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第29話 国王への直訴

壁を越えるには、壁より高い場所に立つしかない。辺境伯を倒すには——国王の力が必要だ。


 殿下がわたしに告げた。


「父上に直訴する」


「国王陛下に?」


「辺境伯の不正と、前世の殺害事件。すべてを提示して、国王権限の発動を求める」


「殿下。国王陛下は宰相を信頼していると——」


「信頼しているのは宰相だ。辺境伯ではない。宰相自身が辺境伯の脅威を証言すれば、父上も動く」


「宰相が証言に応じますか」


「応じさせる。——宰相にとっても、辺境伯を排除する機会は、今しかない」


 殿下の目に、かつてない決意があった。冷徹な完璧主義者が、初めて——父に助けを求めようとしている。


 わたしは手帳を閉じた。


「殿下。わたしに何ができますか」


「証拠の整理だ。マルグリット、オルランド、ダリウス、辺境伯の私兵団。すべての不正を、一つの文書にまとめろ」


「かしこまりました」


「フラウ」


「はい」


「お前の前世の件も——文書に含める」


 心臓が冷たくなった。


「コレット・ハイデンの殺害。辺境伯の指示による暗殺。それが、すべての不正の起点だ」


「殿下。それを国王陛下に提示するということは——わたしが転生者であることを」


「明かす必要はない。コレット・ハイデンの殺害は客観的な事実だ」


 殿下の目が優しかった。


「調査の結果として提示する。お前の正体は関係ない」


 殿下は、わたしの秘密を守りながら、真実を伝える方法を考えてくれている。


「ありがとうございます」


「礼はいい。——急げ。辺境伯が次の手を打つ前に」





 三日間。わたしは文書の作成に没頭した。


 退勤後の時間も、休日も使った。殿下は「退勤時刻を守れ」と言ったが、今回だけは——わたしの方から残業を申し出た。


「殿下。今回だけ、退勤を遅らせます」


「理由は」


「この文書を完成させるためです。辺境伯が次の手を打つ前に」


「……許可する。ただし、三日だ。四日目からは定時で帰れ」


「かしこまりました」


 トビアスが騎士団の情報を提供し、ベアトリスが社交ネットワークの証言を集め、エルヴィンが宰相府の内部記録を整理した。


 エルヴィンの協力は、大きかった。宰相府の記録の読み方を知っている人間がいるだけで、作業速度が倍になった。


「エルヴィン。この記録の分類方式は」


「宰相府独自のものだ。年代ではなく、案件の重要度で分類されている」


「重要度の基準は」


「宰相個人の判断だ。つまり——宰相が何を重要と考えていたかが、分類順序から読み取れる」


「なるほど。では、最上位に分類されている案件は」


「……コレット・ハイデン関連だ」


 宰相にとって、コレットの件が最も重要だった。二十五年間——ずっと。


 ニナも動いた。ローザの行動記録を侍女部の仲間たちから集めてくれた。


「フラウさん。ローザ様の行動記録です。過去一月分」


「ニナ。ありがとう」


 わたしはニナの手を見た。震えていない。


「危険はなかった?」


「大丈夫です。みんなで少しずつ集めました。一人が目立たないように」


「賢い方法ね」


「フラウさんに教わりました。『証拠は一度に集めるな。少しずつ、目立たないように』って」


 わたしがそんなことを言った記憶がある。ニナは——成長している。


「侍女部には、フラウさんに助けてもらった人が何人もいるんです。マルグリット様に虐げられていた頃から、ずっと」


「わたしは在庫を——」


「数えただけ、でしょう? でも、あの一歩がなかったら、わたしたちは今も黙って耐えていたわ」


 ニナの目が、真っ直ぐわたしを見ていた。もう、スカートの裾を握っていない。


 ヴィルヘルミナも、最後のピースを提供してくれた。


「フラウ。これを」


「何ですか」


「二十五年前の歌劇団員の日誌の写し。コレット・ハイデンの追放の経緯が書かれている」


「ヴィルヘルミナさん。なぜ今まで——」


「答えを先に渡すと、あなたの調査が歪む。でも、今は——もう十分に自分の足で歩いたわ」


「この日誌には、辺境伯がコレットを標的にした記述もありますか」


「ええ。歌劇団員の一人が、辺境伯の従者から脅されたことを記録している。コレットの居場所を教えろ、と」


「当時から、辺境伯はコレットを追っていた」


「そう。二十五年間——ずっとね」


 ヴィルヘルミナが微笑んだ。穏やかで——少し誇らしげな笑みだった。


 文書が完成した。


マルグリットの横領。オルランドの収賄。


ダリウスの不正取引。辺境伯の私兵団。


特別予備費の二重記録。ローザの情報漏洩。そして——コレット・ハイデンの殺害。


 すべてが一つの線で繋がっている。辺境伯クラインベルクという一点に向かって。


 殿下が文書を読み上げた。


「これで足りるか」


「足ります。二重記録の存在が決め手です。正規記録だけなら言い逃れできますが、機密記録との差額が——辺境伯への不正送金の証拠になります」


「宰相の証言も必要だ」


「はい。宰相が辺境伯の脅威を証言し、二重記録の存在を認めれば——国王陛下も動かざるを得ません」


「宰相は証言に応じるか」


「応じると思います。宰相にとっても、辺境伯を排除する最大の好機です。二十年間一人で戦ってきた相手を、ようやく——公的に追い詰められる」


 殿下が頷いた。


「行こう」


 国王への直訴。王太子と側近が、二人で玉座の前に立つ。


 廊下を歩きながら、殿下がわたしの横を歩いた。半歩の距離。


「フラウ」


「はい」


「ここまで来られたのは、お前のおかげだ」


「いいえ。みんなの力です」


「みんな、か」


「トビアス、ニナ、ベアトリス、ヴィルヘルミナ、エルヴィン。——そして殿下」


 殿下の唇が微かに上がった。


「お前が一番に名前を挙げなかったのは、謙遜か」


「いいえ。わたしは側近です。仕事をする側です」


「……お前は、本当に——」


 殿下の言葉が途切れた。代わりに、わたしの肩に手が触れた。軽く、短く。


 ——推しの手が、わたしの肩に。


 呼吸が一拍止まった。でも、立ち止まらない。歩き続ける。


 玉座の間の扉が、目の前にある。


 ——ここから先は、もう引き返せない。


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