第8話 文官の眼鏡が曇るとき
嘘をつく人間には、癖がある。
瞬きの回数、手の位置、声の高さ。前世のパン工房で、仕入れ業者が品質を誤魔化そうとしたとき、わたしは相手の目の動きで嘘を見抜いた。小麦粉の袋が規定量より軽かったとき、業者は妙に饒舌になった。
人間は嘘をつくとき、身体のどこかに負荷がかかる。だが最も分かりやすいのは、嘘の必要がない場面で不自然に饒舌になることだ。
オルランドの調査は、予想より早く進んだ。
殿下が財務局への「定例監査」を名目に、直接オルランドの執務室を訪れたのだ。わたしは殿下の随行として同席した。
オルランドは痩身に眼鏡の男で、細い指が常に何かを弄っている。
今は机の上のインク壺の蓋だ。わたしたちを見た瞬間、その指が止まり、代わりに眼鏡のブリッジを押し上げた。初対面の反射ではなく、防御の動作に見えた。
人間は身を守ろうとするとき、無意識に顔の前に手を持ってくる。
「殿下、お越しとは。何かございましたか」
「定例監査だ。今期の経費処理を確認させてもらう」
「もちろんです。すべて適正に処理しておりますので、どうぞご確認ください」
饒舌。質問されていない「適正に処理している」という弁明を、開口一番に言った。嘘つきの初手だ。本当に適正なら、わざわざ強調する必要がない。
殿下が机に向かい、書類を確認し始めた。わたしは横で記録を取りながら、オルランドを観察した。
彼は落ち着いて見える。椅子に座り、背筋を伸ばし、微笑みすら浮かべている。だが、右手が常に眼鏡に近い位置にある。ブリッジを押し上げる準備姿勢だ。そして足元——机の下で、つま先が小刻みに動いている。上半身は完璧に制御されているが、下半身は正直だ。
殿下が書類をめくるたびに、オルランドの呼吸がわずかに浅くなる。吸う音が短く、吐く音が長い。緊張しているときの典型的な呼吸パターンだ。
「オルランド。この経費処理だが」
「はい」
「クラインベルク辺境伯領への出張費が、年四回計上されている。税務監査目的と記載されているが」
「はい。辺境伯領は遠方ですので——」
「税務監査は監査局の権限だ。財務局の権限ではない」
オルランドの眼鏡が、曇った。比喩ではなく、実際に——額の汗が蒸発して、レンズが薄く曇ったのだ。人間の身体は精神的な圧迫を受けると体温が上がる。その熱が、冷たいレンズとの温度差で結露を生む。
追い詰められた人間の身体は、正直だ。
「それは……従来からの慣行でして。財務局と監査局の合同監査として——」
「監査局に確認した。合同監査の記録はない」
殿下の声は平坦だ。感情がない。だからこそ、逃げ場がない。感情的に追い詰める人間からは、感情的に反論できる。だが事実だけを淡々と並べる相手には、事実でしか応えられない。そして、オルランドには応える事実がなかった。
オルランドの右手が、机の引き出しに伸びた。何かを取り出そうとしたのか、何かを隠そうとしたのか。わたしはその動きを目で追いながら、手元の記録用紙にさりげなく「引き出し」と書き留めた。
「オルランド」
殿下の声が、一段低くなった。
「その引き出しの中身を見せてもらえるか」
沈黙が落ちた。壁の時計の振り子音だけが、規則正しく響いている。
オルランドの顔から、血の気が引いていく。頬の赤みが消え、唇が薄い紫色に変わる。眼鏡の奥の目が泳ぎ、焦点が定まらない。
わたしは殿下の横で、静かにすべてを観察していた。オルランドの表情の変化、手の動き、呼吸のリズム。そして、引き出しの取っ手を握る指が震えていること。
引き出しが開かれた。中には書類の束。オルランドが自発的に開けたのではなく、殿下の指示に従わざるを得なかったのだ。王太子の命令を拒否することは、それ自体が罪になる。
殿下が書類を手に取った。わたしにも見える角度で。
ホフマン商会との取引書類。日付は、出張記録と完全に一致していた。
「オルランド。この取引について説明ができるか」
文官の眼鏡が、完全に曇っていた。
「……殿下。それは——」
「言い訳は不要だ。事実だけを聞いている」
オルランドの膝が震え始めた。椅子に座っているのに、震えが見える。机の下で両手が膝の上で固く握り締められている。
「——ホフマン商会を通じて、王宮の備品を外部に流していたのは事実です」
自白。だが、オルランドの声には不思議と安堵の色が混じっていた。長年の秘密を抱え続ける重荷から、少しだけ解放されたような息遣いだ。
だが、ここからが重要だ。
「独断か」
「……いいえ」
「誰の指示だ」
オルランドの視線が泳いだ。眼鏡を押し上げる。汗を拭く。椅子を軋ませる。さっきまでの安堵が消え、別の種類の恐怖が顔に浮かんでいる。不正がバレることへの恐怖ではない。誰かに知られることへの恐怖だ。
「それは……申し上げられません」
「言えないのか、言いたくないのか」
「……怖いのです」
その一言に、わたしの背筋が伸びた。
怖い。主席文官が、上司の名前を出すことを恐れている。単なる横領の共犯以上の何かが、この男を縛っている。恐怖で人を支配するのは、単純な権力ではない。秘密を共有し、逃げ道を塞ぐ——そういう構造が、この王宮のどこかに存在している。
殿下はそれ以上は追及しなかった。
「オルランド。不正取引の件は正式に調査を開始する。協力すれば、処分は考慮する」
殿下はそう言い残し、執務室を出た。わたしも続く。
廊下に出てから、殿下が足を止めた。夕暮れの光が廊下の窓から斜めに差し込んでいる。殿下の銀灰色の髪が、橙色に染まっていた。
「フラウ」
「はい」
「あの男が怯えていた相手は誰だと思う」
殿下がわたしに意見を求めている。上司が部下に問うのではなく、対等な調査者として。
「……宰相府の誰か、だと思います。オルランドの昇進を後押ししたのは宰相府です。不正取引を指示できる立場の人間は限られます。そして、オルランドは『怖い』と言いました。単に上司が怖いのではなく、何かをされることが怖いのだと思います。つまり、その人物は——」
「人を消す力を持っている、ということか」
殿下の言葉に、わたしの心臓が冷たくなった。
人を消す力。前世のわたしは——消された側だ。路地裏で、何の前触れもなく。あの冷たい石畳の感触が、一瞬だけ蘇った。
「……可能性はあります。ただ、宰相が直接指示を出すリスクを取るかどうか。中間者がいるかもしれません」
殿下が頷いた。
「慎重にいく。だが——網は狭まっている」
殿下の横顔が、廊下の灯りに照らされていた。厳しい表情。でも、その奥に——静かな決意がある。
この方は、本気で王宮を変えるつもりだ。腐敗を一つ一つ暴いて、根元から正す。原作のセレスティン殿下と同じ志。いや、原作よりも早い段階で核心に近づいている。わたしの介入が、物語の速度を変えている。
「殿下」
「何だ」
「わたしは、殿下のお力になりたいです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。らしくない台詞だ。いつもは「在庫を数えただけ」とか「退勤です」とか、素っ気ないことしか言わないのに。
殿下がわたしを見た。
「——お前は、すでに力になっている」
短い言葉だった。でも、殿下がそう言ってくれたことの重みは、わたしにしか分からない。
前世では、誰にも必要とされなかった。ダリウスにも、世界にも。パン工房の歯車の一つとして消耗されて、最後は路地裏で死んだ。
でも今は、推しが「力になっている」と言ってくれる。
目頭が熱くなった。泣くな。ここで泣いたら台無しだ。
「ありがとうございます。では、五の刻に退勤しますので」
殿下の唇が、また微かに動いた。
「……退勤か」
「はい。退勤です」
「退勤後に合流しろ。今夜もやることがある」
「かしこまりました」
背を向けて歩き出す。殿下に背中を見せる瞬間だけ、わたしは唇を噛んだ。歩幅が少し広くなる。嬉しいとき、人の歩幅は自然と広がるのだ。それを殿下に見られたくなくて、意識的に歩幅を狭めた。
泣くな。泣くな、わたし。
嬉しくて泣くなんて、推し活に忙しい転生者のすることじゃない。
宿舎に戻り、手帳を更新した。
『オルランドの不正確定。ホフマン商会との取引を自白。ただし、上位の指示者については「怖い」として口を閉ざす。背後に宰相府の関与が濃厚。「人を消す力」——前世の殺害事件との関連を検討する必要あり。』
『殿下が「力になっている」と言ってくれた。人生で初めて、誰かの力になれていると実感した。前世のわたしに教えてあげたい。お前の推しは、生で見ると更にかっこいいぞ、と。ぶふぉ。』
手帳を閉じて、天井を見上げた。
犯人探しは、まだ途中だ。だが、王宮の不正を暴くたびに、人間関係の地図が広がっていく。侍女長マルグリット、文官オルランド、ホフマン商会。そして、その背後にいるであろう宰相府の誰か。
そして——二十五年前の宮廷年鑑に載っていた、「コレット・ハイデン」。
すべてが、どこかで繋がっている。まだ見えない糸が、この王宮の奥深くで絡み合っている。
その糸を手繰り寄せるために、明日もまた——定時で帰る。
ランプを消す直前、手帳に一行だけ書き足した。
『殿下の「退勤か」の言い方が、呆れと諦めと、ほんの少しの親しみが混じっていた。推しの感情の機微を解析する作業が楽しすぎて困る。』




