表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/30

第8話 文官の眼鏡が曇るとき

嘘をつく人間には、癖がある。


瞬きの回数、手の位置、声の高さ。前世のパン工房で、仕入れ業者が品質を誤魔化そうとしたとき、わたしは相手の目の動きで嘘を見抜いた。小麦粉の袋が規定量より軽かったとき、業者は妙に饒舌になった。


人間は嘘をつくとき、身体のどこかに負荷がかかる。だが最も分かりやすいのは、嘘の必要がない場面で不自然に饒舌になることだ。


 オルランドの調査は、予想より早く進んだ。


 殿下が財務局への「定例監査」を名目に、直接オルランドの執務室を訪れたのだ。わたしは殿下の随行として同席した。


 オルランドは痩身に眼鏡の男で、細い指が常に何かを弄っている。


今は机の上のインク壺の蓋だ。わたしたちを見た瞬間、その指が止まり、代わりに眼鏡のブリッジを押し上げた。初対面の反射ではなく、防御の動作に見えた。


人間は身を守ろうとするとき、無意識に顔の前に手を持ってくる。


「殿下、お越しとは。何かございましたか」


「定例監査だ。今期の経費処理を確認させてもらう」


「もちろんです。すべて適正に処理しておりますので、どうぞご確認ください」


 饒舌。質問されていない「適正に処理している」という弁明を、開口一番に言った。嘘つきの初手だ。本当に適正なら、わざわざ強調する必要がない。


 殿下が机に向かい、書類を確認し始めた。わたしは横で記録を取りながら、オルランドを観察した。


 彼は落ち着いて見える。椅子に座り、背筋を伸ばし、微笑みすら浮かべている。だが、右手が常に眼鏡に近い位置にある。ブリッジを押し上げる準備姿勢だ。そして足元——机の下で、つま先が小刻みに動いている。上半身は完璧に制御されているが、下半身は正直だ。


 殿下が書類をめくるたびに、オルランドの呼吸がわずかに浅くなる。吸う音が短く、吐く音が長い。緊張しているときの典型的な呼吸パターンだ。


「オルランド。この経費処理だが」


「はい」


「クラインベルク辺境伯領への出張費が、年四回計上されている。税務監査目的と記載されているが」


「はい。辺境伯領は遠方ですので——」


「税務監査は監査局の権限だ。財務局の権限ではない」


 オルランドの眼鏡が、曇った。比喩ではなく、実際に——額の汗が蒸発して、レンズが薄く曇ったのだ。人間の身体は精神的な圧迫を受けると体温が上がる。その熱が、冷たいレンズとの温度差で結露を生む。


 追い詰められた人間の身体は、正直だ。


「それは……従来からの慣行でして。財務局と監査局の合同監査として——」


「監査局に確認した。合同監査の記録はない」


 殿下の声は平坦だ。感情がない。だからこそ、逃げ場がない。感情的に追い詰める人間からは、感情的に反論できる。だが事実だけを淡々と並べる相手には、事実でしか応えられない。そして、オルランドには応える事実がなかった。


 オルランドの右手が、机の引き出しに伸びた。何かを取り出そうとしたのか、何かを隠そうとしたのか。わたしはその動きを目で追いながら、手元の記録用紙にさりげなく「引き出し」と書き留めた。


「オルランド」


 殿下の声が、一段低くなった。


「その引き出しの中身を見せてもらえるか」


 沈黙が落ちた。壁の時計の振り子音だけが、規則正しく響いている。


 オルランドの顔から、血の気が引いていく。頬の赤みが消え、唇が薄い紫色に変わる。眼鏡の奥の目が泳ぎ、焦点が定まらない。


 わたしは殿下の横で、静かにすべてを観察していた。オルランドの表情の変化、手の動き、呼吸のリズム。そして、引き出しの取っ手を握る指が震えていること。


 引き出しが開かれた。中には書類の束。オルランドが自発的に開けたのではなく、殿下の指示に従わざるを得なかったのだ。王太子の命令を拒否することは、それ自体が罪になる。


 殿下が書類を手に取った。わたしにも見える角度で。


 ホフマン商会との取引書類。日付は、出張記録と完全に一致していた。


「オルランド。この取引について説明ができるか」


 文官の眼鏡が、完全に曇っていた。


「……殿下。それは——」


「言い訳は不要だ。事実だけを聞いている」


 オルランドの膝が震え始めた。椅子に座っているのに、震えが見える。机の下で両手が膝の上で固く握り締められている。


「——ホフマン商会を通じて、王宮の備品を外部に流していたのは事実です」


 自白。だが、オルランドの声には不思議と安堵の色が混じっていた。長年の秘密を抱え続ける重荷から、少しだけ解放されたような息遣いだ。


 だが、ここからが重要だ。


「独断か」


「……いいえ」


「誰の指示だ」


 オルランドの視線が泳いだ。眼鏡を押し上げる。汗を拭く。椅子を軋ませる。さっきまでの安堵が消え、別の種類の恐怖が顔に浮かんでいる。不正がバレることへの恐怖ではない。誰かに知られることへの恐怖だ。


「それは……申し上げられません」


「言えないのか、言いたくないのか」


「……怖いのです」


 その一言に、わたしの背筋が伸びた。


 怖い。主席文官が、上司の名前を出すことを恐れている。単なる横領の共犯以上の何かが、この男を縛っている。恐怖で人を支配するのは、単純な権力ではない。秘密を共有し、逃げ道を塞ぐ——そういう構造が、この王宮のどこかに存在している。


 殿下はそれ以上は追及しなかった。


「オルランド。不正取引の件は正式に調査を開始する。協力すれば、処分は考慮する」


 殿下はそう言い残し、執務室を出た。わたしも続く。


 廊下に出てから、殿下が足を止めた。夕暮れの光が廊下の窓から斜めに差し込んでいる。殿下の銀灰色の髪が、橙色に染まっていた。


「フラウ」


「はい」


「あの男が怯えていた相手は誰だと思う」


 殿下がわたしに意見を求めている。上司が部下に問うのではなく、対等な調査者として。


「……宰相府の誰か、だと思います。オルランドの昇進を後押ししたのは宰相府です。不正取引を指示できる立場の人間は限られます。そして、オルランドは『怖い』と言いました。単に上司が怖いのではなく、何かをされることが怖いのだと思います。つまり、その人物は——」


「人を消す力を持っている、ということか」


 殿下の言葉に、わたしの心臓が冷たくなった。


 人を消す力。前世のわたしは——消された側だ。路地裏で、何の前触れもなく。あの冷たい石畳の感触が、一瞬だけ蘇った。


「……可能性はあります。ただ、宰相が直接指示を出すリスクを取るかどうか。中間者がいるかもしれません」


 殿下が頷いた。


「慎重にいく。だが——網は狭まっている」


 殿下の横顔が、廊下の灯りに照らされていた。厳しい表情。でも、その奥に——静かな決意がある。


 この方は、本気で王宮を変えるつもりだ。腐敗を一つ一つ暴いて、根元から正す。原作のセレスティン殿下と同じ志。いや、原作よりも早い段階で核心に近づいている。わたしの介入が、物語の速度を変えている。


「殿下」


「何だ」


「わたしは、殿下のお力になりたいです」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。らしくない台詞だ。いつもは「在庫を数えただけ」とか「退勤です」とか、素っ気ないことしか言わないのに。


 殿下がわたしを見た。


「——お前は、すでに力になっている」


 短い言葉だった。でも、殿下がそう言ってくれたことの重みは、わたしにしか分からない。


 前世では、誰にも必要とされなかった。ダリウスにも、世界にも。パン工房の歯車の一つとして消耗されて、最後は路地裏で死んだ。


 でも今は、推しが「力になっている」と言ってくれる。


 目頭が熱くなった。泣くな。ここで泣いたら台無しだ。


「ありがとうございます。では、五の刻に退勤しますので」


 殿下の唇が、また微かに動いた。


「……退勤か」


「はい。退勤です」


「退勤後に合流しろ。今夜もやることがある」


「かしこまりました」


 背を向けて歩き出す。殿下に背中を見せる瞬間だけ、わたしは唇を噛んだ。歩幅が少し広くなる。嬉しいとき、人の歩幅は自然と広がるのだ。それを殿下に見られたくなくて、意識的に歩幅を狭めた。


 泣くな。泣くな、わたし。


 嬉しくて泣くなんて、推し活に忙しい転生者のすることじゃない。


 宿舎に戻り、手帳を更新した。


『オルランドの不正確定。ホフマン商会との取引を自白。ただし、上位の指示者については「怖い」として口を閉ざす。背後に宰相府の関与が濃厚。「人を消す力」——前世の殺害事件との関連を検討する必要あり。』


『殿下が「力になっている」と言ってくれた。人生で初めて、誰かの力になれていると実感した。前世のわたしに教えてあげたい。お前の推しは、生で見ると更にかっこいいぞ、と。ぶふぉ。』


 手帳を閉じて、天井を見上げた。


 犯人探しは、まだ途中だ。だが、王宮の不正を暴くたびに、人間関係の地図が広がっていく。侍女長マルグリット、文官オルランド、ホフマン商会。そして、その背後にいるであろう宰相府の誰か。


 そして——二十五年前の宮廷年鑑に載っていた、「コレット・ハイデン」。


 すべてが、どこかで繋がっている。まだ見えない糸が、この王宮の奥深くで絡み合っている。


 その糸を手繰り寄せるために、明日もまた——定時で帰る。


 ランプを消す直前、手帳に一行だけ書き足した。


『殿下の「退勤か」の言い方が、呆れと諦めと、ほんの少しの親しみが混じっていた。推しの感情の機微を解析する作業が楽しすぎて困る。』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ