一
麗らかな春の日差しの下で駆け回る幼子達の純粋で、いと可愛らしいことよ。ひらりひらりと、風に流されながらも、気丈に空を舞う真っ白な蝶蝶を追い掛けるその姿は、在りし日の幻想を薄汚れた大人達の心に想起させる。
良き日よ。良き過去よ。透き通る硝子細工の幻想よ。今一度、硝子の窓に付着した、欺瞞に満ちた倫理や、強迫観念に似た正義という名の汚れを拭き取って、幼く純粋な世界を覗くことが出来るのならば、この、美しく醜い世界を、辛うじてながらも、道を見失わずに歩み続けることが出来るだろう。
櫻子。彼女は、そんな、あえかで仇気ない美しい名を持つ少女であった。彼女は、無邪気にはしゃぐ幼い子供達の声を聞きながら、満開の桜の下で、木の幹に腰を掛け、暖かな日差しにたゆたっていた。
――櫻子。
ふと、微睡みの暗幕を切り裂いて聞こえた、囁くような微かな呼び掛けに、櫻子は目蓋を開ける。不意に視界に飛び込んでくる、華やかな笑顔に、櫻子は思わず息を吐いて視線を逸らした。そんな様子が気に入らなかったのか、春爛漫で活発そうな少女は、櫻子に抱き付くように飛び付いた。
「聖羅。はしたないわ」
櫻子が窘めようと、聖羅と呼ばれた少女は気にした様子もない。少女の元気一杯な様子は、活発的な春の気候と華やかな風景には馴染んでいたが、どちらかといえば静寂を好む櫻子は辟易してしまう。それでも櫻子と聖羅の付き合いが長く続いているのを考えるに、何だかんだで櫻子も、聖羅の天真爛漫さを好いている。可憐なものは等しく櫻子の気を引くが、聖羅の活発さと儚さの調和した不安定な美しさは、櫻子の気を引き止めて離さなかった。
「櫻子がいけないのよ。今日は私と遊んでくれると言ったのに」
はて、そんなことを言ったろうかと、櫻子は首を傾げる。言ったような気もすれば言っていない気もする。曖昧に苦笑する櫻子に聖羅は憤りを露わにして、櫻子に顔を寄せた。
「櫻子!」
「冗談よ。ごめんなさいね。あまりに良いお天気だから」
頬を膨らませるという、聖羅の古典的な怒りの表現に、櫻子は思わず口元を緩め、彼女の美しい艶やかな髪に指を通す。そんな古典的で幼稚な表情が、みっともないと思わないのは、単に聖羅の人柄と無邪気さを全面に醸し出している容姿故だろう。
「聖羅、ごめんなさいね。怒らないで」
「……。別に怒ってない」
そう言って、拗ねたように櫻子の胸に顔を埋める聖羅を、どれだけ愛おしく思ったか。櫻子自身にも計り知れなかった。
「聖羅も一緒にお昼寝しましょう?」
「櫻子は寝過ぎよ。駄目よ。駄目。私と一緒に図書館へと行くの」
図書館。聖羅の口から零れた思いも寄らない言葉に、櫻子は、失礼極まりないことに、首を傾げてしまう。そんな様子に益々聖羅は不機嫌そうに櫻子を睨んだが、室内に閉じこもっているくらいならば、野原を駆け回る方が愉快だと常々口にしていた聖羅が、図書館に行きたいなどと口にすれば、それは誰でも驚くだろうと、櫻子は思う。聖羅もまた、成長しているのだろうか、などと傲慢にも母親か姉のような視線で、変な感慨を受けてしまう。
「ええ、ええ。分かりましたわ。漸く、聖羅も物語に思いを馳せる楽しさを理解出来るようになったのね」
「……まあね」
櫻子と聖羅は、桜満開の自然公園を後にして、煉瓦で舗装された道を踵の高い洒落た靴で打ち鳴らしながら、歩く。櫻子はこの手の、実用性に乏しい靴があんまり好きではなかったけれど、聖羅から贈られたものであるこの靴だけは、別であった。
「聖羅。どんな本を借りるのか、決まっているの?」
「ええ。まあ。櫻子は、西洋の妖怪を知っている?」
「それは妖精、とかそういう?」
首を傾げて答える櫻子に、聖羅は首を横に振る。聖羅は、兼ねてからオカルト《神秘主義》な趣味を持っていたのだが、櫻子と話題を共にすることはなかった。櫻子も聖羅の趣味自体は知っていたが、敢えて語ることもなかった。
「そういうのとは違う。どちらかと言えば首なしの騎士や雪男とか。私が気になるのは妖精ではなくて、怪物の方」
妖精よりも怪物の方が気になるとは乙女としては如何なものか。然し聖羅には何故か其方の方が似合っているようにも、櫻子には思えた。何より聖羅が妖精と戯れる姿など、想像も出来なかった。花畑に舞う妖精を、虫編みで捕らえようとする姿はありありと浮かぶというのに。其処まで考えて、ふと、今更ながら櫻子は、聖羅がオカルトな趣味を持っていることを意外に感じた。いや、正確には、前々から意外には感じて居たのだが、乙女は誰もが意外な趣味というものを持ち合わせているものかと、妙な納得をしていたのだ。
然し、一度気になると、変に胸に突っかかった。
「けれど。意外だわ。聖羅は本をお読みにならないのに。詳しいのね」
思わず櫻子が口にすると、聖羅は、ばつの悪い顔で視線を泳がせた。何かを恥じているようだった。
「お父様が、よく、色々なお話をしてくれたから」
「素敵じゃない。何を恥じることがありましょう」
「子供っぽくて恥ずかしいのよ」
何を今更と、櫻子は思ったが、どうも本気で恥ずかしがっているようだったので、口を閉ざした。聖羅は、どうも自分の幼い容姿にコンプレックスを抱いているようで、妙な背伸びをしたがる。その姿が益々、自身を幼く見せていることに、彼女は気付いていないようだが、櫻子はそんな聖羅の仇気なさが愛おしかったので、敢えて指摘していない。
「私も不思議な話が好きよ、聖羅。おどろおどろしい話もね」
自然公園から続く、桜の花弁を敷き詰めた華やかな街道を真っ直ぐに通り抜けると、大きな洋館が見えてくる。この街で図書館と言えば、街の外れに在る公立の図書館ではなくて、古くから街の中央に存在している、由緒正しい私立図書館の方である。貸出はしていないのだが、希少な本が多数蔵書されており単なる本好きから書痴と呼ばれるような人々にまで幅広く利用されていた。尤も最近は利用客がかなり減ったと、櫻子の知り合いの司書は嘆いているのだが。
図書館、というよりは美術館と言った方がしっくりとくる美しい内装のホールを抜けて書庫へと入ると、高い天井と壁一面の本棚が出迎えてくれる。天井には仏人の絵画が一面に描かれており、見る者を荘厳な気持ちへ至らせる。
「凄い綺麗……だけど。読書には向かない気がする」
「そうね。とても綺麗だけれど、圧倒されてしまう。確かに読書には向かないかもしれないわ」
小声で呟く聖羅に、櫻子が同意する。司書の女性が、櫻子の姿を確認して、近付いて来る。
「こんにちは、櫻子さん。今日はお友達も一緒なのね」
「ええ。聖羅、というのです。十一月二十九日聖羅。私の大切な、大切な友人なのです。……聖羅、此方は、小鳥遊さん。私の母のご友人だったそうですわ。良くお世話になっているの」
聖羅は、櫻子の後ろに隠れるように立っていたが、紹介されてしまったので、渋々といった風に、小鳥遊と紹介された女性の前に立った。聖羅は人見知りする方ではないが、どうも櫻子の知り合いとは関わりたがらない節があった。聖羅は素っ気なく、御辞儀をしただけであったが、小鳥遊司書は気にした様子もなく、穏やかに笑って御辞儀を返した。
聖羅は逃げるように奥の本棚に小走りで向かう。櫻子は注意しようか迷ったが、他の利用客は居ないようなので、止めておいた。
「聖羅ちゃんは嫉妬深いみたいね」
「少し、子供っぽいところのある子なのですわ。本人は否定していますけど。そこが可愛いのです」
「そうね。とても可愛い子。ほら、彼女が呼んでるわよ。行ってあげなさいな」
振り返ると、上段の本棚へと続く螺旋階段の途中で、聖羅が手招きしている。流石に大声を出すのは堪えたようだが、どちらにしろ慎ましい大人の女性とは言い難い。可愛らしい。と甘やかすのは良くないと分かっているのだが、どうも、櫻子には聖羅を叱ることが出来ないのだった。
小鳥遊司書に御辞儀をして別れ、聖羅の下へ急ぐ。他に利用者が居ないとはいえ、その内に我慢が出来なくなって、大声を出されては困る。
「随分、仲が良さそうね」
「拗ねないの。貴女が一番よ」
そう言って、櫻子が頭を撫でると、聖羅は唇を尖らせながらも満足そうに笑みを零す。櫻子が言えたことではないのだが、将来悪い男に騙されないものかと不安になる単純さである。
聖羅の頭を撫でながら、周囲を見渡す。
「目当ての本は見付かったかしら?」
「……。沢山在りすぎて迷ってしまう。大体あんな高い場所の本をどうやって取るの」
天井にまで届く巨大な本棚の最上段まで本がぎっしりと収まっている様子を見てしまうと、確かに迷ってしまう。これを個人で収集したというのだから、どんな大富豪が図書館を建てたのか、櫻子はとても興味が湧く。そもそも維持するのだって尋常ではない費用が掛かるだろうに。
「梯子があるけれど。恐ろしくて登れないわよね。……えっと、西洋の怪物というと……人狼や吸血鬼が有名かしら」
キョロキョロと周囲を見渡しながら、膨大な知識の海を漂う。背表紙に刻まれる文字を眺めるだけで、自身が賢くなったような錯覚に陥る。櫻子は読書が好きだ。この図書館もそろそろ常連だが、この本の海だけは、宜しくないと思う。度が過ぎていて、人を惑わせ溺れさせる。読書に慣れていない人は辟易してしまうだろう。現に聖羅は最早うんざりといった表情をしている。
「――これはどうかしら」
手頃な位置に在った本を一冊手にとって、聖羅に手渡す。どうやら女吸血鬼が主題の話のようだ。聖羅はおずおずと受け取って、表紙を開く。少し考え込んでいたが、やがて頷いて本を抱き締めた。貸し出しは出来ないので、下の机で読んできなさいと聖羅を促す。
「櫻子も一緒に読もう」
「んー……そうね。じゃあ一緒に読みましょうか」
本当は読みたい本も在ったのだが。仕方ないと聖羅に付き合う。どうせ何時でも読めるのだから。聖羅に関しては図書館に来るのはこれで最後かも知れないのであるし。