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故無しシャールカの貴婦人生活  作者: 加藤有楽
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第1話

 目を開いて最初に視界に飛び込んできたのは、寝室の天井だった。その見慣れた天井に、なるほどわたしの寝室じゃねーの、と思ってむくりと体を起こす。案の定身体は、わたしの寝台の上にあった。寝心地抜群の暖かい寝具に、立派な寝台。華やかな内装に十分な広さのこの部屋は、確かにわたしの寝室だ。

 さて、ここで第一問。ここは確かにわたしの寝室ですが、『わたし』は一体誰でしょうか。……うん、その、わたしって、誰だ?

「お、お目覚めですか……?」

 根本的な問題にわたしが頭を抱えていると、扉の方から幼い声が聞こえてきたので、ついとそちらに目をやれば、メイド姿の女の子が驚いた表情でこちらを見ていた。十三、四歳くらいの、おさげにした赤毛が可愛い女の子。わたしの部屋で寝ていた『わたし』に声をかけてきたということは、『わたし』のことを知っているに違いない。返事をしようと口を開いたら、あっという間に身を翻して扉の外に消えてしまった。

「医者を呼んで参ります!」

 ぱたぱたと軽やかな足音が遠ざかるのを聴きながら、わたしは、はて、医者とな?と首をかしげることになった。先程のメイド姿の女の子とは、特に意思の疎通を図れなかった。ならば彼女はわたしが置かれている『わたしって誰?』状態については分からないはずである。にもかかわらず、メイド姿の女の子は医者を呼びに行った。ひょっとしてわたしは、起きたら医者を呼ばれるような人間なのだろうか、と思ったところで、頭に違和感を覚える。手を伸ばしてみると、布のようなものが巻かれているのが分かった。さて、この布は一体何なのか。とりあえず邪魔だから取ってしまおうかと布をむんずとつかんだところで、また扉が開いて、先程のメイド姿の女の子と、白い上着に身を包んだ年配の男性が現れた。姿からしてこの爺さんが医者だろう。

 医者の爺さんはわたしを見て驚いたように目を見開いたが、何かに気付いたのか、はっとしたような表情で慌てて口を開いた。

「まだ包帯を取ってはなりません!」

 医者の爺さんにそう叫ばれて、思わずつかんでいた布を放す。なるほどこの布はホウタイというものらしい。医者が取るなということは、医療用具なのだろうか。残念ながら全く覚えが無い。手は離したが、そのホウタイはわたしが掴んだことで緩んでしまったらしい。ずるずるとずり下がってわたしの視界を塞いだ。

「すぐに取り替えましょう。傷の様子も確認してみます」

 医者の爺さんの声が真横にまで移動してきたかと思ったら、するするとホウタイが解かれ、視界が戻ってくる。目に入ってきたのは心配そうな表情のメイド姿の女の子で、扉の前でそわそわとわたしと医者の爺さんを見比べていた。なんとなく女の子をじっと見ていると、失礼いたします、と医者の爺さんの声がして頭に触れられる。しばらくすると、医者の爺さんは安堵した声を上げた。

「傷はほぼふさがっております。腫れもだいぶ引きましたので、悪化することはないでしょう」

 その声に、心配そうな表情を浮かべていたメイド姿の女の子が、はーっと長い息を吐いた。それから、にっこりと安堵した笑顔をこちらへ向けてくれる。おおお、可愛いなぁ。こっちまでにっこりしてしまう。吊られて薄ら笑いを浮かべていると、医者の爺さんが医者特有の穏やかな表情でわたしの顔をのぞき込んだ。

「どこか痛いところはございますかな?」

 そう聞かれたものの、特に痛みを感じるところはない。先ほどの医者の爺さんの様子だと、どうやらわたしは頭に怪我をしているようだが、それより何より、怪我のことを含めて、わたしが『わたし』のことをきれいさっぱり忘れているということの方が問題だ。わたしは医者の爺さんの穏やかな表情をじっと見据えると、至極真面目な表情で疑問を口にした。

「痛いプレイスはナッシンですが、ところでマイセルフはフーですか?」

 わたしの正直な言葉に、医者の爺さんは穏やかな表情を引っ込め、驚きに目を見開いた。にこにことしていたメイド姿の女の子もきょとんとした表情で、こちらを見ている。うん、そうね。驚くよねこんなこと言い出したらね。しかし、驚いているのは分かるのだが、驚きより面食らった感じの表情なのが若干気になる。いや確かに、起き抜けの顔見知りに突然、私は誰?とか聞かれたら驚くか冗談かと思うかどっちかだろうけれども。

「あ、あの……?」

 困惑した表情で聴き返してきた医者の爺さんに、もう一度同じことを言う。体に痛む場所はないこと。わたしはここがわたしの部屋ということは理解しているが、『わたし』が誰なのかがさっぱり分からないこと。そもそもこの『わたしの部屋』がどういう国のどういう都市のどういう場所にあるのかも分からないこと。さらに言えば日付はいつなのかすらよくわからないと正直に申し述べてみた。阿呆の子のようだが、分からないものは仕方ない。

 わたしの抱える問題について切々と訴えてみたが、医者の爺さんとメイド姿の女の子は面食らった表情のまま目を白黒するばかり。訴えるべきことは全て訴えたわたしが口を閉ざすと、しばし二人も無言だったが、しばらくして医者の爺さんは、言語能力に何か障害が?と茫然と呟いた。

 ……うん?ちょっと待て言語能力?記憶障害とか意識障害とかでなく?え?言語?医者の爺さんの呟きに、ひょっとしてわたしの言葉は通じていないのかと聞いてみると、医者の爺さんはなんとも言えない表情になりながらも、通じております、と答えた。では何がおかしいのかと聞けば、言語が混ざっているという。

「土台は交易共通語のようですが、一部にお国の言葉が混じっております」

 ふーむ、オクニとは何だろう。意味がわからず眉間に皺を寄せると、医者の爺さんはわたしが右も左も覚えていないと主張していることを思い出したのか、言葉を続けた。

「ご出身のナウルバキアの言語ですな」

 オクニ、とはどうやら故郷のことであるらしい。『わたし』はナウルバキアというところの出身ということか。ということは、今いるここはナウルバキアではない、ということであろう。ていうかナウルバキアってどこっていうかどういう場所だ。故郷だという地名を聞いても、何一つ思い出せない上に郷愁の念なども湧かない。故郷の地名ぐらい、心の琴線に触れて何か思い出してもいいのではと思い、腕を組んで地名を反芻してみるが、残念ながら脳裏をぐるぐるするのはナウルバキア、という初耳の地名だけであった。ああ、うん、ダメだこりゃ。

 わたしが心の琴線をどうにか鳴らそうと考え込んでいると、医者の爺さんは未だ目をぱちくりとしているメイド姿の女の子に何やら耳打ちをした。それを受けて、女の子は一つ頷くと、失礼いたします、と言って部屋から出て行ってしまう。

「旦那様にご報告をしなければなりませんので」

 メイド姿の女の子を見送っていると、医者の爺さんはにこりと笑顔を浮かべてそう言った。医者が患者を安心させる、穏やかな笑顔である。

 しかし、メイド姿の女の子が報告をしに行ったという旦那様とは誰か。そしてわたしはその旦那様とどういう繋がりがあってここにいるのか。おそらく医者の爺さんやメイド姿の女の子は、その旦那様とやらに雇われている立場であろうが、先程からのわたしへの態度からして、わたしはその旦那様の家族とかそういうあたりだろうか。ふと気づけば、目覚めてから分からないことが増えていくばかりである。あれこれどういうことなの?と眉間にシワを寄せたところで、医者の爺さんが穏やかに話しかけてきた。

「さて、それではもう一度症状を確認いたしましょう」

 穏やかな笑顔につられて、医者の爺さんにあれこれ聞いてみたり逆に聞かれたり、今わたしが置かれている状況をひとつひとつ確認してみたところ、どうやらわたしは『わたし』の記憶一切合財と、その上一般常識などの知識も一部欠落しているらしい、という結論に至った。記憶はともかく、知識も欠落しているという医者の爺さんの主張に、いくらなんでもそれではわたしは本当に阿呆の子ではないかと反論してみたが、医者の爺さんはまた穏やかな笑顔を浮かべると、わたしの寝ている寝台の横の棚の上に置いてあった、小さな入れ物を手にとった。

「これの名前が分かりますかな?」

 医者の爺さんの手の上に乗っているのは、そのまますっぽりと握りしめてしまえるくらいの大きさの入れ物だった。構造は蓋と入れ物に別れていて、蓋の部分は、蓋というより籠のような網目になっている。そしてその入れ物を動かすと、微かに良い香りがあたりに漂う。じっとそれを観察してみるが、それ以上のことは分からない。入れ物部分には随分と手の込んだ細工がしてあることは分かったが、正直なところ、名前どころか用途すら分からないのだ。とりあえず、食べられるのかと聞いてみたら、医者の爺さんは思いっきり苦笑いをしていた。そして、そのわたしの反応で、わたしが記憶と一緒に知識も欠落してしまった、ということに確信を持ったらしい。ひとつ頷いてから、その小さな入れ物を元に戻した。

 因みにその小さな入れ物は『わたし』のお気に入りの香炉というもので、香を焚くものらしい。答えを聞いても、はぁなるほど、香炉。ところで香って何?という状態だったので、わたしもそれ以上の反論はできなかったのだが。

 そしてこの記憶と知識の欠落と一緒に問題になったのが、わたしの喋っている言語の混乱だった。どうやら今のわたしは、相手が面食らうしかない程のごっちゃごちゃな言葉を喋っているらしい。医者の爺さんが言った通り、土台はこのあたりの国々の共通語である交易共通語というものらしく、なんとなく意味は通じるようだが、それに先程のナウルバキアの言葉やこの辺りの地元の言葉、その上医者の爺さんが理解できない言語もほんの少し混じってしまっていることで、なんかもう笑うしかない状態になってしまっているらしい。正直なところ、思考するには全く問題が無いので、そんなに酷いものなのかイマイチ実感が湧かないが、先程からのメイド姿の女の子や医者の爺さんの反応を見るに、それなりに酷い状態なのだろう。

 しかし、もし以前の『わたし』がこれらの言語をきちんと使い分けていたのならば、ひょっとして『わたし』は語学が堪能だったのかもしれない。記憶を失う前は阿呆の子ではなかったと信じたい。

 そんなこんなで、ああでもないこうでもないと医者の爺さんと話し合った結果、わたしが主張した、右も左も覚えていない状態に納得した医者の爺さんは、しばらくすると大きなため息をついて、ぼそりとこう言った。

「言語は混乱しておりますが、言葉を覚えていてくださって幸いでした……」

 あっはっは、ですよねー。聞こえた呟きが正論過ぎて思わず同意してしまったが、医者の爺さんは困った表情のまま、こちらを見ている。いや別にふざけている訳じゃなくて。心からの同意というかなんというか。やや他人事っぽく聞こえたことについては、目をつぶって、いや、耳をふさいで頂きたい。なにしろ記憶が無いので、以前の『わたし』については、限りなく他人事に近い私事なのである。こればっかりは仕方ないでしょうよ。

 とりあえず誤魔化そうと薄ら笑いを浮かべてみると、医者の爺さんは気を取り直すようにため息をついてから、持参してきたらしい薬箱のようなものに手を伸ばした。

「お怪我は快方に向かっておりますが、ここ二日ばかりずっと眠っておられましたので、身体が衰えております。しばらくは養生して頂かなければなりますまい」

 なるほど。わたしはどうやら頭を怪我して気絶し、そのまま二日寝込んでいたらしい。しかし何故頭なんかに怪我をしていたのだろうか。頭怪我して気絶とか、そのままあの世逝きでも全くおかしくないわけだ。むしろよく目が覚めたねって言われるよ?一体何をしてそんなことになっていたんだよ『わたし』……。

 そもそもよくよく考えてみれば、現時点で『わたし』についてわたしが分かったことは、『わたし』は頭を怪我して二日意識が無かったことと、出身地がナウルバキアということだけである。あれこれわたしが知りたいことが全く判明してなくね!?『わたし』の名前すら不明とかどういうことなの!?

 慌てて医者の爺さんに質問しようと口を開いたところで、扉がノックされ、先程のメイド姿の女の子の声が、先生、旦那様がいらっしゃいました、と医者の爺さんを呼んだ。その声に、医者の爺さんは薬箱から視線を上げると、どうぞと返事をする。するとがちゃりと扉が開いて、その『旦那様』とやらがわたしの寝室に入ってきた。

「目が覚めたって?」

 そう言いながら部屋に入ってきたのは、一人の兄ちゃんである。兄ちゃん、と表現したが、どちらかというと『おっさん』寄りの『兄ちゃん』だ。間違いなく三十は過ぎているであろうが、なかなかの長身にしっかりと厚みのある体をしている。肌は白く、髪は陽に透ける亜麻色で、少し長く伸ばして後ろに流していた。やや釣り目気味であるが、顔の作りも悪くない。ガタイが良いので、いかつい印象を受けるかと思ったが、全体的にまとう雰囲気が華やかなものなので、実際よりも細く典雅な印象を受ける。着ているものは何の変哲もないズボンにシャツだが、どうやら趣味は悪くないらしい。以上の印象を簡単にまとめると、なんか雰囲気が派手なでっかい兄ちゃんである。

 しかしこのでっかい兄ちゃんが『旦那様』なのかぁ。『旦那様』について、勝手に壮年の男性を想像していたわたしとしては、完全に予想外の人物である。状況的に、わたしの父親あたりがやってくるのではないかなーと思ったのだ。いや、このでっかい兄ちゃんがものすんごい若作りで、わたしの父親である可能性も無きにしも非ずなのだが、どちらかといえば、兄弟の可能性の方が高くなってきた。

「色んなことをすっかり忘れていると、ニノンが言っていたが」

 ひょっとしたらわたしの父親か兄弟かもしれないでっかい兄ちゃんは、扉からまっすぐこちらに歩いてくると、医者の爺さんの前に立って腕を組んだ。このでっかい兄ちゃんは典雅な雰囲気とは違い、背筋を伸ばしシャキシャキ歩く人であるらしい。身長も体の厚みもそれなりにあるので、目の前で腕を組んで仁王立ちされると、それなりの迫力があるだろうに、医者の爺さんは相変わらずの穏やかな表情のまま兄ちゃんに一礼すると、わたしの状況を説明し始めた。

 ところで、先程のでっかい兄ちゃんの言葉からするに、あのメイド姿の赤毛の女の子は、ニノンちゃんと言うらしい。ニノンちゃんはでっかい兄ちゃんと医者の爺さんの後ろに控えて、やはり心配そうな表情でこちらを見ていた。とりあえずへらりと笑いかけてみると、ニノンちゃんも遠慮がちに笑顔を返してくれる。おおお、可愛いのぅ。

 わたしがへらへらというかでれでれとニノンちゃんと交流をしていると、唐突にわたしの視界にでっかい兄ちゃんの顔が現れた。どうやら医者の爺さんの説明は終わったらしい。

「えらいことになっているねぇ、怪我はよくなっているようで何よりだが」

 いつの間にかでっかい兄ちゃんが寝台の横に置かれた椅子に座り、わたしの顔を覗き込んできていた。医者の爺さんからわたしの状況は聞いただろうに、事態を面白がっているかのような表情を浮かべている。身内の記憶が欠落しているというのに、その表情はどうなの。そんなでっかい兄ちゃんの顔をまじまじと見るが、この顔に心当たりは無い。親兄弟の顔も思い出せないとか、我ながら酷い状況である。わたしも面白そうにしているでっかい兄ちゃんのことは言えないぐらいには薄情者ではないか。

「ユーはフーですか?」

 しかしまぁ、思い出せないものは仕方が無い。とりあえず正直に聞いてみたところ、このでっかい兄ちゃんも一瞬だけ面食らった表情を浮かべたが、すぐに面白そうににやりと笑った。やっぱりわたしの言葉遣い、そんなにおかしいの?そんなに?

「ははぁ、ニノンがへどもどしていた理由はこれか。そして私のこともすっかり忘れているわけだ」

 はぁ、申し訳ない、と、とりあえず謝ってみると、でっかい兄ちゃんは一瞬意外そうな表情を浮かべたが、すぐに面白そうな表情に戻って言葉を続けた。

「いや、なに。気にすることはない、ミレーヌ」

 文脈からすると、最後の単語がわたしの名前であろう。なるほど、『ミレーヌ』とな。ようやく名前が判明したな、と一安心していると、でっかい兄ちゃんの後ろにいたニノンちゃんと医者の爺さんの表情が引きつっているのが目に入った。医者の爺さんの顔色は青くなっているし、ニノンちゃんに至ってはあわあわと両手を意味不明に振り回している。いや、医者の爺さん殴り飛ばしそうだから、落ち着いた方がいいよニノンちゃん。

 しかし、この二人の反応は謎である。わたしが名前を知るとまずいことでもあるのかと首を傾げると、しばらく興味津々の表情でこちらを伺っていたでっかい兄ちゃんが、ぷっと吹き出し、けたけたと笑い出した。え?ちょ、な、何なのこの兄ちゃん。今のどこに笑う部分があったの?それともあれなの、時間差で吹き出すほどわたしの言葉遣いおかしいの?意味が分からな過ぎて身の置き所がないんだけどこれ。どういうことなの。

 唐突に笑い出したでっかい兄ちゃん、それを呆然と眺めるわたし。そして青い顔の医者の爺さんに、慌てた様子のニノンちゃん。なんだこのカオス。誰も彼もが無言の中、しばらく一人けたけたと笑っていたでっかい兄ちゃんは、気が済んだのか、目尻に浮かんだ涙をぬぐいながら、なんとか笑いを引っ込めた。

「ああ、すまない。私が違う名前を教えたから二人は慌てているし、あなたはあっさり私の言葉を信じるし……ちょっとからかっただけなんだがなぁ」

 けろりと言われた言葉に、思わず脱力する。何だよわたしの名前はミレーヌじゃないのかよ。しかし、己の置かれた状況がさっぱり思い出せず、茫然自失の人間に対する行為としてはあまりにもアレじゃね?人としてどうなの。薄情者とかそういう問題じゃなくね?

 唐突に意味不明な行動に出たでっかい兄ちゃんに、記憶が飛んでいる人間にその仕打ちは無くね?と正直に申してみたら、でっかい兄ちゃんは面白そうな表情を浮かべたまま、ぺこりと軽く頭を下げて見せた。おお、なんという誠意の感じられない謝罪。

「ふふ、申し訳ない。確かにあなたの言うとおりだな。……あなたの名前はシャールカという。シャールカ・ソワイエだ」

 その言葉に、今度は本当なのかよオイ、というわたしの疑いしか浮かんでいない内心を読み取ったのか、でっかい兄ちゃんはにっこり笑って見せた。うわぁ、微塵も信じられない系の笑顔だわこれ。

 そこで、でっかい兄ちゃんの後ろにいる医者の爺さんとニノンちゃんに確認の視線を向けると、二人とも困ったような笑顔ながらも、小さく頷いてくれた。どうやらこの話は本当らしい。

 なるほど、シャールカ・ソワイエか。目が覚めてからずいぶん経ったような気もするが、やっと『わたし』の名前が判明した。自分の名前すら良く分からないのは不安である。そう考えると、名前というのは人間に無くてはならないものである。

 いやしかし、シャールカかぁ。響きを聞いても女性の名前なのか男性の名前なのかよく分からない名前だなぁ……ていうか、いや、ちょ、ちょっと待て。落ち着いて考えてみよう。目が覚めてから、わたしは『わたし』のことをなんとなく女性だと思っていたが、『わたし』が男性である、という可能性はどうなのだろうか。目に入るやせっぽちな腕はやや日に焼けているものの、男性とは比べ物にならない細さだし、腕と同様にやや焼けている手は男性のような節くれだったものではなく、丸い爪の先まできれいに手入れされている。ささやかながらも胸のふくらみも確認できるし、顔は確認していないが、ぺたぺたと首を触ってみると、腕同様貧相な肉付きの細い首であったが、喉仏も確認できないので、おそらく女性であろう。声も低くなかったし。うん、多分。

 眉間にしわを寄せて、急に体のあちこちをぺたぺたと触り出したわたしに、でっかい兄ちゃんは物珍しい動物を観察するような目を向けていたが、ふと後ろのニノンちゃんを振り向いた。

「ニノン、鏡を」

 そう声をかけられたニノンちゃんはぴしっと姿勢を正してから、慌てた様子で近くの引き出しから手鏡を取り出した。なんだか凄い細工が入っている手鏡だ。おおお、なんだこの意匠。半端ないなぁ。常識が欠けているわたしにも、この手鏡が高価な品だというのは分かるぞ。

「それは鏡というものだ。人の姿が映るが、裏に人はいないから安心して覗くといい」

 でっかい兄ちゃんは、なんだか適当な説明をしてくれた。医者の爺さんから、わたしが記憶と一緒に一部も常識も欠落し、若干阿呆の子となっていると聞かされていたから、ひょっとしたら親切心で鏡の説明をしてくれたのかもしれないが、わたしが手鏡をまじまじと見ていたのは、別に鏡が何か分からなかったのではなく、その細工が凄かったからなのである。しかも説明してくれたときのでっかい兄ちゃんの声の調子は、どっちかっと言えば阿呆の子を眺めてニヤニヤしているそれに近い様子だったので、さすがにそれくらいは分かる、と不満の声を上げると、兄ちゃんはまたしても面白そうな表情のまま、それは失礼した、とまたしても誠意の欠片も感じられない謝罪をよこした。恐らくわたしの親兄弟であるこのでっかい兄ちゃんに関しては、今後、薄情者の鑑、という認識でいくことにしよう。

 誠意の欠片も感じられない謝罪に返事をするのも面倒なので、わたしは無言のまま、ニノンちゃんが横からわたしの目の前に差し出してくれた手鏡を受け取った。そういえば、わたしは『わたし』の顔を初めて見るのである。これで『わたし』の性別も判明するであろう。いやしかし、万が一、いや億に一、物凄くごっつい上にチョビ髭の脂ぎった薄らハゲの加齢臭漂うおっさんの顔とかが鏡に写ったらどうしよう。驚きのあまり、この高価な手鏡を横にいる薄情者の鑑にぶち当ててしまうかもしれない。力の限りピンポイントで顔の当たりに。

 そんなことを考えつつ、恐る恐る覗きこんだ鏡に映っていたのは、物凄くごっつい上にチョビ髭の脂ぎった薄らハゲの加齢臭漂うおっさんの顔ではなく、恐る恐るこちらを覗きこむ少女というか娘というか、そのくらいの年頃の娘だった。ニノンちゃんより年上なのは間違いない。やや黄みの強い肌の色からして、どうやらこの部屋で唯一人種が違う人間のようだ。しかし、なかなか愛嬌のある顔をしている。肌は腕と同様にやや日に焼けており、きょとりとした大きな瞳は煤けた黒色。ほっそりといえば聞こえはいいが、痩せっぽちの顎にのる唇はやや薄い。瞳と同じ色の髪はバッサリと短く、横にいる兄ちゃんや医者の爺さんよりも短い有様だ。しかし柔らかい髪質なのか、ふわふわとあちこちに跳ねていた。美しい娘、とは言いがたいが、最初に受けた印象通りの愛嬌はある娘である。なるほど、これが『わたし』の顔か。……よかったー、物凄くごっつい上にチョビ髭の脂ぎった薄らハゲの加齢臭漂うおっさんじゃなくて。

 しばらく手鏡をまじまじと覗きこんでいると、鏡に写ったわたしの顔の後ろに、相変わらず面白そうな表情を浮かべているでっかい兄ちゃんの顔が写りこんだ。

「感想は?」

 そう問われて、とりあえず受けた印象を端的に言い表してみたところ、感想を求めてきた兄ちゃんは、またしてもぶはっと吹き出して、くつくつと笑いだした。この兄ちゃんの笑いのツボが意味不明すぎる。ひょっとして、箸が転がってもおかしい年頃ってやつなの?それとも何なの?酔っ払って無くても常に笑い上戸を維持し続ける特異な体質かなんかなの?

 先ほどからの意味不明な爆笑っぷりに、思わず冷ややかな視線を向けると、でっかい兄ちゃんはその冷たい視線に気づいたのか、ひっひっひ、と笑いを引っ込められないまま言い訳を口にした。いやぁ、流石だ。流石薄情者の鑑は違う。

「い、いや……まさかあなたの口から、愛嬌はある、という言葉が出てくるとは思わなかったから」

 いや、それどういう意味だよ。色んな意味でどういう意味だよ。『わたし』についてどういう人間だと思っていたんだよ。笑い続けるでっかい兄ちゃんを、先端が尖った棒状のもので小一時間小突き回した挙句、どう考えてもそのでっかい身体が入らないような小さい木箱にぎゅうぎゅうに詰め込んだ状態でことを問い詰めたい衝動に駆られたが、笑いすぎてむせこんだでっかい兄ちゃんは、医者の爺さんに背中をさすられ、ニノンちゃんから水を勧められている。おい、兄ちゃん……。

 その姿に一連の衝動が萎えてしまったわたしは、まだ手に持っている手鏡を覗き込んだ。鏡に映る見慣れぬ『わたし』は眉間にしわを寄せていた。そうなのである。わたしは『わたし』の顔と、シャールカという名前と出身地を知ったが、それ以外は相変わらずさっぱりなのである。というか、このでっかい兄ちゃん何者なんだよ。わたしの親なのか兄弟なのか。あとそれ以上に、結局わたしは何者なんだよ!?

 思わず視線を上げてでっかい兄ちゃんを見るが、今度は水を飲んでいる途中に笑ったらしい、水が喉にでも入ったのか、げほげほとマジな様子でむせこんでいた。……兄ちゃん、いや、この際薄情者の鑑のおっさんと呼ばせていただこう。おっさん、おっさん。あんたが来てから事態が全然進まないんだけどおっさん。どういうことなのおっさん。しっかりしてくれおっさん。

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