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第5話 横領の証拠は紅茶に溶ける前に

証拠とは、消えるものだ。紅茶に落とした砂糖のように、時間が経てば溶けて見えなくなる。だからこそ、固まる前に掴まなければならない。


 退勤後、わたしは西棟の影に身を潜めていた。


 昨日と同じ時刻。マルグリットが来るかどうか。パターンを確認するための二日目の張り込みだ。


 五の半刻を過ぎた頃、足音が聞こえた。


 やはりマルグリットだ。昨日と同じ手順——花瓶の下から鍵を取り、錠前を開け、中に入る。


 今日は箱ではなく、布に包んだ何かを持って出てきた。布の隙間から、金属の光が漏れている。食器だ。


 マルグリットは鍵を花瓶の下に戻し、廊下を戻っていく。


 わたしは距離を保って後を追った。


 マルグリットは西棟から出て、使用人通路を通り、裏庭に出た。裏庭の奥に——荷馬車が停まっていた。


 御者台に座っているのは、王宮の人間ではない。市井の商人風の男だ。マルグリットは男に布包みを渡し、代わりに小さな袋を受け取った。袋の中身は——硬貨の音がした。


 取引だ。


 備品を横流しし、代金を受け取っている。


 わたしは距離を詰めすぎないよう、物陰から観察した。商人の馬車には屋号が書かれている。暗くて読みづらいが——「ホフマン商会」と読めた。


 手帳に記録。


 マルグリットと商人のやり取りは短かった。三分もかからずに商人は馬車を出し、マルグリットは王宮内に戻っていった。


 証拠が揃った。


 いや、正確には、わたしの中では揃った。だが、裁くためには第三者が認める形の証拠が必要だ。


 わたし一人の目撃証言では、侍女長の弁明に負ける。必要なのは、複数の証拠を組み合わせた、否定できない事実の束だ。


 帰り道、計画を練った。


 一。合い鍵の存在証明。花瓶の下の鍵を、信頼できる第三者に確認させる。


 二。備品の差異。倉庫の現在の在庫と、購入記録上の数量を照合する。差があれば、持ち出しの証拠になる。


 三。ホフマン商会との取引記録。これは外部の調査になるため、今すぐには難しい。


 二が最も確実だ。在庫と記録の不一致は客観的な事実であり、言い逃れが難しい。


 問題は、倉庫の在庫を確認する手段だ。鍵は花瓶の下にあるが、わたしが勝手に使えば不法侵入になる。


 正規の手段で倉庫を開ける方法。


 ——ある。


 翌日。


 側近室で、わたしは殿下に報告書を提出した。


「殿下。次回の王宮行事に関する備品確認のため、西棟地下倉庫の在庫確認を提案いたします」


 殿下がわたしを見た。ペンは回していない。


「理由は」


「図書館で確認した購入記録と、実際の在庫に相違がないか検証するためです。殿下が調べておられる内容との関連性があるかもしれません」


 殿下の目が細くなった。紫の瞳が、わたしの言葉の裏を測っている。


「……お前、何を知っている」


「何も確定していません。だからこそ、確認が必要です」


 沈黙。


 殿下はペンを机に置いた。回すのではなく、置いた。それは——判断を下すときの仕草だ。


「いいだろう。在庫確認を許可する。ただし、私も立ち会う」


 殿下自らが立ち会う。


 それは、わたしの予想を超えていた。だが、考えてみれば理にかなっている。王太子の立ち会いがあれば、確認結果に権威が伴う。侍女長が否定しようとしても、王太子の目の前で確認された事実は覆せない。


「かしこまりました。日時のご指示をお待ちします」


「明日の午後だ。侍女長にも立ち会いを命じる」


 ——殿下、有能すぎる。


 侍女長本人を立ち会わせることで、「知らなかった」という言い逃れを封じる。さすが推し。さすが原作の主人公。いや、原作ではここまで早い段階で不正に気づいてはいなかった。わたしの介入が、タイムラインを変えている。


 翌日の午後。


 西棟地下倉庫の前に、四人が集まった。殿下、わたし、侍女長マルグリット、そして護衛として騎士のトビアスが同行している。


 トビアスは赤銅色の短髪の青年で、人懐こい笑顔が特徴的だが、今は真剣な表情だ。


「侍女長、鍵を」


 殿下の命に、マルグリットが鍵束を取り出した。表情は平静だが、鍵を選ぶ指先が一瞬だけ止まった。わたしは見逃さなかった。


 鍵が回り、扉が開く。


 倉庫の中は整然としていた。棚に並ぶ箱、壁際に立てかけられた装飾品、布で覆われた食器類。


「フラウ。確認を」


「はい」


 わたしは手元の購入記録と、倉庫の現物を一つずつ照合し始めた。


 殿下が静かに見守る中、マルグリットは腕を組んで壁際に立っていた。表情は不動だが、指先が袖口を掴んでいる。


 照合は三十分ほどで終わった。


 結果。


「殿下。購入記録上は銀食器セットが十二組ありますが、現物は九組です。また、絹の装飾布が記録では二十反ですが、十五反しかありません」


 倉庫に沈黙が落ちた。


 殿下がマルグリットを見た。


「侍女長。この差異について、説明ができるか」


 マルグリットの表情が、初めて揺れた。指先が袖口を強く掴む。


「……行事で使用した分の処分記録が、更新されていない可能性がございます」


「処分記録はどこに」


「侍女部の管理室に——」


「では確認する。案内しろ」


 殿下の声は冷たかった。冷徹で、容赦がなくて、完璧に公正。推しが悪を裁くときの声だ。


 マルグリットの顔から、少しずつ色が失われていく。


 侍女部の管理室で処分記録を確認した結果、行事で処分された備品の量は、在庫の差異を説明できるものではなかった。


 証拠が揃った。


 この場で、殿下の前で、否定しようのない形で。


「侍女長マルグリット。在庫の不一致について、正式な調査を命じる。調査期間中、倉庫の管理権限は凍結する」


 マルグリットの肩が、わずかに落ちた。


 わたしはその姿を見つめながら、胸の奥で小さな炎が灯るのを感じた。


 前世では——こういう人間に、わたしは為す術もなかった。権力者が嘘をつき、弱者に罪を被せる。それが当たり前の世界で、わたしは黙って耐えるしかなかった。


 でも今は、違う。


 正しい手順で、正しい証拠を揃えれば、権力者も追い詰められる。


 倉庫を出るとき、トビアスがわたしの横に並んだ。


「お前、すごいな。あの侍女長の不正に気づいたの、お前だろ」


 わたしは曖昧に微笑んだ。


「わたしは在庫を数えただけです」


「数えただけ、ねえ」


 トビアスが後頭部を掻いた。困ったときの癖だ。


「まあ、いいけどさ。あの侍女長、ずっと怪しいって思ってた騎士は何人もいたんだ。でも誰も証拠を掴めなかった。お前が来て一週間で片がつくとはな」


「まだ片はついていません。調査はこれからです」


「真面目だな。——それと、定時退勤の件、俺は嫌いじゃないぞ。むしろ好きだ」


 トビアスの屈託のない笑顔に、わたしは少しだけ気が楽になった。


 味方が、一人増えた。


 その夜、宿舎で手帳を更新した。


『マルグリットの横領:在庫差異を殿下の前で確認。正式調査命令。証拠確定。』


『残課題:ホフマン商会との接点。マルグリットの背後に他の関係者がいないか。この横領と前世の殺害事件との関連。』


『ニナのお給金差し引き:殿下の調査命令により、ニナの嫌疑は晴れる見込み。明日、ニナに報告する。』


 手帳を閉じかけて、もう一行。


『殿下が「私も立ち会う」と言ったときの声が低くてかっこよすぎて、一瞬記憶が飛んだ。推しの正義執行を至近距離で見られるこの転生、本当にありがとうございます。ぶふぉ。』


 ——手帳がだんだん推しの布教ノートになっている気がする。


 まあいい。推しへの愛は記録に残すべきだ。


 ランプを消す前に、窓の外を見た。


 犯人探しの糸口は、まだ見えない。マルグリットの横領が前世の事件と繋がるかどうかも分からない。


 でも、一つだけ分かったことがある。


 この王宮には、不正が一つだけではない。横領はきっと氷山の一角だ。もっと深い闇が、もっと多くの人間を巻き込んでいる。


 その闇の奥に——わたしを殺した人間がいる。


 明日も、定時で帰る。そして、調べ続ける。


 ランプを消した暗闇の中で、殿下の紫の瞳を思い出した。冷たくて、公正で、揺るがない瞳。


 あの瞳の傍で、わたしは自分の真実を追う。


 ——侍女長の次は、誰の嘘を暴くことになるのだろう。


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