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第3話 定時退勤は権利であり義務である

三日目にして、わたしは王宮で有名人になっていた。不名誉な意味で。


「あの側近、また定時で帰ったらしいよ」という囁きが、廊下のあちこちで聞こえる。好奇と軽蔑が半々といった声色だ。


 知ったことではない。廊下で囁く侍女たちの視線を背中に受け流しながら、わたしは平然と歩いた。前世でも、パン工房の周囲から「伯爵家の三男に捨てられた女」と噂された経験がある。他人の評価で足を止めていたら、生きていけない。定時退勤は、わたしにとって生存戦略なのだ。日中は側近業務を完璧にこなし、退勤後に調査を行う。このサイクルを崩したら、どちらも中途半端になる。


 定時退勤は、わたしにとって生存戦略なのだ。日中は側近業務を完璧にこなし、退勤後に調査を行う。このサイクルを崩したら、どちらも中途半端になる。


「フラウ」


 朝の側近室で、殿下が声をかけた。いつもの平坦な声。だが、今日はペンを回していない。代わりに、わたしをまっすぐ見ていた。


 心臓が一拍、跳ねた。推しに見つめられることの破壊力を、わたしはまだ学習途中だ。


「はい、殿下」


「昨日の辺境伯との面会記録。よく書けている」


 ——え。


 褒められた。推しに褒められた。


 顔に出すな。顔に出すな。わたしは側近だ。プロフェッショナルだ。


「ありがとうございます。恐れ入ります」


 声は平静を保てた。だが手のひらが汗ばんでいる。机の下で拳を握って、爪の感触で正気を保つ。


「ただ」


 殿下のペンが回り始めた。不満のサインだ。


「五の刻に退室する習慣は改めるべきだ。側近室の業務時間は六の刻までだ」


「恐れ入りますが、規定では五の刻が定時です。六の刻までというのは慣例であり、規則ではありません」


 沈黙。


 第一側近のヘルマンが、書類を持ったまま固まっている。第二側近のエルヴィンは最初から関わるつもりがないらしく、窓の外を眺めている。


 殿下の紫の瞳がわたしを射抜いた。冷たい。だが、怒りではない。興味に近い色だ。


「……規定を確認した上で、そう言っているのか」


「はい」


「理由を聞いてもいいか」


「私用です」


 殿下のペンが止まった。今度の沈黙は長い。


「——いいだろう。業務に支障がなければ、好きにしろ」


 許可が出た。推しからの直々の許可だ。王宮の慣習を覆す発言をした平民の側近に、規定を根拠に退勤を認めてくれた。この方は、感情ではなく論理で判断する。だからこそ、論理的に正しい主張には、王太子であっても譲る。それは冷たさではなく、公正さだ。前世のダリウスは、自分の都合だけで他者の人生を決めた。殿下とは正反対の人間だ。


 感謝を述べて一礼しながら、内心で小躍りした。同時に、殿下が「規定を確認した上で」と言ったことに感心していた。原作通り、この方は感情ではなく論理で動く。だからこそ、規定に基づく主張には反論しない。


 ……推しの美点を至近距離で確認できる日々、本当にありがたい。


 さて、仕事だ。


 今日の午前は、枢密会議の議事録整理。膨大な量だが、フラウの記憶にある書式に従えば機械的にこなせる。


 作業をしながら、昨日ニナから受け取った鍵の返却記録を思い出す。今朝、始業前にニナと会って、記録の写しを確認した。ニナはおずおずと写しを差し出してくれた。指先がかすかに震えていたが、目には「信じてほしい」という必死さがあった。


 結論から言えば、ニナの返却記録は確かに存在していた。日付、時刻、署名。すべて揃っている。にもかかわらず、鍵は「紛失」として処理されている。


 これは二つの可能性を示している。


 一つ。ニナが返却した後に、誰かが鍵を持ち出した。


 二つ。返却記録そのものが、事後的に追加された偽造記録である。


 だが、わたしはニナの手を見た。震えながらもまっすぐ差し出された手を。あの手は嘘をついていない。


 仮説。侍女長マルグリットが、何らかの目的で鍵を必要としている。そしてその責任を、立場の弱い侍女に転嫁している。


 検証するには、もう一段階の情報が必要だ。


 ——鍵が何の鍵なのか。


 議事録整理を終え、次の業務に移る合間に、わたしは側近室の書棚を調べた。王宮の備品管理規定は、側近室にも控えが置いてある。


 見つけた。備品鍵の一覧。


 ニナが返却した鍵は、西棟地下倉庫の管理鍵だ。西棟地下倉庫には——王宮行事用の備品が保管されている。高価な食器、装飾品、布地。


 高価な物品へのアクセス。鍵の不自然な紛失。侍女長の過剰な反応。


 点と点が線になりかけている。だが、まだ証拠はない。


「フラウ」


 殿下の声に振り向いた。


「午後の書簡配達を頼む。宰相府と財務局へ」


「かしこまりました」


 ——宰相府と財務局。


 昨日、紋章の確認が必要だと思っていた、まさにその二か所だ。


 偶然ではない。業務のついでに確認できる。こういう巡り合わせを、転生のご褒美と呼ぶのかもしれない。


 書簡を受け取り、まず財務局へ向かった。


 財務局は王宮の東棟に位置する。側近室のある中央棟からは、渡り廊下を二本渡る。渡り廊下の窓から中庭が見えたが、わたしの目は花壇ではなく、すれ違う人々の袖口に向いている。廊下を進むと、文官たちの袖口が見えた。財務局の紋章は、天秤を模した幾何学的なデザイン。


 ——近い。前世で見た紋章に、構造が近い。


 だが、完全に一致しているかは分からない。暗闘の中で一瞬だけ見えた記憶だ。確証を得るには、もっとはっきりした状況で確認する必要がある。


 書簡を届け、次に宰相府へ。


 宰相府は王宮の中央棟最上階。格式の高さが廊下の装飾に表れている。


 宰相府の紋章を見た瞬間、足が止まった。


 盾の中に配された直線的な紋様。幾何学的に組まれた格子模様。


 ——これだ。


 いや。断定はできない。記憶は曖昧だ。でも、三つの候補——騎士団、財務局、宰相府——の中で、宰相府の紋章がもっとも記憶に近い。


 書簡を宰相府の受付に渡した。応対してくれたのは、穏やかな笑みを浮かべた壮年の男性だった。白髪を後ろに撫でつけた上品な風貌。


「王太子殿下からの書簡ですか。ご苦労様」


「はい。宰相閣下へお渡しください」


「私が宰相のギルベルトだ」


 ——え。


 宰相本人だった。


 穏やかな笑み。優雅な物腰。紅茶のカップを片手に、書簡を受け取る仕草が自然すぎて、逆に違和感がある。


「新しい側近かな。お名前は?」


「フラウと申します」


「フラウ。いい名だ。殿下をよろしく頼むよ」


 にこやかに言って、ギルベルトは執務室に戻っていった。


 背中を見送りながら、背筋に薄い冷気が走った。


 理由は分からない。ただ、あの笑みには——何かが、足りない気がした。笑顔の奥に、表情がもう一枚ある。そんな印象。


 側近室に戻ると、ちょうど五の刻だった。


 わたしは書類を閉じ、筆記具を片付けた。


「殿下、本日の業務は以上です。失礼いたします」


 殿下はペンを回しながら、わたしを見た。何か言いかけたが、結局「ああ」とだけ言った。


 退勤。


 宿舎への帰り道、わたしは手帳を開いた。


『紋章確認結果:宰相府の紋章が記憶に最も近い。ただし確証なし。宰相ギルベルト——要注意人物。』


『侍女長の件:西棟地下倉庫の鍵。高価な備品へのアクセス。横領の可能性? 要検証。』


 二つの調査線が、同時に走り始めている。


 犯人探しと、不正の調査。別々の糸に見えるが、どこかで繋がっているかもしれない。


 宿舎の部屋に戻り、窓を開けた。


 夕暮れの空を見上げながら、わたしは小さく息を吐いた。


「推しに褒められた日は、格別に空が綺麗」


 独り言を呟いて、自分で赤面した。


 手帳にもう一行、書き足す。


『殿下が面会記録を褒めてくれた。推し最高。ぶふぉ。』


 ——仕事の記録にこんなことを書くな、わたし。


 でも消さない。


 ペンを置いて、明日の計画を立てた。明日は西棟地下倉庫の周辺を、退勤後に調べてみよう。侍女長がどんな頻度であの倉庫に出入りしているか、パターンを掴みたい。


 ランプを消す前に、手帳の最初のページを見返した。犯人の手がかり、不審点、紋章の候補。少しずつ、網の目が細かくなっている。


 まだ始まったばかりだ。


 でも、わたしには時間がある。前世と違って、今度は——殺される前に、真実に辿り着く。


 ランプを消した。暗闇の中で、殿下の「よく書けている」という声が反芻される。


 ——明日もまた、あの横顔を見られるのだと思うと、暗闇が少しだけ明るく感じた。


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