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第6話 王太子殿下は残業を知らない

推しが、わたしの退勤ルートで待ち伏せしていた。


 ——という表現は語弊がある。正確には、殿下が北棟の回廊で書類を読みながら歩いていて、退勤中のわたしと偶然鉢合わせた。だが、殿下は偶然を装うのが下手だ。歩きながら書類を読む人間は、普通、特定の側近の退勤ルート上にはいない。


「フラウ」


「殿下。お疲れさまです。わたしは退勤——」


「侍女長の調査結果が出た」


 足が止まった。


 マルグリットの横領に対する正式調査は、殿下の命令から三日で結論が出た。結果は、解任と王宮からの追放。横領された備品の総額は、年間の侍女部予算の二割に相当するという。


「横領された備品は、ホフマン商会を通じて闇市に流れていた。商会の主は、すでに拘束されている」


 殿下の声は淡々としている。だが、ペンを回していない。代わりに、書類を持つ手が微かに力んでいる。怒りではなく、自責に近い感情だろう。この方は、自分の管轄で起きた不正を、自分の落ち度と受け止める人だ。


「殿下。それは良い結果です」


「良い結果? 二十年近く侍女長を務めた人間が横領を続けていたのを、誰も見抜けなかった。それが良い結果か」


 殿下の声に、初めて感情の色が混じった。怒りではない。苦さだ。自分の足元が腐っていたことへの。


 わたしは言葉を選んだ。


「誰も見抜けなかったのではなく、見抜いても声を上げられなかったのだと思います。権力者の不正を告発するのは、それ自体が命懸けですから」


 殿下がわたしを見た。紫の瞳が、いつもより深い色をしている。


「お前は声を上げた」


「わたしは在庫を数えただけです」


「謙遜か」


「事実です」


 殿下の唇が、ほんの一瞬だけ動いた。笑ったのか、呆れたのか。表情が小さすぎて読めない。でも、ペンを回していないということは、不機嫌ではないということだ。


「フラウ。退勤後に何をしている」


 心臓が跳ねた。


「私用です」


「以前もそう言ったな」


「はい」


「侍女長の横領に気づけたのは、退勤後の調査の結果か」


 鋭い。この方は、一を聞いて十を察する人だ。推しの頭脳は伊達ではない。


 嘘をつくか、本当のことを言うか。


 ——半分だけ、本当のことを言おう。


「……はい。退勤後に西棟の周辺を観察していて、侍女長の不審な行動を目撃しました」


「なぜ、報告ではなく自分で調べた」


「証拠のない告発は、告発者を潰すだけですから。わたしは第三側近です。侍女長の弁明に勝てる立場ではありません」


 殿下が頷いた。小さく、だが確かに。


「合理的だ。——フラウ」


「はい」


「王宮内の不正は、侍女長だけではない。私はそう見ている」


 やはり。殿下は、もっと大きな腐敗を見据えている。


「お前の観察力と調査能力は使える。退勤後の時間を、私のために使う気はあるか」


 ——推しが、わたしに協力を求めている。


 心の中で「ぶふぉ」が五十回ほど連打された。だが顔には出さない。出したら側近失格だ。


 冷静に。冷静に返答する。


「殿下。一つ条件があります」


「言え」


「退勤時刻は変えません。五の刻に退勤し、その後の調査に協力するという形であれば」


 殿下のペンが——いや、今日はペンを持っていない。代わりに、指先が書類の角を叩いた。


「……お前の定時退勤への執着は、何なのだ」


「信条です」


「信条」


「働く時間と、自分の時間を分けること。それがわたしの——生き方です」


 前世では、それすら叶わなかった。パン工房で朝から晩まで働き、自分の時間は眠る前の読書だけ。人生のすべてを仕事に捧げて、得たものは婚約破棄と路地裏の死。


 今度は、違う。


 殿下は数秒の沈黙のあと、「分かった」と言った。


「五の刻に退勤。その後、合流。それでいい」


「ありがとうございます、殿下」


「ただし」


 殿下の紫の瞳が、夕日を受けて琥珀色に揺れた。


「私は残業という概念を知らない。付き合わせることになるが、文句は言うなよ」


 殿下の唇が、今度こそ微かに上がった。冗談なのかどうか分からない。この方は、冗談を言うとき笑わない。


「……かしこまりました」


 こうして、わたしと殿下の「退勤後の共同調査」が始まった。





 その夜から、退勤後の調査は二人体制になった。


 殿下は護衛のトビアスを伴い、わたしと合流する。場所は王宮図書館の奥の閲覧室。ヴィルヘルミナが黙って鍵を渡してくれる。


「今日は何を調べますか」


「侍女長の横領は、単独犯ではない可能性がある」


 殿下が資料を広げた。マルグリットの横領先であるホフマン商会の取引記録だ。


「ホフマン商会は、侍女部の備品以外にも王宮から物品を受け取っている形跡がある。財務局経由の取引だ」


「財務局……」


 財務局。わたしが紋章の候補として挙げていた部署の一つ。


「主席文官のオルランドが、過去三年間にホフマン商会と六回の取引をしている。いずれも『経費処理』として計上されているが、内容が不明瞭だ」


 殿下は淡々と事実を並べる。感情を交えず、データだけを提示する。その姿勢が、原作で好きだったセレスティン殿下そのものだ。


 わたしは資料を受け取り、取引の詳細を確認した。


「殿下。この六回の取引、すべて四半期の決算直前に行われています。決算前に経費を増やして、予算の帳尻を合わせている可能性があります」


「つまり」


「財務局の主席文官オルランドも、不正に関与している可能性が高いです」


 殿下が頷いた。


「次はオルランドを調べる」


 調査は進む。殿下が全体像を描き、わたしが細部を詰める。殿下の高い視座と、わたしの観察力が噛み合う瞬間が、何度もあった。


「フラウ」


「はい」


「お前の仮説構築能力は優秀だ。どこで身につけた」


 ——前世のパン工房で小麦粉の仕入れ管理をしていたからです、とは言えない。


「本で学びました」


「どんな本だ」


「……推理小説です」


 殿下の眉が微かに上がった。


「推理小説。側近にしては珍妙な趣味だ」


「殿下も読まれますか?」


「読まない。だが、お前が読んで身につけた能力が役に立っている以上、否定はしない」


 推しの合理性に、また惚れ直した。


 調査を終え、閲覧室を出た。トビアスが廊下で待っていて、わたしたちを見て後頭部を掻いた。


「殿下、遅くなりましたね。フラウ、お前定時退勤じゃなかったのか」


「退勤後の自主活動です」


「それ、残業では」


「違います。自発的なボランティアです」


 トビアスが笑った。殿下は無表情だが、ペンを——いや、ペンはない。指先が服の袖口に触れた。その仕草は初めて見た。ペンがないときの代替行動だろうか。推しの新しい癖を発見してしまった。


 宿舎に戻り、手帳を更新した。


『殿下との共同調査開始。次のターゲット:財務局主席文官オルランド。ホフマン商会との不正取引の疑い。』


『殿下の観察:冗談を言うとき笑わない。感情表現は最小限だが、苛立ちは指先に出る。ペンがないときは袖口に指が行く。推理小説の話をしたとき、興味を示した(眉が動いた)。推しの眉の動きを至近距離で確認できるこの状況、尊い。ぶふぉ。』


 手帳の推し記録エリアが拡大している。調査記録と推し記録の比率が、そろそろ逆転しそうだ。


 明日から、オルランドの調査が始まる。


 殿下と二人で不正を暴く。前世のわたしが聞いたら、あまりの幸運に卒倒するだろう。


 だが、幸運に浮かれるわけにはいかない。


 犯人は、まだ見つかっていない。


 侍女長の横領は、前世の殺害事件と直接の関連はなかった。だが、王宮内の不正を暴くたびに、人間関係の網が見えてくる。誰が誰と繋がり、誰が何を隠しているのか。


 その網の中に、わたしを殺した人間がいる。


 ランプを消す前に、窓の外を見た。


 月が出ていた。殿下の銀灰色の髪と同じ色の月だ。


「……推しに月が似合うのは罪だと思います」


 誰にも聞こえない独り言を呟いて、ランプを消した。


 明日も、定時で帰って、殿下と合流して、不正を暴く。


 ——その先に、わたしの殺害犯がいることを願いながら。


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