諦観に溺れる中年達の心には届かないらしい。また、幼気な子供達からしても、桜のその美しさは、大地を駆け回る爽快感やひらひらと空を舞う蝶蝶には適わないようだ。無理もない。蝶は空へ舞い上がるが、桜は舞い落ちるだけなのだから。

 櫻子と聖羅が訪れたのは、自然公園の入り口から右の坂を登った場所だ。開けた空間になっており、寂しげに東屋だけが置かれている。高所から見下ろす桜並木は美しいが、一々粗雑で歩き難い階段を登ろうという気力は半ば仕事の延長上で、義務的に花見をしにきた社会人達は持ち合わせていなかった。そのため櫻子の狙い通り、東屋には櫻子と聖羅しか居なかった。尤も、周囲では数人の子供達が蝶蝶を追い掛けたり、隠れん坊をしたり様々な遊びに興じていたが、彼等の、無邪気な声や足音は、むしろ櫻子には心地良く聞こえた。


「ただでさえ、落ちやすい花なのだから、敢えて吹くこともあるまいに……。悲しいものね。こんなにも綺麗だけれども」


「詩人ね、聖羅は。落ちやすい花だから敢えて吹いているのかもしれないわよ」


 櫻子は漠然と今朝の風景を思い返した。自ら死を選んだ少女。或いはそうまでも彼女を追い込んだ少女達。どちらも櫻子には理解の埒外に存在している。人が満開に咲き誇る時間は短い。どうせ何れは散ってしまうのに。どうして我慢が出来ないのだろう。それでも少女は良く散るし、良く散らす。であるならば、もしかすると逆なのかもしれない。


「花を手折るのは何時だって少女だもの」

 言って、櫻子はひらひらと風に乗って飛んできた花弁を手で掬い上げた。薄桃色の花弁はまさしく、『少女』を思わせる。ふと風が吹いて櫻子の手のひらから花弁を攫った。


「風に吹かれれば散ってしまうような、儚い存在にはなりたくないわ」


 聖羅が、卓に積もった花弁を払いながら吐き捨てるように言った。先程、公園に来る前に洋菓子店で買った、シュークリームと苺が乗ったショートケーキを卓に並べて、聖羅は満足そうに頷く。紅茶は櫻子が予め水筒に用意してある。

 少女達のお茶会の様子を先程まで、やんちゃに走り回っていた少年達が興味深そうにじっと見ていた。聖羅を見ていたのか、櫻子を見ていたのか、或いは菓子を見ていたのかは定かではないが、櫻子がたおやかに笑みを浮かべて手を振ってみせると、少年達は頬を赤らめ逃げるように走り去っていった。年頃の少年には、櫻子の麗しい容姿は些か荷が重いようであった。


「可哀想に。あんな風にしたら、誰だって逃げてしまうだろうに」


 聖羅が幼い少年の純情を労るように苦笑する。櫻子は聖羅の言葉を図りかねて首を傾げた。聖羅は気にしないで、と短く手を振って紅茶をカップに注いだ。櫻子の兄が趣味で集めているという上質な紅茶は、太陽の光を受けて透き通るように赤く煌めいた。


「櫻子のお兄様は、あんなにも目麗しく、嗜好も上品であらせられるのに、何故、浮ついた話もないのかしら。不思議だわ」


「あの人は、駄目なの。だって、ああも美しいと何処か『胡散臭い』のですもの」


 胡散臭い、などと自分の兄を評する櫻子に聖羅は苦笑しつつも、何処か納得する部分もあった。櫻子の兄である、麗しい青年の姿を思い返せば、確かに、胡散臭いというか、あまりにも、幻想的過ぎる。何処か現実から乖離していて確かな実在感がなく、見ている分には美しいが、隣に並び立つと不安になってしまうのかも知れない。

 着物という言葉が、和服と洋服、という言葉に分離しているように西洋化が著しい現代において、櫻子の兄が常に着用しているのは黒い生地に桜の花弁の模様が織り込まれた和服である。スーツやらシャツやらを着た人間が犇めく道を、和服を纏った麗人が切り分けて進む姿はあまりにも異様で、しかし、あまりにも彼にその格好が馴染んでいるために誰もが言葉を失うのだ。


「そう。あの人は、何か『胡散臭い』。大体、日本男児というには覇気がないもの。お兄様というよりお姉様のようだわ」


「あら。いいじゃない。暑苦しい男は私は嫌い。尤も、櫻子のお兄様は、反対に熱意を感じなさ過ぎるのだけど」


「だから。胡散臭いのだわ。あの人が何を考えているのか、私にはさっぱり分からないのだもの……ああ、そうだ。お兄様に、お話を訊いてみましょうか? 吸血鬼も人狼も悪魔も妖精もきっと何でも答えてくれると思うわ」


 聖羅は父からよくお話を聴いたと言っていたが、櫻子に対してそういった話をするのは専ら、兄の役割であった。幼い頃から麗しい兄の話は、ありきたりな童話から、櫻子の父が研究しているような小難しい理論、果てには近所で起きた怪事件など様々であったが、語り手の技量なのか、どれ一つとして櫻子を退屈にはさせなかった。櫻子が読書を趣味としているのは、兄の影響もあるのだろう。

 聖羅は、それは名案だと一瞬目を輝かせたが、直ぐに迷うように目を伏せた。


「けれど、櫻子。櫻子のお兄様。きちんと家にいらっしゃるの?」


 聖羅の問い掛けに、櫻子は答えなかった。代わりに紅茶を啜り、ケーキをフォークで両断する。


「運が良ければ」

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