第29話 国王への直訴
壁を越えるには、壁より高い場所に立つしかない。辺境伯を倒すには——国王の力が必要だ。
殿下がわたしに告げた。
「父上に直訴する」
「国王陛下に?」
「辺境伯の不正と、前世の殺害事件。すべてを提示して、国王権限の発動を求める」
「殿下。国王陛下は宰相を信頼していると——」
「信頼しているのは宰相だ。辺境伯ではない。宰相自身が辺境伯の脅威を証言すれば、父上も動く」
「宰相が証言に応じますか」
「応じさせる。——宰相にとっても、辺境伯を排除する機会は、今しかない」
殿下の目に、かつてない決意があった。冷徹な完璧主義者が、初めて——父に助けを求めようとしている。
わたしは手帳を閉じた。
「殿下。わたしに何ができますか」
「証拠の整理だ。マルグリット、オルランド、ダリウス、辺境伯の私兵団。すべての不正を、一つの文書にまとめろ」
「かしこまりました」
「フラウ」
「はい」
「お前の前世の件も——文書に含める」
心臓が冷たくなった。
「コレット・ハイデンの殺害。辺境伯の指示による暗殺。それが、すべての不正の起点だ」
「殿下。それを国王陛下に提示するということは——わたしが転生者であることを」
「明かす必要はない。コレット・ハイデンの殺害は客観的な事実だ」
殿下の目が優しかった。
「調査の結果として提示する。お前の正体は関係ない」
殿下は、わたしの秘密を守りながら、真実を伝える方法を考えてくれている。
「ありがとうございます」
「礼はいい。——急げ。辺境伯が次の手を打つ前に」
◇
三日間。わたしは文書の作成に没頭した。
退勤後の時間も、休日も使った。殿下は「退勤時刻を守れ」と言ったが、今回だけは——わたしの方から残業を申し出た。
「殿下。今回だけ、退勤を遅らせます」
「理由は」
「この文書を完成させるためです。辺境伯が次の手を打つ前に」
「……許可する。ただし、三日だ。四日目からは定時で帰れ」
「かしこまりました」
トビアスが騎士団の情報を提供し、ベアトリスが社交ネットワークの証言を集め、エルヴィンが宰相府の内部記録を整理した。
エルヴィンの協力は、大きかった。宰相府の記録の読み方を知っている人間がいるだけで、作業速度が倍になった。
「エルヴィン。この記録の分類方式は」
「宰相府独自のものだ。年代ではなく、案件の重要度で分類されている」
「重要度の基準は」
「宰相個人の判断だ。つまり——宰相が何を重要と考えていたかが、分類順序から読み取れる」
「なるほど。では、最上位に分類されている案件は」
「……コレット・ハイデン関連だ」
宰相にとって、コレットの件が最も重要だった。二十五年間——ずっと。
ニナも動いた。ローザの行動記録を侍女部の仲間たちから集めてくれた。
「フラウさん。ローザ様の行動記録です。過去一月分」
「ニナ。ありがとう」
わたしはニナの手を見た。震えていない。
「危険はなかった?」
「大丈夫です。みんなで少しずつ集めました。一人が目立たないように」
「賢い方法ね」
「フラウさんに教わりました。『証拠は一度に集めるな。少しずつ、目立たないように』って」
わたしがそんなことを言った記憶がある。ニナは——成長している。
「侍女部には、フラウさんに助けてもらった人が何人もいるんです。マルグリット様に虐げられていた頃から、ずっと」
「わたしは在庫を——」
「数えただけ、でしょう? でも、あの一歩がなかったら、わたしたちは今も黙って耐えていたわ」
ニナの目が、真っ直ぐわたしを見ていた。もう、スカートの裾を握っていない。
ヴィルヘルミナも、最後のピースを提供してくれた。
「フラウ。これを」
「何ですか」
「二十五年前の歌劇団員の日誌の写し。コレット・ハイデンの追放の経緯が書かれている」
「ヴィルヘルミナさん。なぜ今まで——」
「答えを先に渡すと、あなたの調査が歪む。でも、今は——もう十分に自分の足で歩いたわ」
「この日誌には、辺境伯がコレットを標的にした記述もありますか」
「ええ。歌劇団員の一人が、辺境伯の従者から脅されたことを記録している。コレットの居場所を教えろ、と」
「当時から、辺境伯はコレットを追っていた」
「そう。二十五年間——ずっとね」
ヴィルヘルミナが微笑んだ。穏やかで——少し誇らしげな笑みだった。
文書が完成した。
マルグリットの横領。オルランドの収賄。
ダリウスの不正取引。辺境伯の私兵団。
特別予備費の二重記録。ローザの情報漏洩。そして——コレット・ハイデンの殺害。
すべてが一つの線で繋がっている。辺境伯クラインベルクという一点に向かって。
殿下が文書を読み上げた。
「これで足りるか」
「足ります。二重記録の存在が決め手です。正規記録だけなら言い逃れできますが、機密記録との差額が——辺境伯への不正送金の証拠になります」
「宰相の証言も必要だ」
「はい。宰相が辺境伯の脅威を証言し、二重記録の存在を認めれば——国王陛下も動かざるを得ません」
「宰相は証言に応じるか」
「応じると思います。宰相にとっても、辺境伯を排除する最大の好機です。二十年間一人で戦ってきた相手を、ようやく——公的に追い詰められる」
殿下が頷いた。
「行こう」
国王への直訴。王太子と側近が、二人で玉座の前に立つ。
廊下を歩きながら、殿下がわたしの横を歩いた。半歩の距離。
「フラウ」
「はい」
「ここまで来られたのは、お前のおかげだ」
「いいえ。みんなの力です」
「みんな、か」
「トビアス、ニナ、ベアトリス、ヴィルヘルミナ、エルヴィン。——そして殿下」
殿下の唇が微かに上がった。
「お前が一番に名前を挙げなかったのは、謙遜か」
「いいえ。わたしは側近です。仕事をする側です」
「……お前は、本当に——」
殿下の言葉が途切れた。代わりに、わたしの肩に手が触れた。軽く、短く。
——推しの手が、わたしの肩に。
呼吸が一拍止まった。でも、立ち止まらない。歩き続ける。
玉座の間の扉が、目の前にある。
——ここから先は、もう引き返せない。




