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第9話 信頼は書類の行間に宿る

信頼とは、劇的な瞬間に生まれるものではない。毎日の小さな正確さの積み重ねが、ある日ふと、信頼という名前に変わるのだ。


 側近になって二週間が経った。


 殿下の仕事のリズムが、わたしの身体に馴染み始めている。朝はまず予定の確認。午前は公務の補佐。昼過ぎに書簡の整理。そして午後は、殿下が独自に進める王宮改革の下調べ。


 今日の午前は、第一側近ヘルマンが珍しく側近室を空けていた。外交使節の出迎えに駆り出されたらしい。第二側近エルヴィンは相変わらず寡黙に自分の仕事をこなしている。


 つまり、殿下とわたしが二人きりの時間が、いつもより長い。


「フラウ。今日の枢密会議の資料に、追加事項がある」


「はい」


「この件に関する先例を調べてまとめておけ。明日の会議で使う」


 殿下が指した書類を確認した。内容は——辺境伯領の通商条約の改定案。クラインベルク辺境伯が関わる案件だ。


「殿下。この改定案、財務局の経費処理と絡んでいませんか」


 殿下の手が止まった。ペンを回し始める。考え中のサイン。


「どういう意味だ」


「クラインベルク辺境伯領との通商条約が改定されれば、辺境伯領を経由する物流ルートが変わります。オルランドの不正取引も、そのルート上で行われていた可能性があります」


「通商条約を利用した密輸か」


「仮説ですが。条約の改定が通れば、辺境伯領を経由する物品の検査が緩和されます。不正に持ち出した備品を、通商品に紛れ込ませることが容易になります」


 殿下がペンを置いた。置いたということは、結論が出たということだ。


「調べる価値がある。先例調査と合わせて、通商ルートの物流記録も確認しろ」


「かしこまりました」


 作業に没頭した。先例を調べ、物流記録を照合する。単調な作業だが、パズルのピースが嵌まっていく感覚がある。


 気がつくと、殿下がわたしの手元を見ていた。


「何か?」


「いや。——お前の書く字は、読みやすい」


 褒められた。字を褒められた。推しに字を褒められた。


 前世のわたしは、パン工房の仕入れ記録をせっせと書いていただけだ。まさかそのときの丁寧な字が、推しの目に留まるとは。


「ありがとうございます」


「ヘルマンの字は汚い。エルヴィンの字は小さすぎる。お前の字が、いちばん見やすい」


 三人の側近で比較して、わたしが一番。推しの中での字のランキングで一位。


 ——ぶふぉ。心の中で盛大に。


「恐縮です」


 平静を装いながら、わたしは手元の資料に視線を落とした。耳が赤くなっていないことを祈る。


 午後、ニナが側近室を訪れた。


「フラウさん!」


「ニナ、どうしたの?」


「あの、侍女長の件が正式に解決して……わたしの嫌疑が晴れました。お給金の差し引きも、取り消しになりました」


 ニナの目が潤んでいる。嬉し涙だ。


「良かった。本当に良かったね」


「全部、フラウさんのおかげです。ありがとうございます」


 ニナが深々と頭を下げた。スカートの裾を握る手が、今日はいつもより力が入っている。


「わたしは何も。殿下が調査を命じてくださったからよ」


「でも、きっかけはフラウさんです。わたし、あのとき声をかけてもらえなかったら——」


 ニナの声が詰まった。


「——ニナ」


「はい」


「困ったことがあったら、いつでも言って。わたしにできることは限られてるけど、聞くことはできるから」


 ニナが小さく頷いた。そして、少し躊躇ってから——


「あの、フラウさん。一つ、気になることがあって」


「何?」


「新しい侍女長が就任したんですけど……その方、前の侍女長マルグリット様とよく会っていた方なんです。マルグリット様の側近みたいな存在で」


 ——後任が、前任の息のかかった人間。


「名前は?」


「ローザ様です。侍女部の副長をしていた方で」


 ローザ。フラウの記憶には——ある。マルグリットの右腕だった人物。


 侍女長が解任されても、その派閥は生きている。組織の腐敗は、一人を排除しただけでは根絶できない。


「ニナ。ローザについて、もう少し詳しく教えてくれる?」


 ニナの情報提供は貴重だった。ローザは慎重な性格で、マルグリットほど露骨ではないが、影響力はある。侍女部の人事権を握っており、マルグリットの横領を知っていた可能性が高い。


 情報を整理しながら、わたしは新たな疑問を抱えた。


 マルグリットの横領は発覚し、処分された。だが、横領に加担していた人間は他にもいるはずだ。ローザはその一人かもしれない。


 そして、マルグリットの横領の背後にいた「宰相府の誰か」は、まだ特定できていない。


 五の刻。退勤。


 宿舎に向かう途中、回廊で足を止めた。


 窓の外に、中庭が見える。夕暮れの光の中で、一人の女性が歩いていた。蜂蜜色の巻き髪に翡翠の瞳。華やかで、隙がない。


 ——ベアトリス公爵令嬢。


 原作の重要キャラクター。王太子の婚約者候補として名前が挙がっている公爵家の令嬢。


 彼女は中庭の奥に消えていった。


 フラウの記憶によれば、ベアトリスは社交の場で影響力を持つ人物だ。公爵家の名前と自身の美貌を武器に、宮廷内で独自の人脈を築いている。


 敵か味方か。今の段階では判断できない。


 退勤後、殿下と合流。閲覧室で通商条約と物流記録の照合を進めた。


「殿下。辺境伯領経由の物流記録に、不自然な増加がありました」


「時期は」


「オルランドの出張時期と一致しています。四半期ごとに、特定の品目の流通量が急増しています」


「品目は」


「陶器と装飾品です。王宮の行事備品と同じ分類です」


 殿下が資料を手に取り、わたしの分析結果と照合した。


「……完全に一致するな」


「はい。侍女長マルグリットの横領、オルランドの不正取引、辺境伯領を経由した物流ルート。すべてが一つの流れとして繋がっています」


 殿下が椅子に深く腰を下ろした。天井を見上げる仕草は珍しい。


「組織的だ。一人の犯行ではない。——フラウ」


「はい」


「お前は、この先にあるものが何か、分かっているか」


 わたしは正直に答えた。


「王宮を蝕んでいる構造的な腐敗です。一人や二人を排除しても、仕組みそのものを変えなければ、また同じことが起きます」


「そうだ。——だから私は、王太子として、この仕組みを壊す」


 殿下の声は静かだった。だが、その静かさの奥に、鉄のような意志がある。


「お前に聞きたいことがある」


「何でしょうか」


「なぜ、ここまで協力する。お前の本来の目的は、退勤後の私用だったはずだ」


 ——殿下は、鋭い。わたしが別の目的を持っていることに、薄々気づいている。


「殿下の目的と、わたしの目的は重なる部分があります」


「それは何だ」


「……王宮の真実を知ること、です」


 嘘ではない。全部を言っていないだけだ。


 殿下はわたしを見つめた。長い、測るような視線。


「——いいだろう。お前が真実を求めている限り、私はお前を信頼する」


 信頼。


 その言葉が、じわりと胸に染み込んだ。


 トビアスが入り口で欠伸をしている。夜が更けていた。


「殿下、そろそろ」


「ああ。——フラウ、明日も頼む」


「はい」


 閲覧室を出て、廊下を歩く。殿下と並んで歩くのは、もう何度目だろう。最初は三歩後ろを歩いていたのに、いつの間にか——半歩、距離が縮まっている。


 宿舎に戻り、手帳を開いた。


『犯人の手がかり進捗:王宮内の不正は構造的。侍女部、財務局、辺境伯領が一つの流れで繋がる。背後にいるのは宰相府か。前世の殺害事件との接点は未発見。』


『二十五年前のコレット・ハイデンについて:図書館で追加調査が必要。ヴィルヘルミナに聞くべきか、自分で調べるべきか。』


『殿下の言葉:「お前を信頼する」。推しに信頼されるということの重み。前世では、信じた人に裏切られた。今度は——裏切りたくない。裏切れない。この方の信頼に応えたい。ぶふぉ(尊さに泣きそうな方の)。』


 ペンを置いて、深呼吸した。


 犯人探しは前に進んでいない。だが、王宮の構造が少しずつ見えてきている。その構造の中に、わたしの死の真相が隠れているはずだ。


 明日もまた、推しの傍で働いて、定時で帰って、真実を追う。


 ランプを消す前に、ふと——殿下がわたしの字を褒めてくれたことを思い出して、顔が緩んだ。


 推しに褒められた字で、推しのための資料を書く日々。


 悪くない。悪くない転生だ。


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