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レンタル彼女を頼んだら、死んだはずの初恋相手がやってきた

作者: キュラス
掲載日:2026/07/01

この世界に、これほど残酷な奇跡があるのだろうか。


始まりは、スマートフォンに表示された、ありふれたマッチングアプリの画面だった。

「キャスト派遣完了のお知らせ。本日十九時、ご指定の住所へお伺いします。キャスト:ユウカ」


二十四歳。大学を卒業してから都内の小さなIT企業でシステムエンジニアとして働く俺――真島晴ましまはるは、ひどく孤独だった。毎日、深夜に狭いワンルームのアパートに帰り、コンビニの弁当を口に放り込み、泥のように眠るだけの生活。友人と呼べる奴らは皆、結婚したり仕事で遠くへ行ったりして、気づけば週末に言葉を交わす相手すらいなくなっていた。

心に空いた大きな穴を、ほんの少しの金で埋められるなら。そんな出来心で登録したのが、流行りの『レンタル彼女』のサービスだった。三時間で二万円。決して安くはないが、誰かと手を繋ぎ、誰かと他愛のない会話をするためだけの、寂しさを紛らわせるための代償だった。


十九時ちょうど。アパートの古ぼけたチャイムが鳴った。

俺は小さく息を吐き、寝癖がないか鏡で確認してから、玄関のドアを開けた。


「はじめまして! 本日デートを担当させていただきます、ユウカです!」


初夏の生ぬるい夜風と共に、ふわりと、あまりにも懐かしい百合の香りが鼻腔をくすぐった。

そして、目の前に立っている少女の姿を見た瞬間、俺の心臓は、ドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。


緩やかにウェーブがかかった、栗色の長い髪。

少し垂れ目の、悪戯っぽく笑う大きな瞳。

小柄な体躯に、白いブラウスと薄緑色のフレアスカート。


「……え」


喉の奥が完全に張り付き、声にならなかった。

あり得ない。そんなはずがない。人間の見間違いだ。同姓同名の、よく似た他人に決まっている。脳裏で激しい自己否定の言葉が渦巻くが、俺の目は、彼女の顔から片時も離れることができなかった。


「あ、あの……真島晴さん、ですよね? もしかして、私の顔に何かついてます?」


少女――ユウカは、不思議そうに小首を傾げた。その仕草、その声のトーン、その少しハスキーな喋り方。

全てが、俺の記憶の底に、消えない傷跡として刻まれている『彼女』そのものだった。


「……ゆう、か」

「あ、はい! ユウカです。アプリの写真と違いました? ガッカリさせちゃったらごめんなさい」


彼女は屈託のない笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。

ガッカリするはずがない。そんな次元の話ではないのだ。


結城優香ゆうきゆうか

俺の高校時代の同級生であり、人生で初めて付き合った、最初で最後の恋人。

そして――五年前の冬、二十歳の誕生日の直前に、不慮のひき逃げ事故に遭って、この世界から永遠に姿を消したはずの少女。


俺は、彼女の葬式に出た。

冷たくなった彼女の頬に触れて、狂ったように泣き叫んだ。

あの白い棺が火葬場の炎の中に消えていくのを、この目で確かに見届けたのだ。


なのに、なぜ。

なぜ、死んだはずの初恋の相手が、レンタル彼女のキャストとして、俺の目の前に立っているんだ?


「晴さん? どうかしましたか? 顔色がすごく悪いですけど……体調、優れないですか?」


優香は、本気で俺を心配するように顔を覗き込んできた。その瞳には、俺を『初めて会う顧客』として認識している光しかなかった。俺が高校時代を共に過ごした「ハル」ではなく、アプリで予約を入れた「真島晴さん」という赤の他人を見る目。


(記憶喪失……? いや、それ以前に、どうして生きている?)


「……いや、大丈夫だ。ちょっと、驚いただけだから。入ってくれ」

「わぁ、お邪魔します! 晴さんのお部屋、男の人の一人暮らしにしてはすごく綺麗にされてますね!」


優香は楽しそうに声を弾ませ、俺の狭いワンルームへと足を踏み入れた。

彼女が歩くたびに、部屋の中に懐かしい百合の香りが広がっていく。

俺はパタンと玄関のドアを閉め、震える手で鍵をかけた。目の前で起きている現実が信じられず、自分の腕を強く抓ってみたが、確かな痛みが走るだけだった。夢じゃない。これは、現実だ。


「あの、晴さん。今日のデートのプランなんですけど、何かご希望はありますか? お部屋でまったりおしゃべりするのもいいですし、近くの公園をお散歩するのも人気ですよ!」


優香はパイプ椅子にちょこんと腰掛け、バッグから小さな手帳を取り出した。

その手帳の表紙には、見覚えのある小さな猫のステッカーが貼られていた。高校時代、彼女がいつも使っていたスクラップブックと同じものだ。


俺は、壁に背を預けたまま、彼女の様子をじっと観察した。

照明の光を浴びて、彼女の影が床にしっかりと伸びている。

窓から入る風に、彼女の髪がそよそよと揺れている。

幽霊……ではない。確かに肉体を持ち、ここで息をしている、生きた人間だ。


「……外は、少し蒸し暑いから。ここで、お茶でも飲みながら話さないか」

「はい! 喜んで。じゃあ、晴さんのこと、たくさん教えてくださいね」


優香は満面の笑みを浮かべた。

その笑顔を見るたびに、俺の胸は激しく締め付けられた。

五年前、彼女が死んだあの日から、俺の時間はずっと止まったままだ。彼女を救えなかったという激しい罪悪感と、喪失感。それを受け入れられず、新しい恋をすることも、人生を楽しむことも放棄して、ただ生きているだけの屍のようになっていた。


その彼女が、今、目の前にいる。

なぜ俺を覚えていないのか。なぜ、生きているのか。

俺は、彼女の正体を、この奇跡の裏にある真実を、どうしても確かめなければならなかった。


*****


「へぇ、晴さんはシステムエンジニアのお仕事をされているんですね。パソコン、難しそうで私には全然分かりません」


優香は、俺が出した麦茶のグラスを両手で持ち、美味しそうに喉を鳴らした。


「ああ。毎日画面に向かってキーボードを叩くだけの、退屈な仕事だよ」

「そんなことないです! 世界中のシステムを支えてるお仕事なんて、すごく格好いいと思います。私、尊敬しちゃいます!」


彼女の言葉、相槌の打ち方、全てが高校時代の優香そのものだった。

他愛のない会話を続けていくうちに、俺の中の緊張が、少しずつ解きほぐされていくのを感じた。それと同時に、あまりの懐かしさに、涙が溢れそうになるのを必死に堪えていた。


「ユウカさんは、どうしてこの仕事を始めたんだ?」

俺が核心に触れる質問を投げかけると、優香はグラスを見つめ、少しだけ困ったように眉を下げた。


「えっと……実は、私、あまり昔の記憶がはっきりしていなくて。気づいたら、このレンタル彼女の事務所に登録していたんです」

「気づいたら……?」


「はい。なんだか変な話なんですけど、自分の年齢とか、どこで生まれたかとか、そういう細かいことを思い出そうとすると、頭に霧がかかったみたいになっちゃって。……でも、このお仕事をしている時だけは、誰かの役に立てている気がして、すごく心が温かくなるんです。だから、毎日楽しく働かせてもらっています」


優香は、寂しげに、けれど前を向くように微笑んだ。

記憶喪失。やはり、彼女は過去の記憶を失っているのだ。事故のショックのせいだろうか。しかし、それなら五年前のあの葬式は何だったんだ。俺が触れた、あの氷のように冷たい遺体は、一体誰のものだったというのか。


「……ユウカさん。君は、高校生の頃、どこに住んでいたか覚えているか?」

「え? いえ、全然……。やっぱり、私の過去について何か知りたいですか? プロフィールには『秘密が多いミステリアスな彼女』って書いてあったと思うんですけど」


優香は悪戯っぽくウインクをして、話をはぐらかそうとした。

俺は、確信を得るために、一歩を踏み出すことにした。


「俺の、初恋の相手に……君は、そっくりなんだ」

「えっ……」


優香の動きが、ピタリと止まった。


「彼女の名前も、優香ユウカといった。栗色の長い髪で、少しハスキーな声で笑って、いつも百合の香りの香水をつけていた。……そして、猫のステッカーが貼られた手帳を、いつも大切に持ち歩いていたんだ」


俺がそう告げると、優香は自分の膝の上にある手帳を、ハッとしたように見つめた。

彼女の大きな瞳が、激しく揺れ動いている。


「晴、さん……それ、って……」


「優香。君は、本当に俺を忘れてしまったのか? 俺だ、ハルだ。高校の頃、放課後にいつも一緒に図書室で勉強して、帰り道にイチゴのクレープを食べた……あの、晴だよ」


俺は立ち上がり、彼女の手を掴もうと手を伸ばした。

しかし、その瞬間。


キィィィィィィン――。


突如、耳を劈くような激しい耳鳴りが、俺の頭の中に響き渡った。

視界がぐにゃりと歪み、部屋の壁や天井が、まるでノイズの走る古いモニターのように激しく明滅し始める。


「あ、ぐ……っ!?」

俺は激しい目眩に襲われ、頭を押さえてその場に跪いた。


「晴さん!? 大丈夫ですか!?」


優香の焦ったような声が聞こえる。

彼女が俺を支えようと、その手を伸ばし、俺の肩に触れた。


その瞬間、俺の脳裏に、凄まじい濁流のような『映像』が流れ込んできた。


冷たい、冬の風。

赤い、アスファルトに広がる血の海。

救急車の、けたたましいサイレンの音。

病院の、真っ白な天井。


(何だ、これは……。この記憶は、一体……!?)


激しいノイズの向こう側で、誰かの泣き声が聞こえた。

『ハル、目覚めて。お願いだから、私を一人にしないで……!』


それは、高校生の頃の、優香の声だった。

俺を呼ぶ、悲痛な叫び声。


「ハァッ……ハァッ、ハァッ……!」


耳鳴りが止み、視界が元に戻った時、私は冷や汗を全身にかきながら、床に両手をついていた。

部屋の明滅は収まり、いつもの薄暗いワンルームに戻っている。

目の前には、泣きそうな顔で私を見つめる優香がいた。


「晴さん……ごめんなさい。私、やっぱり、あなたのことを……」


優香は、自らの両手を見つめ、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

彼女の手は、微かに透けているような、そんな錯覚を一瞬だけ覚えるほど、不自然な白さを放っていた。


「……優香。君は、何を隠しているんだ?」


俺は荒い息を吐きながら、彼女を見上げた。

このレンタル彼女のデートの裏には、俺の想像を絶する、あまりにも残酷で切ない『真実』が隠されている。その予感が、確信へと変わりつつあった。


*****


優香が涙を流した瞬間、部屋の空気が張り詰めたように静まり返った。


「ごめんなさい、晴……。私、ずっと、あなたの前では『ユウカ』でいなきゃいけないって思ってたの。だって、そうしないと、あなたが……」


優香の口から溢れ出たのは、事務的なキャストとしての言葉ではなく、あの頃の、僕の最愛の恋人の声だった。

彼女の身体が、微かに、本当に微かに陽炎のように揺らめいている。

僕は立ち上がり、今度こそ彼女の肩を強く掴んだ。


触れる。確かに、彼女の身体はそこにある。

けれど、高校生の頃に何度も抱きしめた、あの柔らかくて温かい、血の通った人間の体温がしない。

まるで、冷たい大理石に触れているかのような、あるいは冬の夜気そのものを形にしたかのような、温度のない輪郭。


「優香、どういうことなんだ……? 君は五年前、確かに事故で死んだはずだ。僕は君の葬式に出た。君の遺体に触れたんだ。なのに、どうして……記憶喪失のレンタル彼女なんかになって、僕の前に現れたんだよ!」


叫ぶ僕を、優香は涙を溜めた瞳で見つめ返した。その瞳には、僕がずっと目を背け続けてきた『現実』を突きつけるような、圧倒的な哀悼の光が宿っていた。


「……違うの、晴」

優香は、僕の胸元にそっと両手を添えた。

その手が触れた瞬間、先ほどよりもさらに強く、鋭い冷気が僕の心臓を貫いた。


「死んだのは、私じゃないわ。……五年前のあの日、ひき逃げの車から私を突き飛ばして、代わりに跳ねられたのは……晴、あなたの方よ」


「……え?」


頭の中が、真っ白になった。

優香が、何を言っているのか、言葉の意味が脳に届かない。


「何を言ってるんだよ。死んだのは君だ。僕はこうして、今も生きている。SEの仕事をして、毎日この部屋で暮らして……」

「この部屋を、よく見て、晴」


優香の声に促されるように、僕はゆっくりと周囲を見渡した。

家賃六万円の、代わり映えのしないワンルーム。

壁にかかった時計。……時計?

僕は目を見開いた。時計の針は、十九時十五分を指したまま、ピクリとも動いていない。初めから動いていなかった。

机の上のカレンダーに目をやる。めくられていない紙に書かれた日付は、五年前の『あの冬の日』のまま。

部屋の隅に置かれたパソコンの画面を見る。電源は入っているのに、そこには複雑なソースコードなどではなく、砂嵐のようなモノクロのノイズだけが虚しく明滅していた。


「あ、あ、あ……」


喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れた。

視界が急激に歪んでいく。床のフローリングが、壁のクロスが、まるで古い映画のフィルムが燃え落ちるように剥がれ落ちていく。

その下に隠されていたのは、生活感のある部屋などではなかった。

ただの、冷たく、埃っぽい、何年も誰も住んでいない空き部屋のコンクリートの床と壁。


「ここは、あなたが遺したアパートの一室よ。あなたが死んだ後、ご両親がどうしても引き払えなくて、そのままにされている場所……。あなたは、自分が死んだことを受け入れられなくて、ずっとこの『偽物の日常』の中に、幽霊として閉じこもっていたのよ、晴」


「僕が……幽霊……?」


僕は、自分の両手を見た。

衣服の袖から覗く僕の手は、優香の手と同じように、透き通るような白さを放ち、床のコンクリートを微かに透過していた。


五年間、僕は仕事をしていたと思い込んでいた。

毎日満員電車に乗り、理不尽な上司に怒鳴られ、疲弊してこの部屋に帰ってきていた。

でも、その『日常』は全て、僕が死の恐怖と未練から作り出した、都合のいい幻覚だったのだ。

僕は二十歳で死んでいた。優香の身代わりになって、頭を強く打って、即死だったのだ。


「じゃあ、君は……君は、どうしてここにいるんだ? レンタル彼女のアプリは……」

「アプリなんて、初めから存在しないわ。私が……本物の『レンタル彼女キャスト』になったのよ」


優香は、胸元から一枚の古ぼけた身分証を取り出した。

そこには、現在の彼女の姿が写っていた。しかし、そこには『レンタル彼女・ユウカ』ではなく、【結城優香:国家認定一級霊媒師】という文字が刻まれていた。


「晴が死んでから、私はあなたの姿を探し続けた。でも、どこを探してもあなたは見つからなかった。あなたは、自分が死んだ現実から逃げるために、この部屋の中に強力な結界を張って、心を閉ざしてしまっていたから。……だから私は、あなたを現世に縛り付ける『未練』の正体を探したの」


優香は、一歩、僕に近づいた。


「晴の未練は、仕事でも、家族でもなかった。……私と、もっと一緒にいたかった。私と、普通の恋人のように、大人のデートをしたかった。……その強い想いが、あなたをここに留めていたのね。だから私は、霊媒師の力を応用して、あなたの未練に合わせた『キャスト』の役を演じて、この結界に潜り込んだのよ」


優香の言葉が、僕の魂の奥底に、すとんと落ちてきた。

そうだ。僕は、二十歳で死ぬ間際、道路に倒れ伏して薄れゆく意識の中で、ただ一つ、それだけを願っていた。

優香を救えた安堵と同時に、もっと彼女と生きたかった。二十歳になって、お酒を飲んで、ちゃんとした大人のデートをして、彼女を幸せにしたかった。

その強烈な飢餓感が、僕に『二十四歳の、SEとして働く孤独な大人の僕』という都合のいい生前の延長線上の幻を見せていたのだ。


「未練を果たすデートは、三時間。……霊媒師が、迷える霊を傷つけずにあの世へ見送るために許された、唯一の擬似的な現世の時間。……晴。私はね、あなたを無理やり成仏させるために来たんじゃないの。あなたと、もう一度……ちゃんと、お別れをするために来たのよ」


優香は、僕の手を今度は両手でしっかりと包み込んだ。

冷たかったはずの彼女の手が、今は不思議と、僕の凍りついた魂を優しく溶かしていくように、温かく感じられた。


「さあ、晴。私たちのデートは、まだ始まったばかりよ。……三時間、目一杯、私をレンタルして。……そして、最高の思い出を作って、一緒に笑って、お別れをしましょう」


優香の涙混じりの笑顔を見て、僕は自分の頬を伝う冷たい涙に気がついた。

現実を思い出した絶望はない。ただ、彼女の深い愛が、僕の五年間の孤独を、一瞬にして消し去ってくれたのだ。


「……うん。分かったよ、優香。……最高のデートにしよう」


僕は彼女の手を握り返した。

偽物のワンルームが、僕たちの強い想いによって、再びあの頃の輝きを取り戻すように、淡い光に包まれていった。


*****


剥がれ落ちた幻影の向こう側から現れた、コンクリート剥き出しの冷たい空き部屋。そこに、淡く、けれど確かな輝きを放つ光の粒子が満ちていく。

僕たちがかつて過ごした高校の図書室、夕暮れ時の帰り道、そして、叶うはずのなかった「二十四歳の僕たちの日常」が、優香の紡ぐ霊力によって、より鮮明な幻灯機プロジェクターの映像のように空間へ上書きされていった。


「まずは、どこに行こうか。……ハル


優香は僕の手を引いて、微笑んだ。

その呼び方に、胸の奥が震える。アプリの写真のキャストなんかじゃない。僕の、世界でたった一人の恋人が、そこにいた。


「そうだね。まずは、君を僕の特等席に案内するよ」


僕は彼女の手を握り返し、アパートの扉を開けた。

外に出ると、そこは僕が毎日通っていたはずの無機質なオフィス街ではなく、どこか懐かしい、オレンジ色の夕焼けに染まる街並みだった。僕たちの記憶が混ざり合い、具現化した、世界の狭間。


僕たちは、街外れにある小さな丘の上の公園へと向かった。

高校時代、テストが終わるたびに二人で自転車を押し、自販機で買った缶ジュースを飲みながら、将来の夢を語り合った場所だ。


「わあ……凄い。あの頃と、全然変わらないね」


優香はフェンスに駆け寄り、眼下に広がる街の灯りを見つめた。

ぽつぽつと灯り始める家々の光は、まるで地上の星空のようだ。


「ああ。毎日忙しくて、ここに来ることも忘れていたよ。……いや、忘れたフリをして、仕事に追われる幻を作り出していたんだな」


僕はフェンスに背を預け、自嘲気味に笑った。

幽霊としての五年間。僕は自分が死んだ現実から逃げるため、必死に「生きている大人の男」を演じていた。けれど、そのハリボテの日常を維持するために、一番大切な優香との思い出まで、心の奥底に封印してしまっていたのだ。


「そんなに自分を責めないで、晴。……あなたは私を助けてくれた。その結果として、あなたの時間が止まってしまったのは、私のせいでもあるんだから」


優香は僕の隣に並び、そっと肩を寄せた。

温度のない身体。けれど、僕たちの魂は、間違いなく熱を通い合わせていた。


「優香、君は……僕が死んだ後、どうして霊媒師になんてなったんだ? 昔は、保育士になりたいって言っていたじゃないか」


僕の問いに、優香は遠い目をして、寂しげに微笑んだ。


「晴が死んじゃってから、私、毎日泣いて、神様を呪ったわ。どうして私を突き飛ばしたの、どうして私を置いていったのって。……でもね、ある時、夢の中にあなたが現れたの。ボロボロの姿で、寂しそうな顔をして、どこかへ歩いていく夢」


彼女は、自分の胸元に手を当てた。


「その時、気づいたの。晴はまだ、どこかで迷っているって。私を救ってくれたあなたの魂が、現世の暗闇で泣いているなら、私がそれを見つけ出して、救い上げなきゃいけない。……そう思ったら、不思議と力が湧いてきてね。猛勉強して、結城の家に伝わる古い術式を学んで、資格を取ったのよ。全ては、あなたに、もう一度会うために」


「僕のために……そこまで……」


五年間、僕は孤独だと思っていた。

けれど、違った。優香は現実の世界で、僕のためにずっと戦い、僕を探し続けてくれていたのだ。

レンタル彼女という形を選んだのも、僕の歪んだ未練が「二十四歳の大人としてのデート」を求めていたから。彼女は僕の心が傷つかないよう、僕の都合の良い世界システムに合わせて、自ら『キャスト』として飛び込んできてくれた。


「ねえ、晴。感傷に浸るのはここまで。……せっかくのデートなんだから、もっと楽しいことをしましょう! ほら、次へ行くわよ!」


優香は僕の手をぐいと引っ張り、丘の階段を駆け下り始めた。

弾むような彼女の足取り、翻る薄緑色のスカート。

その姿は、あの頃と全く変わらない、僕の愛した優香そのものだった。


*****


次に優香が僕を連れてきたのは、賑やかな夜の商店街だった。

現実の商店街は、夜の八時を過ぎれば大半の店が閉まってしまうが、この空間では、僕たちの記憶にある「一番楽しかったお祭りの夜」のように、色とりどりのランタンが灯り、活気に溢れていた。


「クレープ、二つください! 一つはイチゴ、もう一つはチョコバナナで!」


優香は、古ぼけたキッチンの並ぶ露店で、元気よく注文した。

店員の老人(それも、僕たちが高校生の頃によく行った駅前のクレープ屋の店主の姿をしていた)は、黙々とクレープを焼き上げ、僕たちに手渡してくれた。


「はい、晴の分! 懐かしいね」


「ありがとう。……いただきます」


クレープを口に運ぶ。

甘くて、少し酸っぱいイチゴの味が、口いっぱいに広がった。

幽霊に味覚などあるはずがない。けれど、僕が「美味しい」と感じるその瞬間、優香の霊力が僕の記憶を呼び覚まし、本物以上の味を僕の魂に伝えてくれているのだ。


「美味しい? 晴」


「ああ、最高に美味しいよ。……優香、君と一緒に食べるから、なおさらだ」


「もう、大人になったからって、そういう恥ずかしいことをサラッと言うんだから」


優香は顔を少し赤くして、嬉しそうにクレープを頬張った。

僕たちは、手を繋いで商店街を歩いた。

すれ違う人々は皆、輪郭がぼやけている。僕たちの世界に実在しない、ただの背景の幻だからだ。けれど、僕と優香の繋いだ手の感触だけは、世界の何よりも確かで、強固だった。


ゲームセンターに入り、クレーンゲームで不器用な僕が何度も失敗するのを彼女が笑ったり、二人で並んで古いレースゲームで対戦したりした。

何てことのない、どこにでもある、ありふれた若者たちのデート。

けれど、二十歳で死んでしまった僕たちにとっては、どれほど金を積んでも手に入らなかった、黄金色の時間だった。


楽しい時間は、瞬く間に過ぎていく。

商店街を抜け、夜の公園のベンチに座った頃には、僕の周囲を漂う光の粒子が、少しずつ、その輝きを失い始めていることに気がついた。


時計のないこの世界。けれど、霊媒師である優香が定めた「三時間」という制約の終わりが、一歩一歩、確実に近づいているのが分かった。


「……晴」


優香が、僕の繋いだ手を、少しだけ強く握り締めた。


「楽しかったね、今日のデート」


「ああ。人生で……いや、死んだ後も含めて、一番幸せな三時間だったよ」


僕は微笑んだ。

現実を受け入れた僕の心に、もう迷いや恐れはなかった。

自分が幽霊であること。もうすぐ、この世界から消えて、本当の死を受け入れなければならないこと。その全てが、優香の愛によって、穏やかな救いへと変わっていた。


「優香。君のおかげで、僕は自分の未練を、ちゃんと手放すことができる。……ありがとう。僕を見つけてくれて。僕に、こんな素敵なプレゼントをくれて」


僕は彼女に向き直り、その美しい顔を、記憶の裏側に永遠に焼き付けるようにじっと見つめた。


「……でもね、晴。私のデートは、まだ終わっていないの」


優香は首を横に振り、僕の胸元を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、別れを受け入れた人間の寂しさではなく、霊媒師としての、そして一人の恋人としての、すさまじい『覚悟』が宿っていた。


「え……?」


「私はね、あなたをあの世へ送り出すために、このレンタル彼女の役を引き受けたんじゃない。……私は、あなたを『連れ戻し』に来たのよ、晴」


優香の言葉と同時に、僕たちの足元の地面から、真っ白な、見たこともないほどに巨大な魔術陣が展開され、眩い光の柱が天に向かって突き抜けた。


*****


夜の公園に突き抜けた真っ白な光の柱が、僕たちの周囲の幻影を激しく掻き消していく。

商店街のランタンの明かりも、お祭りのざわめきも、すべてが光の渦に巻き込まれて溶けていく。その中心で、優香の栗色の髪が激しく風に煽られていた。


「連れ戻すって……優香、何を言っているんだ! 僕は五年前の事故で、もう死んでいるんだぞ!?」


光の暴風の中で、僕は大声で叫んだ。

自分が幽霊であるという現実は、先ほど完全に受け入れたはずだった。だからこそ、彼女の口から飛び出した「連れ戻す」という言葉の意味が、僕の崩壊しかけた脳では処理しきれなかった。


「晴は死んでなんかいないわ!」


優香は光の柱の真ん中で、僕の手を両手で引き絞るように強く握りしめた。彼女の身体から、すさまじい密度の霊力が奔流となって僕の体内へと流れ込んでくる。


「五年前のあの日、あなたは確かに車に跳ねられた。頭を強く打って、心臓も止まって、お医者さんたちもみんな諦めかけたわ……。でも、あなたは死ななかった。正確には、『生と死の狭間』で、完全に時間が止まってしまったの!」


「生と死の……狭間?」


「そうよ。あなたの肉体は、今も都内の大病院の集中治療室(ICU)のベッドの上で、たくさんの機械に繋がれながら、必死に生きようと呼吸を続けている。……でも、あなたの魂は、事故のショックと、私への強い未練のせいで、あの古いアパートの空き部屋に閉じこもって、自分が死んだ夢をずっと見続けていたのよ!」


優香の言葉が、僕の魂の輪郭を激しく震わせた。

死んでいたのではない。僕は、終わらない昏睡状態ゆめの中で、自分が二十四歳の大人になった幻影を作り出し、孤独に彷徨い続けていただけだったのだ。


「晴の身体は、もう限界を迎えているわ。このまま魂が現世に帰らなければ、肉体の方が本当に力尽きて、死んでしまう……。だから私は、一級霊媒師の資格を取って、あなたの未練を果たすための『レンタル彼女』の儀式を執筆したの。……三時間という制約は、私があなたの魂を、肉体へ引っ張り戻すために維持できる精神の限界時間!」


優香の美しい顔が、霊力の過剰な消費によってみるみる青白くなっていく。彼女の目や鼻から、かすかに血の滴が伝い落ちるのが見えた。


「無茶だ! 優香、そんなことをしたら、君の命だって……!」


「構うもんか!!」


優香は、僕が一度も聞いたことのないような、剥き出しの絶叫を上げた。


「あなたがいない五年間の世界なんて、私にとっては地獄と同じだった! 毎日、毎日、ベッドの上で冷たくなっていくあなたの手を握りながら、私はずっと後悔していたの。どうしてあの時、私が代わりに跳ねられなかったんだろうって。……晴が私のために命を懸けてくれたなら、今度は私が、命を懸けてあなたを引っ張り戻す番よ!!」


彼女の強い想いが、魔術陣の光をさらに爆発的に増幅させる。

周囲の空間が、完全にガラスのように粉々に砕け散った。

現れたのは、あの埃っぽいコンクリートのアパートの空き部屋。けれど、その部屋の床には、現実の病院のベッドが重なるようにして二重写し(ダブルエクスポーズ)で浮かび上がっていた。


無数のチューブ。人工呼吸器の、規則的で重苦しい駆動音。

そして、ベッドの上に横たわる、痩せ細り、青白い顔をした、二十四歳の僕自身の本物の肉体。


「さあ、帰るのよ、晴!! 私たちの、本物の日常へ!!」


優香が僕の背中を、魂の底から強く押し出した。

僕の半透明の身体が、ベッドの上の肉体へと急速に吸い込まれていく。


「優香――っ!!」


僕は必死に手を伸ばした。

視界が強烈な白い閃光に包まれ、僕の意識は、すさまじい重力に引かれるようにして、暗黒の底へと叩き落とされた。


*****


『――ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ!!!!!』


耳元で、鼓膜を破らんばかりのけたたましい電子音が鳴り響いていた。

人工呼吸器の、肺を無理やり押し広げるような圧倒的な異物感と、全身を襲う、五年間眠り続けていた肉体の凄まじい「重さ」と「激痛」。


「あ、ぐ……っ、が、は……っ!!」


僕は、反射的に大きく息を吸い込んだ。

肺の奥深くに、現実の、少し薬品の匂いが混ざった生々しい空気が流れ込んでくる。


「嘘……っ。ハル……? 先生! 先生、ハルの自発呼吸が戻りました!! 脈拍が上昇しています!!」


すぐ真横から、聞き間違えるはずのない、愛しい恋人の泣き叫ぶような声が聞こえた。


ゆっくりと、信じられないほどの重労働をこなすようにして、僕は瞼を開いた。

視界は最初、真っ白にぼやけていたが、やがて涙に濡れた、一人の女性の顔がはっきりと結像した。


栗色の長い髪。少し大人びた、けれどあの頃と変わらない、僕の最愛の少女。

彼女は、ナース服や霊媒師の装束ではなく、クシャクシャになった私服のブラウスを着て、僕の右手を両手で、狂ったように強く握りしめていた。

その手からは、あの幻影の世界では決して感じることのできなかった、生きた人間の、圧倒的な、熱いほどの体温が伝わってきた。


「ゆ、う……か……」


酸素マスクの奥から、掠れた、本当の僕の声が漏れ出た。


「うん、うん! 私よ、優香よ、晴……! お帰りなさい……っ、本当にお帰りなさい……!!」


優香は僕の手を自分の頬に押し当て、子供のようにボロボロと大粒の涙を流して泣きじゃくった。

開け放たれた窓の向こうからは、初夏の、本物の生ぬるい夜風が吹き込んできて、病室のカーテンを大きく揺らしていた。

時計の針は、カチ、カチと、僕たちの新しい時間を刻みながら、確かに動き続けている。


五年間の長い、長い夢は終わった。

三時間だけのレンタル彼女の契約は、今、本物の『永遠』へと書き換えられたのだ。


僕は、まだ自由に進まない左手をゆっくりと動かし、泣き続ける彼女の頭を、現世の確かな温もりの中で、優しく、何度も撫で続けた。

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