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第7話 退勤後の図書館は秘密の味がする

図書館という場所には、魔力がある。


古い紙と革の匂い、高い天井に届くほどの書架、背表紙に刻まれた金文字。

夜の図書館は昼間とはまた違う顔を見せる。灯りは壁際の燭台だけで、書架の影が長く伸びて、まるで本たちが密談しているように見える。そこに推しが座っていれば、もう完璧だ。


 退勤後の閲覧室は、わたしと殿下とトビアスの三人だけの空間になっていた。

ヴィルヘルミナが閉館後も鍵を貸してくれるのは、殿下の権限があるからだ。


だが、ヴィルヘルミナは権限だけで動く人ではない。殿下が真実を追う姿勢を、この老司書は静かに支持しているのだ。図書館の番人は、知識の正しい使い道を知る者に味方する。


 今夜の調査対象は、オルランドの経歴。


「殿下。オルランドは十二年前に地方の税務署から王宮に転任しています。転任直後から財務局の要職を歴任していますが、その昇進速度が異常です」


「異常とは」


 殿下が資料から目を上げた。わたしの分析に疑問を呈するのではなく、根拠を求めている。この方は部下の意見を頭ごなしに否定しない。必ず理由を聞いてから判断する。だからこそ、わたしは安心して仮説を述べられる。


「通常、地方からの転任者が主席文官に就くまで最低二十年。オルランドは十二年で到達しています。後ろ盾がなければ不可能な速度です。人事記録を遡ると、昇進のたびに上位者の推薦が入っていますが、推薦者が常に同じ部署からです」


「どの部署だ」


「宰相府です」


 宰相府。またこの名前だ。王宮の不正を辿るたびに、糸は宰相府に向かって収束していく。


 殿下の指先が、資料の端で止まった。紙を叩く癖は出ない。代わりに、指が資料の角をわずかに折った。初めて見る仕草だ。殿下にとって宰相府の名前は、単なる調査対象以上の意味を持っているらしい。


「宰相ギルベルトか」


「直接の推薦者は宰相府の次官ですが、宰相の承認なしに主席文官への推薦は通りません」


 殿下は黙って頷いた。表情に変化はないが、肩がわずかに強張っている。ギルベルトの名前に反応している。


 ——殿下は、宰相に対して何か思うところがあるのだ。


 原作でも、セレスティンとギルベルトの関係は複雑だった。宰相は王太子の後見人的な立場にあり、表向きは支援者。だが物語が進むにつれ、その支援の裏に何が隠されているのかが明らかになっていった。


 わたしは原作の結末を知っている。だが、この世界が原作通りに進む保証はない。わたしの転生によって、すでにタイムラインは変わっているのだから。


「フラウ」


「はい」


「宰相については、今は深追いしない」


 殿下の声が少し硬い。


「まずオルランドの不正を確定させる。その先は、その後だ」


「かしこまりました」


 殿下は慎重だ。宰相を敵に回すリスクを理解している。末端から崩していくのは正しい戦略だ。碁盤で言えば、まずは外側の石を取ってから中央に攻め込む。焦って本丸を突けば、こちらが返り討ちに遭う。


 資料を整理しながら、わたしはオルランドの行動パターンを分析した。財務局の勤務記録、出張記録、交友関係。退屈な作業だが、嘘は細部に隠れる。前世のパン工房でも、仕入れの不正は些細な数字のずれから見つかった。


「殿下。面白いものを見つけました」


「何だ」


「オルランドの出張記録です。年に四回、必ずクラインベルク辺境伯領に出張しています。目的は『税務監査』となっていますが——」


「辺境伯領の税務監査は、監査局の管轄だ。財務局の権限ではない」


「はい。つまり、この出張には別の目的があります。しかも四回とも、四半期の決算時期と重なっています。先ほどの経費処理と合わせると、出張を口実にした不正取引の可能性が浮上します」


 殿下の目が光った。データが揃い始めるときの、あの鋭い光。闇を切り裂くような知性の閃き。わたしが前世で物語の中に見て恋をした、その光そのものだ。


 ——ぶふぉ。心の中で小さく。


「クラインベルク辺境伯。先日面会した、あの辺境伯か」


「はい。殿下との面会で言葉を濁した辺境伯です。あのとき、殿下が核心に近い質問をされたとき、辺境伯は水差しに手を伸ばしました。喉が渇いたのではなく、間を作るための動作です」


 殿下がわたしを見た。


「お前、そこまで観察していたのか」


「側近ですから」


 本当は、推しの横顔に見とれていた合間にちらっと見ただけなのだが、それは言わない。


「繋がるな」


 殿下が立ち上がった。珍しい。普段は座ったまま思考するのに。立ち上がるのは、結論が出て行動に移す段階だ。


「明日、オルランドの出張時期と、ホフマン商会の取引時期を照合する。一致すれば——」


「オルランドが出張に合わせて不正取引を行っている証拠になります」


「そうだ」


 殿下がわたしを見下ろした。身長差がある。見上げる形になる。紫の瞳が、閲覧室の灯りを映して深い色をしている。燭台の火が揺れるたびに、瞳の中で小さな光が踊る。


「お前と話していると、思考が加速する」


 ——え。


 推しに「思考が加速する」と言われた。それは——わたしの存在が、殿下の知性にプラスの影響を与えているということか。前世では、誰かの思考を加速させたことなんて一度もなかった。パン工房では「真面目だね」と言われるのが精一杯で、それすら社交辞令だっただろう。


 顔に出すな。顔に出すな。


「光栄です」


 声は平静。手のひらは汗だく。机の下で拳を握る。


 トビアスが閲覧室の入り口から顔を出した。


「殿下、そろそろ時間です。護衛としては、深夜まで図書館に籠もるのは勘弁していただきたいのですが」


「分かった。今日はここまでだ」


 閲覧室を出るとき、ヴィルヘルミナが廊下で待っていた。手に一冊の本を持っている。古い革装丁で、背表紙が擦り切れている。長い年月の重みが、革の手触りに宿っている。


「フラウ。これを」


「何ですか?」


「古い記録だけれど、面白い話が載っているの。二十五年前の宮廷年鑑よ」


 ヴィルヘルミナの手が、本の表紙をそっと撫でた。まるで古い友人に触れるような仕草だった。この人にとって、本は単なる記録媒体ではない。記憶そのものなのだ。


 二十五年前。殿下が生まれる前の記録。


「……ありがとうございます」


「答えは、いつも古い棚の奥にあるものだから」


 ヴィルヘルミナの穏やかな笑みの奥に、あの測るような光が見えた。


 この人は、何かを知っている。だが、直接は教えない。わたし自身が辿り着くのを、待っている。知識の番人とはそういうものなのかもしれない。答えを与えるのではなく、問いを導く。


 宿舎に戻り、ヴィルヘルミナから借りた宮廷年鑑を開いた。


 二十五年前の記録。王宮の人事異動、行事記録、叙勲者名簿。分厚い本だが、丁寧に保管されていて、紙は黄ばんでいるものの文字は鮮明だ。


 ぱらぱらとめくっていると、ある名前で手が止まった。


「——コレット」


 声が出た。自分の声に驚いて、慌てて口を手で覆った。幸い、部屋にはわたしだけだ。心臓がうるさい。手帳を持つ指が、かすかに痺れている。


 同じ名前。前世のわたしと同じ名前が、二十五年前の宮廷年鑑にあった。


『宮廷楽師 コレット・ハイデン。女性。王宮歌劇団の専属歌手として活躍。同年、辞任。』


 同姓同名の別人だろうか。いや、この世界と前世は別の世界だ。同じ名前があること自体がおかしい。前世の記憶をもとに転生した世界に、前世の自分と同じ名前の人物がいる。それは——偶然では片づけられない。だが、わたしの前世の姓は——ハイデンだった。


 偶然?


 ページをさらにめくった。辞任の理由は記載されていない。だが、同じ年の行事記録に、小さな注記があった。


『同年、王宮歌劇団を巡る不祥事により、複数名が辞任。詳細は宰相府記録を参照のこと。』


 宰相府記録。


 また、宰相府だ。あらゆる糸が、この名前に収束していく。偶然ではない。この王宮の闇は、二十五年前から——いや、もっと前から続いているのかもしれない。


 手帳に書き込む手が震えていた。ペンを握る指先が白くなるほど力が入っている。深呼吸をして、震えを抑えた。感情に飲まれてはいけない。観察し、仮説を立て、検証する。わたしにできることは、それだけだ。


『二十五年前の宮廷年鑑に、前世と同じ姓名「コレット・ハイデン」を発見。宮廷楽師。辞任理由不明。宰相府記録に関連情報あり。』


『これは偶然か。前世の記憶と、この世界の過去に、接点があるのか。』


 分からない。まだ分からない。


 だが、糸が一本、増えた。


 ランプの灯りの下で、わたしは年鑑のページをもう一度見つめた。コレット・ハイデン。二十五年前の女性。わたしの前世の名前。


 ——この世界は、わたしが思っている以上に、前世と繋がっているのかもしれない。


 ヴィルヘルミナは、なぜこの年鑑をわたしに渡したのだろう。あの穏やかな笑みの裏に、何を見ていたのだろう。


 答えは、まだ見えない。


 手帳を閉じて、ランプを消した。暗闇の中で、殿下の言葉が反芻される。


「お前と話していると、思考が加速する」


 ——推し。その言葉だけで、わたしの心拍数も加速しています。ぶふぉ。


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